疲れ果てる

 要因はさまざまあるが、すっかり疲れ果てた。文字通り動けなくなるのだ。仕方なしに早寝をする。そして、いつも通りの早起きだ。朝は気力もありもう大丈夫だと思う。しかし、午後になると徐々に疲れがぶり返す…という毎日だった。「もう若くはないんだわ」どころの話ではなく、「あぁ、本当に歳をとってしまったのだ」と思う。
 そんな時に、『老齢基礎年金への加算金に関する手続きのお知らせ』なるハガキが届いた。何のことやらわからず、よくよく読んで少しわかってきた。だが、この手続きがかなり厄介である。請求手続きの手順を読もうにも文字が小さくて読みづらい。そのうえ、必要な書類がいくつもある。区役所へも行かねば、年金事務所にも行かねば…。こうして、「歳をとるというはこういうことが増えるということか」と思うが、思うだけでは十分ではない。納得しなければいけないのだろう、たぶん。

2017年9月21日 8:46 | コメント (0)

刺激が欲しい!

 今日のサンヤツ(朝日9/12)にあった『「マコトよりウソ」の法則』外山滋比古著。『常識の枠をはずせば、自由な頭からおもしろい発想が生まれる。「オモテよりウラ」を楽しむ知の刺激剤!』という本である(傍線はワタシ)。他人の人生術に興味はないが、私はときどき「刺激が欲しい!」と叫ぶ。つまり、知の刺激剤が欲しいということである。そのたびに若い人からは「お茶の水へ行け!」と言われる。
 お茶の水に何があるのか?などと思う必要はない。お茶の水の大学院へ行けという意味だ。若い人曰く、ここは敷居が低いから誰でも入れる…と。そういう話じゃないと言うと、講演会や研究の発表会などに誘われる。実際、何度が行ってはみたが、十分飢えを満たすほどではない。では、どんな刺激が欲しいのだ?と問い詰められると…答えられない。
 考えてみれば、私もすぐに70歳代に突入する。徐々に身体の内外のバランスが乱れてきた。視力が著しく低下し、読むのも書くのもかなり辛い。iPhoneアプリ「hinadan」の開発者である若宮さんは82歳だという。テレビで見たが、なんとメガネをかけていないのだ。素眼でパソコンに向かっていた。
 「マコトよりウソ」「オモテよりウラ」は、ありふれた表現をすれば発想の転換だ。視力が低下してさまざまな事が困難な状態で「刺激が欲しい!」と叫んでも無理がある。老化が原因の視力低下である。若返りの水を飲みすぎて、赤ちゃんになってしまったおじいさんの昔話があったっけ…などと意味もないことを思い出す。私の「刺激が欲しい!」は、もしかしたら、たぶん、もしかしたら、たぶん、自身の老化への抵抗かもしれない?

2017年9月12日 10:37 | コメント (0)

騙し騙され

 「オレオレ詐欺」の電話を一度は見破った83歳の女性が、偽警官の「だまされたふり作戦」に騙され100万円をだまし取られという。気の毒な話である。
 そもそも警察官がプロの詐欺師を騙そうなんてムチャである。誰を信じ、何を信じていいのかわからない。身分証明書の提示を求めたとしても、それが本物か偽物かわからない…では、どうすればいいのか。まずは冷静になることか…。冷静になって、事の経緯を振り返ってみるといいかもしれない。嘘には必ずつじつまが合わないところがあるものだ。冷静に論理的に考えて、それを見極めるのがいいかもしれない。
 私の住む地域はオレオレ詐欺が多いと言われている。そのため、警察から頻繁に注意喚起の電話がかかってくる。しかし、その電話さえ本当に警察からなのかどうかわからない。とりあえず、電話は常に留守電にしておく。かけてきた相手が誰かわかるような設定にする。ある種の水際作戦である。この方が「だまされたふり作戦」よりずっと効果的ではないか?

2017年9月 9日 9:53 | コメント (0)

それぞれの老後

 何かと忙しかった日々もやっと終わり、あと1時間ほどでオットは成田から飛び立つ。そして、2年の予定の海外赴任が始まる。
 65歳以上を高齢者と呼ぶなら我々も高齢者である。その生活は老後の生活と位置づけられる。何をするにも一緒、四六時中顔を合わせている高齢者夫婦もいれば、老後の夢はふたりで海外旅行…と世界中を走り回っている高齢者夫婦もいるだろう。あるいは、ひなが一日することもなく、テレビを見ながら喧嘩を繰り返している高齢者夫婦もいるかもしれない。人それぞれ、それぞれの老後である。
 我々は…といえば、かなりの変わり者なのかもしれない。今回は、家族が同行することも可能ではあったが、私は同行できない状況でもあり、また、窮屈な海外の日本人社会に恐れをなした(コレは内緒)こともあり、日本に残ることにした。この年齢でそんな生活に不安はないのかといわれれば、不安がないわけではない。しかし、すべては何とかなる、言い換えれば、なるようにしかならないと思っている。結婚して以来かなりの年月が経過したが、オットは国内単身赴任や、数か月から1年くらいの海外赴任の繰り返しであった。別々の土地で暮らす、そういう距離感が性に合っているのかもしれないと思う。
 単身であっても、生活の拠点を移すというのは準備が大変である。10〜15sのダンボール箱を9個も送った。家族同伴で赴任するとなればその何倍も大変である。若い人であれば気力も体力もあるだろう。しかし、しかし、高齢者はその両方ともがおぼつかない。明日からしばらくはどぉ〜っと疲れが出そうである。

