優しさとは?

 朝日新聞の生活面の投稿欄「ひととき」に載った74歳女性の「優しさ満ちたバス」と題した投稿について、私は大いに疑問を感じた。3歳と4歳の孫娘の体操教室からの迎えを頼まれた投稿者、3歳児がバスに乗るときの「カードのタッチをやりたかった」とぐずり床に座り込んで泣き出した、いくつかのバス停を過ぎた頃、運転手が「次のバス停で降りてもう1度乗り直してよい」とアナウンスした、その言葉に甘えた投稿者、3歳児は満足し眠りに…。3歳児の願いを聞いてくれた運転手に感謝、混んでいたバスで騒がしい子どもに文句を言わず席を空けておいてくれた乗客に感謝。この事態を「ご迷惑をおかけしたが、心温まるうれしい出来事でした」と結んだ投稿者。
 走行中の車内の安全と秩序を維持するのは運転手の重要な仕事である。運転手は心優しさからこのような提案をしたのではないかもしれないではないか。さらなるトラブルを未然に防ぐための策だったのではないか。他の乗客は関わりたくなかっただけかもしれないではないか。内心では早く降りてくれ〜と思っていたかもしれない。
 3歳児であれば、公共の場でしてはいけないことはしっかりと教えなければならない。投稿者も大人としてやるべきことをやらず、恥ずかしげもなくこのような投稿をするとは…。このような投稿を掲載する新聞社も「〃」である。
 「ご親切に小さい子どもの願いを聞いて下さった運転手さん」と書く投稿者に心底呆れた。ソレは、子どもの願いではなく子どものわがままである。まず、大人がそう認識できなければ正しい判断も行動もできない。運転手の取った策は最善ではないが、言っても駄目だろうな…という時の手っ取り早さを優先した策だったと思う。

2018年4月 7日 8:23 | コメント (0)

太陽の塔、再び

 太陽の塔の内部の一般公開が始まった…そうだ。何故、今、なのかは知らないが、上野の子パンダ同様に予約しなければ入館できない。しかも予約は、『おかげさまで大変多くの方にお申込みいただき、予約可能枠がほぼ埋まっています。ご了承ください。なお、予約は先着順で入館希望日の4カ月前から受け付けています』という。それでも行きたい、見たいという人がたくさんいるらしい。
 太陽の塔といえば大阪万博、大阪万博といえば1970年である。1970年といえば私は20歳。行きたい見たいということではなかったが、機会があり出かけた記憶がある。ただただ人が多くどの館も行列に次ぐ行列で、何ひとつ見学することはならず、その会場内にいたというだけであった。その当時の太陽の塔は、度肝を抜く奇抜な建造物という印象だった。48年たった現在の太陽の塔はたぶん若い人に受けるだろうなぁと、私でも思う。
 テレビを見ていたら、「大阪万博の時は自分は18歳で、見に行ったけれど人が多くて何も見られなかった」と60代のコメンテーターが話していた。大阪万博、最初の東京オリンピック、東海道新幹線開通…、ある年齢以上の人は必ず「そのとき私は○歳だった」と言う。たぶん…、昔はこういった出来事が鮮明な記憶として残る時代だったのだろう。

2018年3月22日 7:51 | コメント (0)

「本」を読む量の減少

 みすず書房のニュースレターの「壱岐坂だより(みすず書房のスタッフが交代で書いている)」にこんなことが書いてあった。
変化に戸惑い、愚痴るのは老化のあらわれですが、「本」を読む量の減少に気づきはじめてからは、愚痴とばかりは言っていられません。デジタルの時代、変化を嫌うならば、読書の時間は増えても良いはずなのに、です。時間が無いというのが定番の言い訳ですが、一冊も読んでいない月も出てくるようになると、焦りを感じます。「近頃どんな本を読んでいるのか」というなにげない会話にも、いらぬ緊張を強いられることになります。ほかの言い訳もありますが、すべて自分への弁解でしかなくさらに落ち込みが増します。
買うことでプレッシャーをかければ読むかと思い、書評で紹介され、気になる本を購入しますが、実はそうでもなく図書館で借りて、返却期日を気にしながらという方が進んだりもします。先日、購入したある一冊に「本が好き」と書かれた栞が挟まれていました。そっと書店の方が入れてくれたようですが、簡単に「本が好き」などとは言っていられない現在の心境です。

