ひとつの考え方として、

 朝日新聞日曜朝刊の読書面「著者に会いたい」を読んで思うところがいろいろとあり、昨日は1日中考えていた。そして、夜。寝る前の読書は「大空と大地へ還りゆく日は」(高田宏・著 河出書房新社 2003年)。さらに、思うところが増えた。


 「著者に会いたい」は、堀川恵子さんという人。もちろん私は知らない。その本を読む予定もない。その記事は、著書「裁かれた命 死刑囚から届いた手紙」に関してだった。

 強盗殺人事件を起こした青年に対する裁判で、「凶悪で更正は不可能」として死刑が確定し執行された、という。『果たして本当に「凶悪で更正は不可能」だったのだろうか』、『罪を犯した人間が被害者に向き合い、償いのあり方を考えながらも生きることの意味』を、著者は考え続けた、という。
 その青年に対する周囲の評は「まじめだった」そうだ。刑が確定した後、独房から検事へ届いた年賀状には、恨み言はひとつもなくお礼の気持ちが書かれていたそうだ。


 「大空と大地へ還りゆく日は」(高田宏・著 河出書房新社 2003年)のタイトルになった「大空と大地へ還りゆく日は」は、死(「死にごろ」)についての随想(著者、67歳の時)である。また、「山の美と神秘に惹かれて」でも、『胸のうちがしんと澄み、爽快このうえない。こういう冬の朝はとりわけ身も心も再生する気がする』というような冬の山で著者が出会った人は、『まるで「きょうはいい天気ですなぁ」と言うような言い方で、ご自分は末期肝臓癌だと言い、「こんな朝、ここで死にたいものですなあ」とおっしゃった』…と書かれている。その人はしばらくして、「その言葉をほぼ満たして、心しずかに世を去られた」という。著者は、その死をいたむ以上にその人の死をうらやましく思ったという。そして、『みごとな死、すなわち、みごとな生である』と結んでいる。


 「裁かれた命」の、『彼ははたして死に値する極悪人だったのか』という高村薫さんの推薦の言葉、『限られた材料で判断を下さなくてはならないという裁判の大前提、そして人が人を裁くことの不完全さを、裁く側は頭に入れておかなくてはならないと思います』という著者の主張は、本当にそうだろうか。

 以前にも書いたと思うが、人を裁くのではなく犯した罪を裁くのだということ(人が人を裁くことなど、そもそも不可能だと思う)、刑というのは人としての基本的人権を奪うということ(軽い刑ならほんの一部、最も重い刑なら最も重要な権利である生存権)だと、私は思っている。
 
 「強盗殺人事件を起こした青年」は、結果として「恨み言はひとつもなくお礼の気持ちが書かれていた」という年賀状をだし、心しずかに死刑を受け入れたのだろう、と思われる。結果としてそのように死んだ青年を、遡って『彼ははたして死に値する極悪人だったのか』という問いを発するのは、少し視点が違うように思う。この青年は犯した罪を裁かれ、死刑という最も重い刑を言い渡されたのだ。大切なのはこの後である。たぶんこの青年は深く内省したがゆえに、自分の「死にごろ」を受け入れたのではないか。「その死は、すなわち、生である」と知ったのではないか…と思われる。本当に大切なのはここだ、と私は思う。
2011年4月18日 19:35 | コメント (0) | トラックバック (0)