貴重な一冊

 本が本を呼び、その本に誘われて、思わぬ世界へたどり着く。先日、予約件数がゼロになって図書館へ戻ってきていた「ぼんやりの時間」を借りた。その最初のページに取り上げられていたのは串田孫一さんだ。うれしくて、おもわずウフンと笑みがもれた。

 著者の辰濃和男さんも串田孫一さんの本を繰り返し読んでいるという。そうでしょうとも、そうでしょうともと肯きながら読み進む。すると、「湧き水」という言葉があった。『串田の数々の文章を読み、それらはみな、長い黙想のなかで湧き水のように流れでてきたもの、という感じを私はもっている』、と辰濃さんは書いているのだ。驚くとともに、そうなのよ、そうなのよ、そうなのよ!と叫びたくなった。串田孫一集を読みながら私が思ったのもまた、串田さんの文章はまるで「山の湧き水」のようだということだったのだ。

 「串田孫一集8」のどの辺りだったかは手元に本がない今正確にはいえないのだが、文章は思ったまま感じたままを書いていてはだめだという意味のことが書いてあった。串田さんの日記の文章と、これまで読んできた1冊の本として完成された文章を思い起こすと、その意味がよく理解できた。「思ったまま感じたままの文章は、例えるなら水道水(感動したから、「感動した!」と叫ぶようなもの)だ。それに対して串田さんの本の文章はまるで山の湧き水だ」…と、そのとき私は思ったのだった。湧き水にたどり着くまでにはどれほどの時間と深い深い思索があったことか…と思い、だからこそ読む私の心をとらえて離さないのだと確信した。

 また、「子どもの場合も、ぼんやりすることは大切だろう」とも書いてある。私はこれにも大きく肯いた。串田さんは、『ぼんやりするのは、ちょうど蛹の時期にあたると思っていい。羽化するためには、蛹となって静かに瞑想しているような長い時期がどうしても必要である』とも書いているという。本当にそう…と私は思っているが、それを理解しない人は多い。子どもは小学校の時期から、ぼんやりすることを許されない。私は息子の小学校(3年生の頃)の担任に直談判して訴えたが、全く理解を得られなかった。

 「ぼんやりの時間」を読んでみようと思う人は少ないかもしれないが、お薦めの1冊である。
2010年7月25日 9:36 | コメント (0) | トラックバック (0)
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