モノの基準

 重さの単位「キログラム」を定義する基準が見直されることが決まったという。「キログラム原器」というものがあって、それを1キログラムの基準としているそうだ。気にかけたこともなかったけれど、単位なんてそんなものなのだ。

 今朝の「天声人語」は、『地球がもし100cmの球だったら』という絵本によると、「直径1メートルに縮尺すれば大気の層はわずか1ミリしかない」という話だった。「すべての水はビール大瓶1本分。海水を除いて人が飲める水はスプーン1杯の量しかない」そうだ。それに対して、今現在「世界で1分ごとに約140人増えているそうだ」と言う。これだけ聞けば、誰もが「わぁ、大変だ」と思うことだろうが、地球を縮尺したなら増加人口数も縮尺しなければ論理としては正確ではない。

 似たような話はほかにもある。たとえば、日本ユニセフ協会のマンスリーサポートの「月々2千円の支援が1年でこどものための栄養補助食749袋になる」というCM。2千円といえば、ちょっと贅沢なランチの値段だ。だが、それは貧しい国のこどもを助ける栄養補助食749袋分の値段と同じだという。豊かな国?日本の2千円を貧しい国に持っていけばそういうことになるかもしれないが、だからといって、価値として同じとはいえない。

 私も、かつては毎年ユネスコ・アジア文化センターのカレンダーを買っていた。その収益は識字教育協力事業に使うということだった。こういう仕組みなら理解できるが、2千円のランチが栄養不良のこどものための補助食749袋分と同じなどという表現には抵抗がある。
 誰もが自分にできることをできる範囲でするということに何の異存もないが、世界共通の基準でモノをはからなければ正確ではない。単なる自己満足や思い上がりになることもあるのでは…
2011年10月26日 8:55 | コメント (0) | トラックバック (0)

ある日の本、ある日の献立

 夏のように暑い日があるかと思えば、昨日は冬のような冷たい風が吹いていた。変な気候に気分が一定しないせいか、図書館でこんな本を借りてきた。

「今日はなぞなぞの日」(フジモトマサル・著 平凡社 2004年)…なぞなぞには特に関心はないが、コノヒトの絵はとても気に入っている。

「あのころの未来 星新一の予言」(最相葉月・著 新潮社 2003年)…星新一サンのショートショートはかなり好きである。さらに言うと、この本の装丁は吉田篤弘・吉田浩美、装画・挿画はフジモトマサル。素通りするわけにはいかない1冊である。

「星新一 空想工房へようこそ」(最相葉月・監修 新潮社・とんぼの本 2007年)…写真がいっぱい。やはり素通りはできない。

「短編で読むシチリア」(武谷なおみ・編訳 みすず書房・大人の本棚 2011年)…シチリアの作家のものなど一度も読んだことがないので、まず短編から。

「半村良 SF伝奇ロマンそして… 没後5年総特集」(KAWADE夢ムック 文藝別冊 河出書房新社 2007年)…『箪笥』のゾックゾックするおもしろさ、すごいと思う。


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本といえば、社員食堂のレシピ本が大ベストセラーになり、それに続いて今度は「こどもが本当に食べたい給食のレシピ108 (別冊 天然生活)」が話題になっているらしい。産経新聞の記事によれば、「栄養バランスがとれ、好き嫌いを上手に乗り越えさせてくれる上、身近な食材を利用して経済的。そんな献立は、子育て中の家族だけでなく、高齢者や独身男性にも評判が高い」そうだ。

 ある日の献立は、「白身魚のカレー天ぷら」に「旬のサツマイモと黒ゴマをたっぷり加えたサツマイモご飯」、そして「ワカメスープ」だそうだ。「白身魚のカレー天ぷら」は食べてみたいとは思わないが、黒ごまのサツマイモご飯は、先日我が家でも炊いたばかりだ。これはおいしい。黒ごまは擦って炊くときに混ぜ込む。
 いまどきは、煎りごま、擦りごま、切りごまと至れり尽くせりの商品があるが、我が家では手動ごま擦り器でごまを擦る。ごま擦り器は長年使っているが、それが「スリッキーN」という名だとは知らなかった。特許を取っていて類似品など絶対にない筋金入りのごま擦り器らしい。
2011年10月20日 10:14 | コメント (0) | トラックバック (0)

短編が読みたい

 秋だというのに、この暑さ。読書の秋だというのに、これでは本も読む気にならない。重い本はやめて、軽い本を借りてきた。

「夏目家の糠みそ」(半藤末利子・著 PHP研究所 2000年)…かる〜くおもしろかった。
「花のレクイエム」(辻邦生・著 山本容子・銅版画 新潮社 1996年)…毎月その季節の花がタイトル、その花をテーマにしたごくごく短い短編、それに山本容子さんの銅版画を添えた小さな1冊。眠る前に読むのに最適な1冊。
「人生論手帖」(山口瞳・著 河出書房新社 2004年)…題名ほどには大げさでなく、アレヤコレヤのエッセイ集。

 今回は手近な図書館で借りた。小さな図書館でざっと見回して選んだ3冊だ。中央図書館では、たぶん目にもとめないだろう本たちだ。
2011年10月16日 16:55 | コメント (0) | トラックバック (0)

