迷い時

 この季節になると、迷うのである。もうブログはやめようか、それともここまで続けたのだからもう少し続けようか、...と。ネットの世界は「速さが命」のようなところがあり、じっくりと考えて書くようなブログはもう時代遅れのような気がしないでもない。はやりのツイッターとやらでは何にでも「なんとか"なう"」と付けるのがナウだと知った頃にはもうそれさえ陳腐になってしまったような感がある。

 迷いが出たときは、以前書いたものを振り返ってみることにしている。我ながら驚くほどいろんなことを書いている。しかも最初のホームページは2000年に始めたようだ。もう12年目である。そうなると、いまさらやめるのは惜しい気がしてくる。

 若くても年老いても新たな一歩を踏み出すときには迷いがある。迷いながらも踏み出せば前進する。それでいいのかも、と思う。

2012年3月20日 9:03 | コメント (0)

パブリッシャーズ・レビュー

 パブリッシャーズ・レビューは、各月15日発行のタブロイド版出版情報紙(無料)だ。東京大学出版会が5・11月、白水社が1・4・7・10月、みすず書房が3・6・9・12月に発行している。その中でみすず書房からのものが私宛に送られてくる。

 先日届いたものには、気になる本が紹介されていた。「時の余白に」(芥川喜好・著 4月20日発行予定)だ。『世相の片隅に息づく美をめぐって...』などと書いてあれば、気になるというものだ。ところが、これは読売新聞の人気コラムなのだという。挿画は丹阿弥丹波子さんの銅版画だそうだ。とても魅力的だ。そんなコラムが読売新聞にあったとは...。読売新聞の勧誘が来ても、ヨミウリ?要りません!といつも断っている私だった。

 「ウィリアム・モリス通信」(小野二郎・著 川端康成・編 大人の本棚 2月10日発行)も読んだみたい。「写真の秘密」(ロジェ・グルニエ・著 宮下志朗・訳 '11年11月9日発行)も読んでみたい。身辺が落ち着いたら、図書館通いも再開しよう。

2012年3月17日 10:50 | コメント (0)

「われら」を読む

 私の本棚には、すっかり変色した昔の文庫本に紛れて「われら」(ザミャーチン・著 川端香男里・訳 岩波文庫)がある。最初に読んだのはいつだったか忘れてしまっていたが、大阪の公立高校の卒業式で、校長が教頭に指示して「教職員による国歌斉唱の有無を口の動きでチェックしていた」という新聞記事を見た瞬間、この本を思い出しもう一度読みたいと思った。 

 「国歌斉唱の有無を口の動きでチェック」という下品な行為を、大阪市長は「服務規律を徹底するマネジメントの一例」と言ってのけたらしいが、校長を経営者としかみていない人ならば当然かもしれない。だが、これははじめの一歩にすぎず、怖いのは二歩め三歩めだ。今は服務規程違反であっても、対象は国歌であり国旗である、いずれは反逆罪と言い出さないとも限らない。私たちが望んでいるのはそんな社会なのだろうか。少なくとも私は違う。

 「われら」の解説に次のような一文がある。

ザミャーチン自身、「この小説は人類をおびやかしている二重の危険―つまり機械の異常に発達した力と国家の異常に発達した力―に対する警告である」と語っている。

2012年3月14日 19:34 | コメント (0)

お知らせ

ブログの模様替えをしました。これまで同様、どうぞよろしく。続きを読む
2012年3月13日 12:33 | コメント (0)

チンバロン

 今日のNHK−FM「ベストオブクラシック」は、ボン・ベートーベン音楽祭2011の第三夜 室内楽演奏会だった。聞こえてきたのは、おなじみのバッハ作曲「無伴奏パルティータ 第2番 ニ短調 シャコンヌ」。でも、なんだかとても不思議な音色である。演奏は、チンバロンだという。初めて聴く音色だった。琴のような雰囲気もあるが、もっと金属的な感じの音だ。でも、なんとも味わいのある音色である。

 便利な時代になったものだ。チンバロンって?と検索すれば、すぐに見つかった。こんな楽器(ファイル042を参照して)だった。バッハとチンバロン、変わった組み合わせだが、もっと聴いてみたいなぁと思わせる魅力がある。
2012年3月 7日 21:58 | コメント (0) | トラックバック (0)

土曜日はお買物日和

 大型家電店のチラシがドッサリ挟まるのは土曜日と決まっている。欲しいものがない時もとりあえず目を通す。昨日は、プリンタに目がとまった。やけに安いのだ。しかも、複合機である。アマゾンで価格を調べると、6,295円(エプソンのPX-404A)というのがあった。「コピーもスキャンもできる、お手軽モデル」とある。印刷速度はかなり遅いらしいが、私にはこれで十分だ。使用中のPX-101(2008年購入)の具合が良くない。4年もたたないうちに買換えというのがどうなのかよくわからないが、まぁいいか、としよう。

 さて、アマゾンで注文だ。6,295円でプリンタが買える♪と思っていたら、なんと珍しくポイントがたまっていた。しかも5,733円分もある。そういえばこのところ、若い人の門出を祝うためにたくさん買物(お祝い、ね)をしていた。ポイントを使えば、お急ぎ便にしても支払は910円だ。躊躇なく、注文を決定するをポチッとな…。

 あ、クロネコさんが来た!
2012年3月 4日 9:35 | コメント (0) | トラックバック (0)

ゆれる、ゆれる、ゆれる…

 地震が続いている。地震のエネルギーがたまり過ぎないように小出しにしていると思えば、大地震への不安が少しは和らぐ…といえないこともないが、緊張の解けない日々である。確かに私にも大地震への不安はあるが、本当にとてつもない大地震に遭遇する羽目になったら、私はとても生き残れないと思っている。すでにそれなりの年齢になっているためにそう思うのか、私の生死観がそうなのか、そこらあたりまで突き詰めて考えたことはないけれど。

 何に埋もれてしまったのか、都会の真ん中で餓死する人もいる。今朝の朝日新聞「社説 余滴」は、「ときにはおせっかいを焼こう」と題してその問題を扱っている。事件社説担当という筆者の結論は、『ときには「おせっかい」を焼かないと、救えない命もあるかもしれない。迷った時、一人ひとりが、そう想像してみる、それしかない気がしている。』というものだ。

 確かに「おせっかい」が命を救うことはあるだろうが、「人の情に期待するおせっかい」は問題も多い。「おせっかい」は「村八分」と対になったものだと思うからだ。だからこそ、人々がやたらと「おせっかい」を焼かなくなったのではないか、というのが私の推測だ。
 脳死臓器移植を可能にするために、その場合に限って脳死を人の死とするという法律を作ったように、「人の情に期待するおせっかい」ではなく「制度としてのおせっかい」が必要なのではないか、という気がする。

 大地震に遭遇して死ぬ命もあれば、大往生をとげる命もある。穏やかな死もあれば、苦悶する死もある。同様に、看取られての死もあれば孤独死もある。本来は、どちらが良い悪いということではない。それぞれ、さまざま「ある」ということではないか。
 昨年亡くなった私の姉は孤独死だった。現役で働いていたため発見はその日のうちではあったが、誰に看取られることもなく一人で生を終えた。私はそういう死も尊厳を持って受け入れる。命が尊いものであるなら、どのような死し方であれその死も尊いものだ。そして、その人の一生も尊いものだ。

 現代において餓死させることは許されないとか、高齢者の孤立死はあってはならないのだから「おせっかい」を…と、短絡的にいうのであれば、私は異を唱えたいと思う。
2012年3月 1日 10:16 | コメント (0) | トラックバック (0)