難問

 今朝の起床もいつもどおりの4時半だった。朝一番に窓を開け、ベランダに出ると「山の朝」のような空気だった。深呼吸をして胸一杯に空気を吸い込みたくなるような山の朝の気配がした。見まわすと、新緑の季節が始まっていた。私はこの季節が一番好きだ。5月生まれということもあるが、生き返ったような、命の始まりが戻ってきたような、そんな気分になる。冬はできることなら冬眠したいと思っていたのに、体の隅々が、い・き・て・い・る・よとつぶやいているかのようだ。簡単に言えば、異様にハイになるのだ。明日からは我が季節、5月である。

 「あたまの目 人生の見かた」(外山滋比古・著 みすず書房)をちょいちょいと拾い読みしている。「不幸を食う幸福」と題した節に、次のようなことが書いてあった。
 「知り合いが病気になっても見舞いに行かない人がいる」、と。「その人が言うには、見舞いは病人の弱味につけこむ自己満足だとなる」、と。「われわれには人の病気によって自分の健康を実感し、幸福だと思う不都合な心情がある」、と。またこの人は、「ひとの葬式にも、よくよくのことでない限り、行かない」、と。「人の不幸をよろこぶ不埒な気持ちをのさばらせない方が、故人をしのび、冥福を祈る、より大きな哀悼になるといって、不義理をするのをおそれない」、と。

 私もどちらかというと、というより、まったく、この”不義理をおそれないひと”と同じ考え(生き方)をしている。でも、こういうのは理解されないだろうなぁ、とも思う。変わり者扱いだろうなぁ、とも思う。
 近頃の現象として、何か事件があって人が亡くなったりすると、その現場に赤の他人がどっと押し寄せ花を手向けたり手を合わせたりしている、ということがある。そういう人たちを、他人の不幸を食って幸福を実感している人たちだと声高に言うつもりはないが、私には理解できない行為ではある。

 今朝の朝日新聞の一面は、「細切れ雇用の果て 39歳、全財産100円」という記事だった。まじめに生き、働く意欲もあるのに仕事に就けず、特定非営利活動法人・自立生活サポートセンター「もやい」に助けを求めに来た人の話だ。読んでショックを受けたのだが、それよりも強く感じたのは怒りだった。それは、私がまだ子どもだった頃、もう敗戦から数年はたっているというのに、傷痍軍人といわれる人たちが独特の白装束で物乞いをしていたのを見たときに感じたのと同じ怒りだった。
 どうしてこういう社会になってしまったのか…。どうすればそれを是正することができるのか…。なぜ国はこの人たちに手を差し伸べないのか…。何をどう考えればいいのか…
2008年4月30日 12:36 | コメント (0) | トラックバック (0)
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