片付け

 今年もだいそれた大掃除はしないが、ちょっとした片付けをして年末最後の可燃ごみを出した。「今すぐには処分できないがいずれは処分する箱」に放り込んであったものをついに処分したのである。その中に中・高校の創立40周年記念誌(1995年発行)があった。最初は幼稚園、次に小学校、そして中学、高校と設立されて40年ということである。ちなみに、私は中高の3期生。
 記念誌には中学校の入学式の写真が載っていた。拡大鏡を使わなければ顔は見えないほどの小さな写真であるが、拡大鏡を使って見るとひとりひとりの顔を覚えていた自分に驚いた。24人しかいないので忘れようがないのかもしれない。6代理事長という先生が祝辞を寄せている。私が習った時は国語の先生だった。ツマラナイ授業をする先生だった。私の態度が悪かったせいかどうかはわからないが、頭髪検査(服装検査等々イロイロアリマシタ)で校則違反だと言って、皆の前で見せしめに私の髪を切った先生である。皆がハッと息をのむのがわかったが、私はツマラナイことをする先生だと思っただけである。髪はすぐにまた伸びる…と。それだけの思い出に浸って、この記念誌はさっさと処分した。
 年明けにはもうひとつ片付けを予定しているものがある。東日本大震災のあった年に亡くなった姉の相続等に関する書類である。かなりの量である。あれから7年になるのだから、もう処分してもいいだろう…。いや、そろそろ処分しておかなければ…。

2017年12月28日 10:16 | コメント (0)

地域に住むということ

 マンションも築35年ともなれば、新築時からそこに住む人も高齢となる。マンションでは集会所を使って、さまざまな集まりがある。このところ急激に趣味の集まりが多くなったようだ。以前は、ヨガや大正琴、お食事会、お茶会といった女性たちの集まりが多かった。最近、麻雀や囲碁、句会が始まった。発起人は男性のようだ。いい傾向だと思う。
 しかし、しかし、しかし…。群れることが嫌いな私は、どれもこれも嫌だと思ってしまうのだ。何が嫌って…住んでいるところで近隣の人たちと…というのが嫌なのである。世界が広がらないではないか?…と思うからだ。私は、○○のおかあさんや〇〇のおくさんと見られるのが嫌なのである。社会に於いて必要とされる協調性がないと言われればそれまでだ。それでも嫌なものはイヤ…。困った人なのである。それで、外へ出ようと習い事を始めて10年…。今は、月に2回東京の教室まで通っている。受講生は少し減って、今は8人である。気の合う人もいれば合わない人もいるが、それはそれでどうでもいいことだ。
 「絆」という言葉を好んで使う人たちがいる。私はこの言葉が嫌いである。辞書によれば、「馬・犬・たか等をつなぎとめる綱。転じて、断とうにも断ち切れない人の結びつき」をいうとある。束縛し動けなくするという意味がころころころころ転じて人と人との強い結びつきになってしまったと言われているようだ。その結果、団結を強調するときに好んで使われる。元来、群れることが嫌いな私である。必要な時には協力も協調もするが、束縛されたくはない。

2017年12月13日 11:11 | コメント (0)

どういうこと?

 どうでもいいと言えばどうでもいい話であるが、ポテトチップスをお箸で食べるってどういうこと?である。カルビーが「ポテトチップス 極濃サワークリーム味」を期間限定(しかも、コンビニでのみ)で発売しているそうだ。シーズニングの濃度最高レベルであるからして箸で食べよ、ということらしい。
 むかしむかし、女子高ではサンドイッチをお箸で食べる教師がいた。どうやらそれがお上品だと思っている風だった。何事にもさめた生徒だった私は「ばかみたい…」と思っていた。ポテトチップスをお箸で食べるのはそれ以上にばかげている、と思う。もし、濃厚な味付けのポップコーンがあったとしたら、それもお箸でひとつひとつつまんで食べよというのだろうか…。
 そもそも、特別な味付きのポテトチップスは邪道である。厚化粧をしたジャガイモだ。本来のじゃがいもの味に、せいぜい塩をふったくらいで食べるのがおいしい。できるからといって何をしていいとは限らないのは、食品も同じではないか。コンビニでは「お箸はお付けしますか?」って?

2017年12月12日 8:29 | コメント (0)

忖度

 「今年の新語2017」では「忖度」が大賞に選ばれたという。振り返るまでもなく、この1年何度も耳にし目にした言葉である。誰もがソンタクと読むと覚えたことだろう。「忖」という漢字も「度」という漢字も「はかる。おしはかる」という意味だそうだ。したがって、忖度と書けばその意味は「おしはかる」以外にはない。
 私がこの言葉を初めて知ったのは、脳死による臓器移植が議論され始めた頃だったと思う。本人が臓器提供の意思を示していなくても、拒否の意思を示していなければ家族が忖度して決めてもいいのではないか…という時にこの言葉が使われていたように思う。最近では、使われ方や意味合いも少し変化しているらしい。「忖度が働く」や「忖度がはびこる」というように使うのだそうだ。モリ・カケ問題に関連して誰が使い始めたのか知らないが、よい意味合いではない場面で使われたのは何故だろう。誰かが意図的に使った…?
 それはそれとして、新語だの流行語などに踊らされず、自分の感覚で言葉を選び話してみてはどうですか?…なんていうのは野暮?

2017年12月 4日 16:36 | コメント (0)

AIoT社会

 「AIoT対応液晶テレビ」が発売されたそうだ。『AI(人工知能)が家族の好みを学習し、おすすめの番組を音声でお知らせするAIoTクラウドサービス「COCORO VISION」に対応し、音声検索や豊富なアプリケーションで楽しみが拡がる「Android TVTM」を採用したAIoT対応液晶テレビ』いう新しモノ好きのシャープさんの製品である。今となれば当然の結果として出現したテレビだとは思うが、こういうものが必要かどうかは別の問題であるし、欲しいかどうかはもっと別の問題だ。
 その商品のCMをたまたまテレビで見たが、テレビの前に座った3人の子どもがテレビの「おはようございます」の声にこたえて「おはようございます」と挨拶する。今日はこんな番組がおすすめですと言われるが、○○が見たいといえばそれが画面に現れる…。コレが当たり前と思って育つ子どもはどんな人間(大人)になるのか、わたしには想像もできない。

 先日のことだが、電車内で見た母親と私立幼稚園児の(それらしい制服を着ていた)男の子の様子が忘れられない。混雑というほどではないがそれなりに乗客は多かった。そんな中で、二人は別々のドアから乗車してきた。母親のそばに来た子どもはすぐにドアの方へ行き、駅に着くたび下車乗車を繰り返していた。挙句に閉まりかけたドアを両手で押さえた。当然ドアは安全に閉まらず開閉を繰り返すことになった。それに驚いたか、子どもは母親のもとへ。見かねた若い男性が席を譲り母親は子供を座らせた。隣の男性もそれに倣い母親も座った。しかし、子供はまたドアへ。その間、母親はずっとスマホを見ていた。そのうちその車両から子どもの姿が消えた。母親は少しきょろきょろし始めたが座ったまま。ひと駅過ぎふた駅過ぎ…私は下車した。さて、あの母子はどうなったか…知る由もないが、付添いの親も電車通園の子も電車をなめている、感覚的な部分で何かが欠けていると思った。
 子どもは国の未来だといわれるが、安心してそう言うためには今どういう社会をつくっているかが問題である。AIoT社会なるものがいかなるものかもわからない私には、将来の社会など想像もできない。

2017年12月 3日 16:08 | コメント (0)