大晦日に

 とうとう2011年も大晦日だ。この1年をふりかえれば、誰もが共有したできごともあれば、個人的な忘れられないこともあるだろう。ゆっくりと過ごせた人もいれば、あわただしさに流された人もいることだろう。いずれにしても、今日を迎えられた人は無事に1年を過ごせたということだ。まずは、よかったねと思わねば。

 来年はどんな年になるのだろう…なんて、もう考えないことにした。どんな年になろうと、今日1日を生きていくだけだ。そのくり返しのなかに喜怒哀楽がちょびっとずつあればそれでいい。そんなふうに思い始めて、先日年末ジャンボ宝くじなぞ買ってみた(10枚だけね)。

 このブログもいつまで続けられるかわからないが、衰えてきた気力を振り絞ってでももう少しは続けようか…と思っている。それじゃぁ、皆様よいお年を!=・・=
2011年12月31日 10:25 | コメント (0) | トラックバック (0)

とぶものづくし

 「針がとぶ」のは吉田篤弘さんの本、記憶がとぶのは私の頭。そしてもうひとつ、CDもとぶ。年末年始のFMラジオはお休みしてCDを聴きたいのだが、まぁ、そのとぶことといったら…、ぶちんぶちんぶちんととぶのだ。CD側の問題ではなく、CDプレーヤー側の問題だと思うが、もう寿命がきたのだろうか。
 
 BOSEのウェーブミュージックシステムは知らない間に値下げしていた。欲しいなぁと、ずっと指をくわえていた、指がふやけるほどに。決断の早い私にしては珍しく迷っている。もう1万ほど下がらないかなぁ…と。

 とぶものといえば、まだあった。お金。これもよくとぶ。まぁゆっくりしていってくださいなとオサイフに入れた1万円札など、そうそうにお発ちになる。ノダさんは借金で首がまわらないから消費税を上げるという。ひとつの策ではあるだろうが、そのせいで生きていけなくなる貧困者には現金を支給するという。目に見えやすい対策ではあるにしても、その現金はどこから出すというのだろう。お金がお金のまま、こちらからあちらへととぶだけなんて、まるで能がない。
2011年12月29日 9:58 | コメント (0) | トラックバック (0)

記憶がとぶ

 昨夜眠りにつく前に、吉田篤弘・著「針がとぶ」を読んだ。表紙絵をながめ、挿画を見て…という一連の儀式も済ませ読み始めた。表題の「針がとぶ」は、姪が伯母さんの遺品を片付ける話だった。私が今読む本ではなかったかもとちらっと思ったが読み進めた。そのうち、これは以前どこかで読んだようだ…と思い始めた。ビートルズの真っ白なレコードジャケット、そのレコードの最後の部分は何度聴いても針がとぶ…というところに至って、前にも読んだと確信した。

 こんなこともあるだろうと、ブログには「本の話」のカテゴリーを作ってある。検索してみたが、どこにもない。吉田さんの本は思い出したように読んでいるのだが、「針がとぶ」というのはない。はて?いつどこで読んだのだろう?思い出せない…。読み始めると思い出すのだからまだいいか…と自分を慰めてみても、なんとも情けない。

 記憶がとぶくらいまだまだカワイイものだ。記憶を失うというのもあるし、そもそも記憶できないということもある。本はその時々の出会いで手にとるのだから、何度読んでもいいのだし…。ああだこうだと言ってはみても、そのショックは隠しきれない。
2011年12月24日 9:53 | コメント (0) | トラックバック (0)

そうだったのか!

 そうだったのか!などというと、誰かさんの本のタイトルみたいだが、朝日新聞3面に『東電 「値上げは権利」』という見出しが躍っているのをみて心底驚いた。東電の経営者はそんなふうに考えていたのか!…とね。あまりに驚いたので、他のメディアではどんなふうに報道されているのかとネットで見たが、そのような言葉を伝えているところは見当たらなかった。なぜ朝日新聞は…?

 『値上げは事業者の義務であり、権利でもある』と、東電社長は宣言したらしい。経営を立て直すためにさまざまな策をとることは確かに義務であるのだろうが、誰が反対しようとごちゃごちゃ言おうとそうしたっていいんだという権利があると?

 電気を買う(使う)消費者は、他に電力販売会社がないので仕方なしに東京電力から買っているだけだ。それをわかっていながらそんな発言をしたのなら、ずいぶんと横暴では?

 同じ論理を企業全体が唱えだしたら、すべてのシワヨセはただの消費者にいく。単純に考えても、生活していけなくなる人が続出するかも…と気が気でないのだけれど?
2011年12月23日 9:28 | コメント (0) | トラックバック (0)

名称?愛称?