精神衛生と今後のためにさらに理由を考えてみました。物理的な「老化」がもっとも無難ですが、実は、最も大きな理由は日常生活のなかで文字情報を読むことが多すぎるからだとは感じていました。メールのやりとりや情報収集、通販サイト、数限りありません。契約さえもがサイト上でとなれば、いやがうえでも文字(情報)を読み理解しなければなりません。同意しなければその先に進めないので、同意内容までチェックします。もともと人の言うことを素直に聞けない性格ですから、簡単に同意はしたくなく、ますます文字を読み理解するという労力は増え続けます。速すぎる変化へ懸命になって対応したあげく時間はかさみ、疲れていく。私にとってはこれが最大の原因なのです。

大学生が本を読まないと嘆く声は多く、事実読書量は多くはないでしょうが、「なぜ、本でなければいけないのか」と問われれば、知識は本でなければ身につかないと説得力のない答えを用意するしかありません。逆に「なぜ、本でなければいけないのか」と素直に言えることへのうらやましささえ感じてしまいます。今年もJRのダイヤ改正を直前に控え、購読を続けてきた「時刻表」からも遠ざかっているこの頃、ただ「本が好き」と語れる日が来るのを待ちわびています。(mh)

 すぐに手にすることができる場所に置いた「台所のラジオ」(吉田篤弘著 角川春樹事務所ハルキ文庫)と「植物一日一題」(牧野富太郎著 筑摩書房ちくま学芸文庫)を横目でちらちら見ながら、毎日うつうつとした気分に陥っているこの頃である。

2018年3月14日 7:10 | コメント (0)

この部屋を出てゆく

 『この部屋を出てゆく/ぼくの時間の物差しのある部屋を』、『ぼくがかなしいのはむろん/そのためじゃない/大型トラックを頼んでも/運べない思い出を/いっぱい残してゆくからだ』、『かならず/とりにくるよ/』
 今朝の天声人語で紹介されていた、関根弘さんの詩「この部屋を出てゆく」の(天声人語氏による)抜粋である。私も何度か引越しをしたが、思い出を残してゆくというのは理解できない。何故だ?と自分でも思う。これまでに住んだ土地にも家にも部屋にも馴染めなかったからか? 執着もなく何も残さず次の土地へ家へ引っ越してきた。何かから逃れるように?いや、そうではない。前方(恰好をつけて言えば未来、将来か…)しか見ていなかったのだ。周囲の反対を振り切って結婚するために実家を出て西へ…、オットが勤めていた会社が倒産寸前になり新しい勤め先を得てさらに西へ…、子どもが生まれ子育てができる環境を求めて現在の家へ…。
 それにしても、なぜ私は、思い出を残してゆくとかそれをかならずとりにくるよという気持ちが理解できないのだろう? 何故だ?

2018年3月 9日 9:12 | コメント (0)

アメリカ的思考

 新聞記事によると、先日のアメリカ・フロリダ州の高校での銃乱射事件をうけて開かれた高校の生存者や遺族との話合いのなかで、訓練を受けた教員や学校職員に構内で銃を携行させる案が出たという。それに対しトランプさんは「解決策になり得るアイデア」だと評価したそうだ。銃規制を訴える人々もいる中で、全米ライフル協会は銃規制はもちろんのことライフルやショットガンの購入年齢の引き上げさえ、「憲法で保障された自衛の権利を奪うことになる」と主張しているという。いかにもアメリカ的思考だなぁと思った。
 私は自衛の権利という言葉にとても引っかかる。日本でも、自衛の権利として自衛隊が現に存在しているが、憲法の中にその言葉があるのかどうかは良く知らない(たぶん無いと思うが)。何人も犯してはならない生存権というのは確かあったと思う。
 自衛の権利のもとに銃社会が成り立っており、それはアメリカの伝統であり文化であるということなのだろう。だからこそ、多くの人が銃乱射事件で亡くなっても、ソレが何度も何度も繰り返されても、銃規制をしようということにならないのだろうと思う。辞書を引くと、伝統とは「自信と誇りを持って受け継ぐ」ものだと書いてある(コレは手ごわいぞ)。文化とは「その人間集団の構成員に共通の価値観を反映した物心両面にわたる活動の様式」だとある(これは変化していくものだよ〜、変えていけるものだよ〜)。
 自衛の権利があるからと銃を持てば、必然的に撃たれる前に撃つということになる(先に撃たなければ銃を持っている意味がない)。ある意味では原始的社会だなぁと思う。生存権という言葉に変えて考えれば、互いに相手の生存権を侵害したり奪ってはいけないということを理解しやすいではないか?人の命はたとえようもなく尊いもので尊重しなけらばならないというのは、世界共通の価値観ではなかったか?若い人の命をむざむざと失ってはいけないということを、アメリカは過去の戦争から学んでいないのだろうか?

