持論など

 まもなく裁判員制度が実際に始まるというので、朝日新聞では連日、取材した候補者の思いを紹介していくという。私は幸い?まだ候補者にはなっていないが、さまざまな記事を見ていて気になることがある。それは、多くの人が「人を裁く」と考えているらしいことだ。もちろん私は門外漢なので正確な知識はないが、「人を裁く」のではなく「行為を裁く」のだ思っている。裁くとは「善悪理非の判断をする」ことだ。 
 
 そもそも私たち人間には、同じ人間を裁くことなど到底できない。その行為が、社会において許されない犯罪であると規定されていることに合致するかどうかを判断するのだと思う。そう考えている私は、裁判で被害者の人柄等々が、写真などを使ってまで云々されることには違和感を感じている。
 善人であったから、あるいは無垢な子どもであったから、働き盛りのよきパパやママであったから、被害者にされてはならないのか?それが、悪人であったり、ホームレスであったり、社会的貢献度の低い高齢者であたりすれば、被害者にされても加害者の罪は軽いのか?そんなことはないし、それこそ、そんなことは”あってはならないこと”だ。

 また、加害者に知的障害や精神障害があった場合、あるいはそういったことがなくても犯罪実行時に心神喪失状態だったとされた場合、それを理由に罪は問えない(責任能力はない)とされたりすることがあるが、これは違うと私は思っている。加害者に知的障害や精神障害があった場合でも、責任を負わせなくてはいけないと思う。そうすることによって、学んでもらいたいと思う。その上で、それまでなされるべきケアがなされていなかったならそれをしなければならないのだと思う。

 犯罪実行時に心神喪失状態だったとされた場合、当然責任を負わねばならない。犯罪を犯さないまでも、誰でも日常において常軌を逸した精神状態になることはある。しかしその責任は、誰しも自分でとっているはずだ。ストレスを万引きや痴漢の言い訳にする人が多いが、だからといってそれらが犯罪でなくなるわけではない。

 裁判員制度の意義のひとつに一般人の常識的な判断を取り入れるということが挙げられていたように記憶するが、常識ほどあいまいなものはないし、それはたぶんに情緒的である。裁くとは「善悪理非の判断をする」ことであるとすれば、それに必要なのは理性的な論理、確立された倫理であるべきだ…と私は思っている。以上のことから、裁判員制度は不要である…というのが私の持論である。
2009年4月21日 10:24 | コメント (0) | トラックバック (0)
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