 再開発中の千葉駅西口に建つ3棟のビルの名称を、千葉市に在住・在勤・在学者の投票で決めるという。コピーライターが考えた4つの中から選べというのだが、これがどれもこれも垢抜けないものばかりなのだ。何故垢抜けないかというと、地名にこだわりすぎているからだ。

 名称にしろ愛称にしろ、親しみやすく呼びやすいのがいい。あちこちの駅にある「アトレ」など舌をかまずに言えるが、4つの候補名称は「チバード」(千葉という日本語とBirdという英語をかけあわせた造語らしいが、出来損ないのデパートみたいじゃぁないか!)、「チバネオ」(新しい千葉とか復活千葉とか言いたいらしいが、ネオ=ナチスというのもあるしぃ…)、「ウェストリオ」(ウィスキーじゃあるまいし!)、「シードア」(ドラえもんのどこでもドアみたいじゃないか!)だ。

 みんなで決めようというのなら、広く公募すればいいのにと思う。そのあと関係者やエライさんやそれこそ専門家(コピーライター)などが寄ってタカって決めるとか、いくつか選び出した中から投票で決めるとかすればあぁ?と思う。工事が始まり、電車からその進行状況を見るたびにタメ息が出る。「チバード」?「チバネオ」?「ウェストリオ」?「シードア」?…やめてよ、と言いたくなる。いくつもの賞ももらっている”有名人”?らしいが、新潮社の「Yonda?」を作った”日本を代表する”?人らしいが、千葉のことをよほどの田舎とでも思っているのか?と思う。私は、困ったことにどれも気に入らない。
2011年12月21日 9:06 | コメント (0) | トラックバック (0)

鮎の塩焼き

 若い人がたびたび鮎の塩焼きの話をする。「鮎の塩焼きが食べたい」というのではない。「鮎の塩焼きのお話がある」というのだ。ただ、どんな本で読んだかの記憶はない、と言う。ひょんなことからいろいろ調べていくうちに、この本だ!と判明したそうだ。その本は「うちにある」と言う。「母が買った」と言う。しかし、私の記憶は皆無である。

 私の本棚は小さいので、本は堂々と背を向けているわけではない。床に座り込んで端から引っ張り出していったところ、この本か!と見つかった。それは、「新潮現代童話館1」「2」だった。新潮文庫である。私は小学生に新潮文庫を買い与えていたらしい。

 「鮎の塩焼き」話は、題名が「鮎」という。著者は池澤夏樹さんだ。「新潮現代童話館2」の一番最後に収められている。著者の顔ぶれを見ると、なかなかのものである。私が購入したというのも納得がいく。しかし、この本はとうに絶版になっているらしい。もったいない話である。図書館には所蔵されているようだが、はたしてどれだけの人の目にとまっていることか。それにしても、いくつものお話の中で、若い人がこのお話だけしっかり記憶しているというのは何故? フシギである。
2011年12月20日 9:49 | コメント (0) | トラックバック (0)

本達

 今回、図書館で借りてきた本は次の3冊。
まずは、思い出したかのように、吉田篤弘さんの「小さな男*静かな声」と「針がとぶ」の2冊。
それから、みすず書房の大人の本棚から「きまぐれな読書 現代イギリス文学の魅力」(富士川義之・著)。

「おかしな本棚」を読んでいたら、吉田篤弘さんを読みたくなった。「Publisher's Review」(東京大学出版会・白水社・みすず書房のPR紙)を読んでいたら、「大人の本棚」が紹介されていた。そのなかから、『オリジナルの随筆集にも文学の香り高い大人のテイストがある』として紹介されていた6冊のうちの1冊がこれ。

いずれは読みたいと思っているのは、北條文緒・著「猫の王国」と栃折久美子・著「美しい書物」。いずれも大人の本棚シリーズの新刊書だ。

冬の夜は、はやばやとベッドにもぐりこんで読書するのがいい。しんしんと寒い夜はしんしんと静かである。
2011年12月17日 19:26 | コメント (0) | トラックバック (0)

きょうもいちにち

 今年も残すところあと半月。歯の検診も済ませた。半年以上も歯に何の問題もないなんてスバラシイことだ。年に2度目の献血も済ませた。この年齢になっても献血ができるなんてスバラシイことだ。ニコリの「激辛数独10」も買った。年2回発行になってうれしいのだが、「9」にまだ解けない問題が残っている。年齢のせいかスラスラとはいかなくなったのはツライ。

 ところで、ネットで署名運動や署名参加ができる「署名TV」というものがあるそうだ。ノロウイルスの呼び名変更を求めるサイトで知ったのだが、そこの署名は匿名可となっている。匿名の署名とはいったい何じゃいな?と、違和感どころか、私には理解不能である。