2018年2月23日 8:43 | コメント (0)

トロポジー感覚

 朝日新聞の文化・文芸面の「福岡伸一の動的平衡」はちょっと面白い。今日は「内部の内部は外部」というハナシ。禅問答の瓢箪で鯰を捕まえるには?というハナシから逆転の発想へつながり、トロポジー(位相幾何学)的思考から生物学におけるトロポジー感覚のハナシへと移り、つまり「内部の内部は外部」という結論に落ち着く。なかなか面白い。トロポジーといっても難しいし、位相幾何学などというとさっぱりわからないけれど、『簡単に言えば空間的な把握力のこと』と説明してもらうと、あぁそういうことねと納得がいく。
 生物は多かれ少なかれストレスを感じるものだ。人間についていえば、人はストレスを発散するために〇〇をする、などという。ストレスは体内から体外へ出すべきものであると捉えている。あるとき、私は気がついた。ストレスを発散しなきゃと考えること自体がストレスではないか。それならば、ストレスを食べちゃえ〜と思ったのだ。福岡伸一サンが言うところの「内部の内部は外部」である。体内のゴミ箱に放り込んで蓋をしちゃえ〜、というわけだ。そう考えるようになってからとても楽になった。ストレスがわらわらと湧いてきたら体内ゴミ箱にポイだ。ポイ捨ては人間にとってある意味では爽快なのだ。
 ポイ捨てが爽快だからといっても、外部へのポイ捨ては周りの人が迷惑する。タバコのポイ捨ては本当に迷惑である。マンションでは、自室で吸うのは部屋が汚れるなどと思うのか、ベランダで吸ってポイと捨てる人がいる。アメリカ軍基地の戦闘機が離陸直後にエンジンから出火したからと、近くの湖に燃料タンクを投棄したという。基地の中ではなく外にポイ捨てしたのだ。それがどんなに美しい湖であり豊かな漁場であろうがそんなことは自分には関係ないということか。
 地球の周りに宇宙が広がっているというイメージをいだきがちだが、地球は宇宙の中に取り込まれているという感覚を持つといろいろなことが違って見えてくる。…というわけで、福岡伸一の動的平衡はなかなか面白い。

2018年2月22日 10:13 | コメント (0)

DVDを観る

 MUSEのCDを買ったらDVDとセットだった。せっかくだから観ることにしたが、機器の操作法がわからない。TOSHIBA REGZA DBR-Z420の取扱説明書を引っ張り出した。まずディスクを入れなければ何も始まらない。恐る恐るOPENのボタンを押すと…大変なことになっていた。ディスクをのせるトレーが埃まみれだ。ギョッとした。思い起こせばこんなところまで念入りに掃除をしたことはなかった。
 無事にDVDをセットできて、再生が始まった。そもそもロックのライブなど見たことがない私には比べようもないが、十分に楽しめるものだった。ひとことで言えば、とても凝っている。
 ブルーレイディスクレコーダーは、以前から使っていたテレビ台に乗せてあった。古い古いテレビ台なので奥行きはかなりある(中は2段の棚になっていてガラス戸がついている)。薄いモニターを置いても前が空いている。ケーブルをいくつも繋がなくてはならないので、モニターの前にディスクレコーダーを置いたのだ。ディスクレコーダーもパソコンなどと同じで、裏側から空気を取り込んで?熱くなるのを防いでいる?のか…?と気づくべきだった。
 新しいテレビ台(2段の棚)を買うことにした。奥行きは30p。上段に置くことにした。裏側はケーブルを通す直径5p程の穴があるだけ。下段にはミニコンポ。すっきりした。DVDの再生法もわかったし、レンタルDVDというのもあるらしい。ちょっとだけ…だが、世界が開けた気がする。
最近、花札を始めた。息子の帰省時にいちから教えてもらいながら「こいこい」とやっている。まだまだ初心者で役などが覚えきれないでいるが、新しいことを始めるのはちょっと楽しい。

2018年2月 6日 9:18 | コメント (0)