2017年9月 5日 10:15 | コメント (0)

9月の新学期

 東京新聞「筆洗(8/28)」に、『残念ながら、新学期の到来を告げるチャイムが耐えきれぬほど重く暗く聞こえる子どもがいる。内閣府の調査によると過去、新学期が始まる地域の多い九月一日は十八歳以下の子どもの自殺が最も起こりやすいという』…とあった。その9月1日はすぐにやって来る。学校という場所は、なぜそれほどまでに子どもにとってつらい場所なのか…私は今以てわからないが、誰にでも、やがては、いつかは、「学校へ行こうかなぁ」と思える時が来ると私は思いたい。
 中高一貫女子校の高1の4月新学期から、私にとって学校は耐え難いほど辛い場所になっていた。登校拒否という言葉も不登校という言葉もなかった時代である。休んで家にいても、耐え難いほど苦しいのは同じ。自ら望んでというわけではなかったが、私はカウンセリングを受けることになった。初めは全身全霊で拒否していたが、ある一瞬その医師と私の間に細い糸が1本つながった。この大人は信用してもいいかもしれないと思った瞬間であった。
 信頼関係ができれば、多くの言葉は不要である。私は思うことを書き連ねたモノを持っていくだけ、真摯に私と向き合ってくれた医師は私の前でそれを黙って読むだけ…という面会が続いた。そして夏休みが終わろうとしていたある日、私は突然「9月から学校へ行こうかな」と思い、何の説明も付けずそれを伝えた。医師からはひとこと、「その言葉を待っていたんだよ」と返ってきた。私は無言でうなずいた。
 再び行き始めた学校に変化があったわけでもなく、私の何かがが変わったわけでもない。だたその時が来ただけだったのだ。私のまわりに信用できる大人がいないのもこれまで通り、学校がつまらない場所であるのもこれまで通り。ただ、そういうことはどうでもよくなっていた。ツマラナイ授業を受け、家では時間を忘れて数学ばかり勉強していた。女子高しか知らないような先生とは全く違う、公立を定年で退職し女子高に来たオジイチャンの数学の先生に認められ、たとえようもなくうれしかった。自信になった。 
 『悩む子どもは大人に助けを求める「キンコンカンコン」を鳴らしているはずである。ただ、その音は極めて小さい。感度の良い耳を備えたい。大人の夏の最後の宿題である』…と、東京新聞「筆洗」の筆者は言う。大人に自分の問題と捉えよといっているのだと思う。学校としてはどうのこうのとか、指導がどうのこうのとかではだめだということではないか、と思う。

2017年8月29日 8:51 | コメント (0)

丸の内を行く

 丸の内といえば、暑い夏の日も雨の日も、台風の日も雪の日も、仕事に行く人々が足早に行きかう場所である。看板のない高層ビルがそびえている。その丸の内にある銀行の本店へ用を済ませに出かけた。メモした地図を頼りに、見当をつけて歩くと、ほどなくそのビルらしきものが見つかった。それにしても大きなビルだ。見上げるとふらつきそうだったので、前を見て歩く。本店のフロアはビルの大きさに比例して広々としていた。その一角に外貨両替コーナーはあった。
 近くの銀行支店では、外貨はセット販売のみだという。セット販売では必ず少額紙幣が混じる。旅行ではない場合、小額紙幣は不要だという。空港にも必ず外貨両替コーナーがあるが、予め時間のある時に両替をしておきたいという。そんなこんなの事情で〇菱〇京〇〇〇銀行へ。店内がすいていたこともあり、すぐに用は済んだ。行員が目の前で紙幣を数えて見せるので、自分で数えて確認する必要もない。
 ビル、ビル、ビル…を脱し、イチョウ並木を通り抜けるとすぐに皇居前だ。気候の良い季節であればちょっとお散歩という手もあるが、この暑さではそんな気は微塵も起きない。丸の内だ、東京駅だ、さぁ帰ろう…、であった。

2017年8月28日 14:51 | コメント (0)

本づきあい

 立派な本棚にずらりと本を並べる蔵書家と呼ばれる人たちがいる。それらには蔵書印がしっかりと押されている。本の数がどんなに多くても、部屋中に積み上げてあるだけでは蔵書家とは呼ばれない。読んだ本の数を誇る読書家と呼ばれる人たちもいる。ひと月に何冊、1年に何冊と目標を決めて読んでいく。目標などなく、ただ本を読むことが好きで、常に何かを読んでいるという人もいる。
 私はそのどちらでもない。人づきあいは全くよくないが、本づきあいはいいのである。子どもの頃に外で遊んだことがない私は、当然の結果として人づきあいがよくない。家にはなんとか全集のようなものがたくさんあったので、読むことには事欠かない。近所の本屋のおばちゃんが毎月届けに来るのは、暮らしの手帳と文芸春秋である。どうかと思うが、母親は家事はまったくしないのに文芸春秋を読む人であった。かくして私は人づきあいは苦手だが、本づきあいは自然にできるようになったのである。
 まもなく夜長月である。読みたい本リストで順番待ちをしているものの中から、まずは「植物一日一題」牧野富太郎著と「台所のラジオ」吉田篤弘著を買おう。久しぶりに大きな書店へ行って買おうか…。大きな書店には本の検索ができるPCが置いてあるが、私はどこかなぁ?このあたりかな?と探すのが好きである。そして見つけたときには、オッ、ありましたありました!といそいそと手に取りレジへ急ぐのである。

2017年8月27日 9:04 | コメント (0)