 最近、我がマンションでも署名用紙(集中豪雨と大潮が重なって氾濫した排水路の対策と、マンションが建つという高台周辺の道路整備を求める署名活動らしい)が配られた。近くの高台の工場跡地に大規模高層マンションができることに伴って、建設反対の赤いのぼりがあちこちにたち始めた矢先だ。それとは別の署名集めだというのだが、なぜ同時期に?と思う。
 近頃、理解不能のコトガラが増えた。私の年齢のせいか?と気にかかる。そんな年の瀬(年の瀬と言うにはちょっと早い?)である。
2011年12月16日 10:13 | コメント (0) | トラックバック (0)

おかしな本棚

 「おかしな本棚」(クラフト・エヴィング商舎 朝日新聞出版社 2011年)はおかしな本だ。おかしな本棚のひとつに「遠ざかる本棚」というのがある。そのなかで著者は次のように言う。実質的なことでは、奥行きが深くて前後二列に並べた場合の奥になった本(持ち主がこれはもういいとしまい込んだ本)のことだが、それとは別に、本が自分から身を引いて遠のいてゆく本もある、というのだ。たとえば、”かじり読み”しただけの宮沢賢治の本(苦手な作家なのだという)は、遠ざかってゆくのだそうだ。その感じ…、よくわかるけれど、なんかおかしいよね?

 「寝しなの本棚」というのもある。(以下引用)『気がかりなことを忘れ、雑事をかたづけ、寝巻きもしくはスウェット系の服に着替え、布団にはいり、読書に最適なほどよい照明を得て、本を開き、もういちど表紙など見て、目次なども見て、場合によっては刷り立ての本の紙とインクの匂いを嗅ぎ、さて、とばかりに第一章の冒頭を開く。読み始める。一言一句、噛むように読む。もしくは水を飲むように読む。』
 この感じ…、わかりすぎて、とてもおかしいよね?

 図書館などで本の背中を眺めていると時を忘れる、という人にはオススメの本である。本棚に並んだ本の背中の写真が、次から次へと出てくるのだから…。
2011年12月11日 19:23 | コメント (0) | トラックバック (0)

とことんオヘソが曲がっている私は

 「天声人語書き写しノート」が人気だという。あんなものを書き写してどうするの?と思うのは私だけらしく、巷では好評らしい。とことんオヘソが曲がっている私は、何もかもがお膳立てされているものは嫌いである。「ここに(いうまでもなく天声人語サイズである)新聞の切り抜きを貼ろう」に始まり、「原稿用紙に書き写しましょう」、そして「メモ欄には感想やわからない言葉などを書きましょう」と次々指示が出る。私は、嫌だ。
 販売に至る経緯はここに詳しいが、とことんオヘソが曲がっている私はボケ防止という言葉も受験対策という言葉も嫌いである。

 「天声人語を書き写すという勉強法は、実は昔から一部の学校などで行われていたらしい」と、先の記事の筆者は書いているが、いったいいつのことを言っているのだろう。40年以上も前、私が習った国語の先生は生徒にひとつの課題(宿題ではなくあくまでも課題)を出した。社説(当時は今のように2テーマではなかったので読み応えのある文章だった)を読み、要約し、感想を書く…というものである。字数に制限はない。但し、毎日続けることというのが条件だ。先生は毎日すべてに目を通し、コメントを書き、どれかひとつは教室で読み上げた。
 最初は全員がそのノートを毎日提出していたが、ひとり減りふたり減り…、ついには私だけとなった。とことんオヘソが曲がっている私は、ひとりきりになっても続けた。卒業のとき、そのノートを記念に欲しいと言われ差し上げてきた。努力が認められるというのは生徒冥利に尽きる、というものである。教師にとっても、指導し甲斐のある生徒に出会えたことは教師冥利に尽きるということだったのだろうと、今になって思う。

 翻って現在の天声人語はどうだろう?とことんオヘソが曲がっている私がエラソウナことを言えば、書き写すほどのものではない、と思う。質の低いものをお手本にしても向上はない。「天声人語書き写しノート」で文章力がついたと思い込んだ若い人が新聞社に就職し記者となり、それなりの記事を書く。質の低下の悪循環である。

 向上を望むなら、すこし高いものを目指す必要がある。朝日朝刊のオピニオン面の「私の視点」にある研究所助教が、政治家と読書について、(政治家は)「古典と向き合い省みよ」と主張している。まずは、読む価値があるものを見つける力を身につける必要がありそうだ。でも、どうやって…?などと他人に聞いているようでは………、ちょっとねぇ
2011年12月 9日 9:53 | コメント (0) | トラックバック (0)

諸般の事情

 「カルビーは、店内で調理したポテトチップス類を食べられるアンテナショップを開く」そうだ。揚げたてのポテトチップスやじゃがりこって、どんな味がするのだろう?まずは、東京・原宿の竹下通りに、そして2015年度までに全国で12の直営店を開く計画だという。はたしてうまくいくのだろうか?

