”差をつける”ことと”差をなくす”ことと

 毎朝、新聞にひととおり目を通すのは日課である。ついでにチラシにも目をとおすのだが、今朝は「朝日中学生ウイークリー」のチラシが気になった。そこには、”週1度、読めば差がつく!”と大書きしてあった。この”差がつく!”とは、何の差なのか?読んでいなかった頃の自分と読み出してからの自分に差がつくのか?たぶん、そうではないだろう。読んでない友達や同級生と差がつく…という意味と考えるのが妥当か?たぶん、そうだろう。
 いわゆる教育格差をなくすためかと思うが、今回与党となった民主党は「公立高無償化」を公言している。国は粒ぞろいのどんぐりの生産を目指そうとしているのに対して、世の中の動きはいかにして”差をつける”か?に熱心だ。

 何のために教育をするのか(教育を受けるのか)?といえば、人としてよりよく生きるためである。しかし、あなたと私は違うし、あなたの人生は私の人生ではない。粒ぞろいのどんぐりばかりでは、あなたも私も誰もみな、この世で生きてはいけない。とうの昔から、わかりきったことである。無償有償に関わらず、私が私となるための教育がなされているか?というと、かなり疑問である。

 東京都の区立中高一貫校では、「中学段階を終えた1期生の生徒のうち、1割強に当たる18人が「学習態度に問題がある」などとして高校段階に進まず、他の学校に入学していた」という。09年度の倍率は「区民枠」1.7倍に対し、「都民枠」10.0倍と大きな差があったため、高校段階に進まなかった18人のうちの16人は、「区民枠」選抜で入学した生徒だったそうだ。
 それについて、国際基督教大学教授は「学校の責任放棄」であるとコメントしていた。「入学させた生徒については責任を持って卒業まで面倒をみよ」ということだろうが、それはその状況で可能なことなのか?区民枠・都民枠などと分けなければ、起きなかった問題ではなかったか。さまざまな検証が必要な内容で、一概に「学校の責任放棄」とはいえないのではないか…と思う。

 千代田区教委の統括指導主事は「習熟度別の授業など、個々の生徒に応じた指導を充実させたい」といっているそうだが、そもそも公立の中高一貫校との意義は何か?その位置づけはどうなのか?といったことがあいまいなまま中高一貫校を作ったことに問題があるのではないのか。生徒の立場からいえば、習熟度別が一番いいことはわかりきっている。「公立校はすべて習熟度別」にする、それだけのことができない理由は何なのか?そこから考えていけば、この国がどのような教育を国民に施したがっているかが見えてくるかも。
2009年9月 7日 10:26 | コメント (0) | トラックバック (0)
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