「われら」の時代、「みんな」の時代

 今朝の新聞に、『「みんな」の時代』と題して橋本治さんが寄稿していた(朝日朝刊9/28付け)。最近の社会の様相、たとえばロンドンオリンピックのメダリストの銀座パレード、反原発金曜デモ等から、『今や日本は「みんな」の時代に入っていると思う』と述べている。

 確かに...と私も思う。かつては「われら」の時代だったのに何故?と考えてみるに、それはあきらかに教育の結果だと思う。教育の成果ではなく、あくまでも結果。

 橋本さんの説によれば40年以上前の大学闘争の時代は既に「みんな」の時代が始まっていたという。この点についてはもう少し考えてみなければ、私にはよくわからないが、「みんな」の時代と「われら」の時代とでは政治のあり方が全く違ってくるというのはわかる。 

 「われら」の時代というときの「われら」に対するのは「国」であったり「政府」であったりする。だからこそ「われら」のひとりひとりの「我」が強固だ。だが、「みんな」の時代の「みんな」に対するのは個々の社会問題だ。この場合は"ひとりひとりの「我」"は強固になどなりえない(なる必要がない)のではないか。

 橋本さんは結論として(?)、【リーダーに必要なのは決断力と、同時に、「みんなの声を拾い上げる力」で、それは「みんなと喧嘩をしても平気な信念を持つ」である』と言う。そうであるなら、今後20年は無理だろう。教育を考え直しても、結果が出るのは早くても20年後。それまで「われら」はどうする?

2012年9月28日 9:15 | コメント (0)