 先日久しぶりに「播磨屋ステーション東京銀座本店」へ行くと、「諸般の事情によりしばらく休業します」の張り紙がしてあった。まさに諸般の事情があったのだろうと納得はいくが、つかのまの幻のような店だった。

 さて、食べ物の話のついでに「ワッフル」のことも書いておこう。実は初めてお店で焼きたてのワッフルというのを食べたのだが、それ以来焼きたてのワッフルに恋焦がれている。フワフワニンマリしたのではなくて、あくまでパリッカリッとしたワッフル、ね。それは、りんごを煮てシナモンをたっぷりふりかけたものと生クリームとアイスクリームがのっていた。
 それ以来ワッフルメーカーが欲しいなぁとふつふつと思う毎日なのだけれど、値段はピンからキリまであるし、ワッフルだけ焼けるものからあれもこれものものまであるし、さて、どうしよう?
2011年12月 3日 9:50 | コメント (0) | トラックバック (0)

トランペット

 サントリーホールは行きにくくわかりにくいところにある。ふだんなら、みぞれになりそうな小雨がしょぼ降るなか、わざわざ行こうという気にはならない。でも、昨日は違った。「オルガン プロムナード コンサート 20周年スペシャル」に行った。真冬のような寒さの中、たったひとりで…。

 開場の20分くらい前に着いたときには、すでに4、50人ほどの行列が出来ていた。あまりの寒さに、開場時間は5分早められたが、観客はどんどん増えていき、開演時間が過ぎてもまだ増えて、席の9割は埋まったようだった。「20周年スペシャル」だったからなのか、いつもそうなのか、初めてだった私にはわからないが。私はといえば、今回はオルガンだけでなくトランペットの演奏もあったのでなんとしてでも行きたかったのだ。

 たった30分のコンサートではあったが、トランペットの音色に酔いしれた。オルガンの演奏は、最初はちょっと物足りないなぁと思ったが、最後のバッハの「甘き喜びのうちに BWV729」はこうでなくっちゃ…というほどにオルガンがホールいっぱいに響きわたった。パイプオルガンの魅力は、音楽が噴水のようにパイルから湧きあがり、音楽のしぶきを全身に浴びるところにある、と私は思っている。

 「20周年スペシャル」は、普段とは違って20年前に出演した奏者が再登場するというものだった。最後の拍手もとびきりスペシャルだった。いったん舞台の袖に引っ込んだもののもう一度登場しなければならないほどに…、トランペットの奏者とオルガンの奏者が舞台上で握手をするほどに…。
 
 「トランペットの音色に酔いしれた」あとは、CDが欲しくなった。セルゲイ・ナカリャコフの「Echoes From T
he Past」を持っているが、あと2枚ほど欲しいなぁ(欲しいということは買うぞぉということだ)。
2011年12月 2日 13:33 | コメント (0) | トラックバック (0)

おとなの動物園

 天気予報がずれて穏やかな1日となった昨日、思い立って上野動物園へ出かけた。お目当ては、言わずと知れたホッキョクグマである。開園10分後に着き、まずはパンダ。ゆっくり観察することができ、2頭の笹の食べ方の違いに気がついた。オスの方は寝転んで手当たり次第に笹に食いついている、といった感じだ。それに対しメスの方は、台の上に正座とはいかないが行儀よく座り、笹を引き寄せては葉の部分を一束かみちぎり、それを3回ほど繰り返すとまとめて左手で握り、やおら食べ始める。この違いは性別によるのではなく、たぶん個性なのだろう。人間もパンダも同じなんだなぁ〜と、とても興味深かった。

 次は「新ホッキョクグマ舎」へ。複雑な造りで出入り口が少々わかりにくかったが、それは私が方向音痴だからかも。水中の姿が見られる「室内観覧通路」で、窓に張りついてその時を待った。その時とは、もちろん餌の時間である。
 待つこと10分…、ホッキョクグマが目の前に飛び込んできた。おおっ!!と歓声が上がる。もちろん私も小声でオォッ!抱きしめたくなるほどのいとおしさだ。陸にあがっているホッキョクグマはちょっと怖いのに、水中のホッキョクグマは、なんと自由でのびのびとした動きをしているのだろう。
 最前列を独占しては悪いかと思い、小さな子を前に呼び寄せて「ほら、あそこにいるよ」と指さして教えてあげたが、ホッキョクグマはあまりにも大きすぎて小さな女の子はよくわからないようだった。

 ホッキョクグマをみた!パンダもみた!とすっかり満足したあとは、ヤギを撫で、ウサギやリス、オグロプレーリードッグ が餌を食べる姿を飽きずに眺め、「動物園は楽しい!」と改めて思った。大人になると「そうだ、動物園に行こう!」とはなかなか思わないが、行けば時間を忘れる。
2011年12月 1日 7:48 | コメント (0) | トラックバック (0)