おだてる

 教育はサービス業だという知事さんがいるのも、だからといってなんでも注文をつける保護者がいるらしいこともどうかと思うし、病院で患者様と連呼するのもなんだかねぇと思う。では、銀行でお客さまと言うのはどうかというと、これは確かにお客さまだと思う。

 先日、わけあって銀行で届け出印の変更手続きをした。銀行のお客さま対応マニュアルになんと書いてあるのか知らないが、気持ちが悪いほどおだてられ持ち上げられ頭を下げられた。ロビーの案内係の女性は、ひと言ごとにポーズをとり手を揃え頭を下げるのである。もちろん「ありがとうございます」の言葉を添えて、である。
 何枚もの用紙に記入する必要があったのだが、同じことを繰り返し書くのは面倒なものだ。ついつい字が崩れてきた。それだけのことなのに、記入を終えた用紙を渡すと「達筆でいらっしゃいますね」と言う。はぁ?である。

 それやこれやで、届け出印の変更手続きをするだけに約1時間を要した。そこでひと言、窓口の女性が言ったのは、「たくさん通帳をお持ちなので少々時間がかかってしまいました」だった。用途別に、普通預金口座と定期預金口座、貯蓄預金口座、(投資信託用口座、これは余分かも)なんて、普通だと思うけれど…。
 モノは言い様とは言うけれど、時間がかかったことまで客のせいにするのはどうかと思う。単純に「お待たせしました」と時間のかかったことを詫びた方が気分がいいのに…ね。
2011年10月15日 9:51 | コメント (0) | トラックバック (0)

10月の雨

 朝から冷たい雨が降っている。物悲しく心も寒くなる。都内では、駐車監視員への暴行事件が急増しているそうだ。「駐車監視員」の姿はよく見かけるが、その立場、権限等はほとんど知られていないのではないだろうか。私もよく知らないが、警察から委嘱されている…?

 同じようなものに、「路上喫煙等の防止に関する条例により、巡視員がその現場を確認次第、違反者から過料を徴収するというのがある。先日も、駅前で罰金を徴収されそうになった人が巡視員に食ってかかっていた。我が市の場合、「違反者に、直ちに過料を科す直接罰」となっていて、取締り地区内で喫煙しているのがばれると、巡視員が即刻、過料処分を行ってよいことになっている。

 違法駐車や路上喫煙に縁のない私でも、「駐車監視員」や「路上喫煙等・ポイ捨て取締り巡視員」に好感が持てないのは何故だろう。街中で行動を監視されたりして気分がいいわけがないからだろうか。



 さて、今日は久しぶりに図書館へ行った。眠りにつく前のひとときのために借りてきたのは、次の2冊。
「私の日本語雑記」(中井久夫・著 岩波書店 2010年)
「ものの考え方」(串田孫一・著 学術出版社 2010年)…「ものの考え方―哲学以前―」(要書房 1954年)を底本としている
2011年10月 5日 15:30 | コメント (0) | トラックバック (0)

憂える

 つい先日まではまだ暑かったのに、今日はもう晩秋のような肌寒さだ。そして9月も過ぎてしまった…。私は何をしていたのだろう…という感じだが、気を取り直して新聞(以下、話は朝日新聞)に目を通すと、とんでもない話が載っていた。例の、大阪府の教育基本条例である。

 要は、成果主義に転換して、アジア、特に韓国?に負けない人材を作り上げたい、そのためにはすべてを上からの命令でできるようにする…というそれだけのことのようだ。
 成果主義とは、言い換えれば手っ取り早く実を採りたい主義のことだ。飛び級も、公教育の場であっても優秀な人にはそれなりの教育をすることにも、私は決して反対ではない。しかし、それは教育の一部分でしかない。

 今朝の新聞には、「いつか学校に」という夢を持ちながら日々靴磨きをしている、アフガニスタンの8歳の男の子の写真が載っていた。男の子の父親は字が読めず靴磨きを生業としているという。だから自分は「いつか学校に」と…。また先日の新聞では、外国人が「日本のホームレスは新聞を読んでいる!」と驚いていたという話を読んだ。
 大阪府知事サンが強引にでも押し通そうとしている条例案の前文には、『激化する国際競争に対応』し、『グローバル社会に十分に対応できる人材育成を実現する』と謳っているそうだ。私に言わせれば、これは全く見当違いである。教育とは、国民がより良い人生を送れるような人間に育つよう助けるものだ…と、私は思っている。

 罰則付きの教育基本条例は、言ってみれば「国のために」有無を言わせず命を差し出させる戦争時における徴兵制や特攻隊と同じである。激化する国際競争に勝つために(つまり、お国のために、ってことね)、何が何でも(学力格差は無視してもよい、あとは野となれ山となれ知ったことか、ということかもね?)優秀な人材を確保しろ…と。国のために犠牲になっていい命なんてあっていいのだろうか?しかもそれが生まれる前から運命付けられているなんて、あっていいこと?
2011年10月 2日 10:18 | コメント (0) | トラックバック (0)