大切な1冊―その後

 中央公論2月号の特集『戦後の青春小説を読み直す』で、「柴田翔インタビュー『されど われらが日々―――』とその時代」を読んだ。そこには、少しふくよかになり髪も白くなったが、あの頃のいかにも”文学青年”といった風情を今も変わらず持ち続けている柴田翔さんがいた。
 「されど われらが日々―――」「われら戦友たち」「鳥の影」「記憶の街かど 遭った人々」と揃えて持っているが、作者については芥川賞を受賞してもそうそうに大学の先生になってしまったことくらいしか知らなかった。

 この特集の意図は「読み直す」ということだが、かつて読んだ人たちが読み直すという意味か、あるいは現代の若い人たちに読み直されるという意味か、両方の意味なのか、どちらにしても作者へのインタビューは作品の時代背景の確認と解説になっているようだ。
 インタビューのなかで一番印象に残ったのは最後の部分だった。「『されど 』から43年を経た作者の現在の心境は」と聞かれて答えている部分だ。少し長くなるが引用する。 
 
 現在の心境は、と言われれば、何かを語りつつも、やはり語り手・書き手の姿は消したいという気分は常にあるんです。(後略)
 けれども、いまわれわれはたまたまこの国のこの時代に生きているわけですが、それはたまたまのことで、例えば仮に、僕が明治時代に生まれたとか、あるいは50年後に別の国に生まれるとなれば、そこには当然まったく別の人生があったはずです。
 しかし同時に、いつの時代のどの土地に生まれようとも、人生の基本的な形は同じではないのだろうかという感じがあります。その基本的な形がどういうものか、それをしっかりわかったうえで消えていきたい。


 私が柴田翔さんの本を大切な1冊にしているのは、たぶんそういうところに強く共感するからだろう。50年代半ばが舞台になっている「されど 」が、60年代後半から70年代初めに強く支持され読まれたのは、それが「人生の基本的な形は同じ」という視点で書かれているからではないか。本来文学というのはそういうものではなかったか。
 
 ”新訳”流行(ばやり)の昨今だが、「人生の基本的な形は同じ」という視点で書かれている文学はいつの時代になっても古びるということはないはず。新訳にすれば読まれるというのは、国語力の問題に過ぎないのではないか。
 『されど われらが日々―――』は復刊とともに再び脚光を浴びているそうだが、現代ではどのように読まれているのだろう。若い人の感想を聞いてみたい気がする。
2008年2月10日 9:04 | コメント (0) | トラックバック (0)
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/98211816

この記事へのトラックバック