冬の必需品

 加湿器は冬の必需品である。目やのどが渇くのはまあいいとしても、風邪のウイルスを喜ばせることは絶対に避けたい。これまでは超音波式やスチーム式の加湿器を使ったが、いずれも満足のいくものではなかった。タンクに水を入れるのが厄介、構造が複雑で手入れが容易ではない、数えあげればきりがないほど不満が多かった。しかし、使わないわけにはいかない。

 一昨日まで使っていたのはスチーム式だった。それが水漏れを起こした。加湿器の下のカーペットがぐしょぐしょである。なぜ水漏れが起こったのか、その原因など私には究明できない。即、お払い箱である(安物を買ったので惜しくはない)。さて次はどうするか…と、アマゾンへ行った。
 ハイブリット式というのがあったが、どういう構造かよくわからない。もうひとつ、気化式というのもあった。気化式で加湿するというのも、よく考えればよくわからないのだが、商品(Kaz)の説明を読むと構造はいたってシンプルである。シンプル大好きの私である、これがいいかもとすぐにその気になった。 
 水はやかんなどで注ぐだけ…と簡単だ。ふたにはファンが、内部には紙の特殊なフィルターがついている。それだけだ。5分迷っただけでお買い上げ〜、である。

 2リットルのヤカンで2杯半の水を注ぎ、スイッチON。20%だった部屋の湿度はどうなったかというと、使い始めて30分ほどで26%になった。
 水がぬるぬるしてくるのを防止するには10円硬貨を入れておくとよいという人がいるかと思えば、そんなものは効果はないと言い切る人もいる。実際のところどうなのだろう?試しに入れてみようか、効果はなくても害はないだろうし、効果があればそれはそれでいいのだし…。さて、室内の湿度は…おぉ!30%になった。
2011年1月31日 10:50 | コメント (0) | トラックバック (0)

あなたの通知表は?

 年度末が近いということもあってか、通知表の所見は「手書きかPCか論争」が新聞紙上(朝日)で盛んである。当然のことながらそれぞれに長所短所があるわけで、ああでもないこうでもない、いやこうだああだ…となる(年賀状は手書きかPCかというのと同じ論理、ね)。それにとどめをさすかのような投稿が朝日新聞「声」に載っていた。
 要は内容でしょ、という国語塾経営者の意見だ。通知表をランダムに並べ替え、名前を伏せて読んでみて、これは誰それとすべてわかるようであればいい…と言う。単純な話である。

 昔はひとクラス50人もいたということを言い訳にして欲しくないが、私の小学校時の通知表には毎回「情緒不安定」と書いてあった。まるで判を押したように、あるいは申し送りがあったかのように毎回そうだった。
 私は、怒り悲しみ喜び怨み等々の感情を外に出す子供ではなかった。むしろ内に押さえ込む子供だった。ただし、小学校では毎日泣き暮らしていたのは確かだ。それは、教師がいじめたからであった。反抗も抵抗もするすべを持たない子供であったから、泣くしかなかったのだ。いつも泣いていたから情緒不安定だなんて、なんともお粗末である。そんな通知表は、後生大事に残して置く気にはなれず処分した。

 手書きであろうがPCであろうが要は内容でしょ…という意見は、一番まともである。方法はどちらでもいいのだから、子供も保護者もが大切に残しておきたいと思うような通知票をぜひ書いて…と心から願っている。
2011年1月30日 14:20 | コメント (0) | トラックバック (0)

悲観的にみれば

 朝日夕刊「素粒子」には、『イスラム文化の中心が変われば中東が変わる。中東が変われば世界が変わる』とあった。また、日本愛妻家協会なるものの広告特集には、『1月31日は愛妻の日。妻という「もっとも身近な他人」を大切にする人が増えれば、もう少し豊かで平和な社会が訪れるはず。(中略) 1(アイ)月31(サイ)日午後8(ハ)時9(グ)分、目標とする「100万人のハグ」が実現できた時、世界は本当に少しだけ変わるかもしれない』とあった。ご丁寧にも、きょうの夕刊は『ハグマット』付きである。どちらもかなり楽天的だ。「100万人のハグ」なんて、江戸時代末期の「ええじゃないか」みたい…。

 それにしても、、1(=アイ)月3(=サ)1(=イ)日と読ませるとはかなり強引(こじつけ)である。先日出かけた浅草の、アサヒビールの吾妻橋ビルの周りには「53」と書いてあるモノがやたらと置いてあった。何が53なんだろう?とわけがわからなかったので、しばらく観察することにした。すると、それのそばで喫煙している人がいた。それがヒントになり、53とはゴミ、あれはゴミ箱だとわかった。
 ゴミ箱とかゴミ入れとか書くのはそんなに格好の悪いことなのだろうか?5(ゴ)3(ミ)なんて、誰もが読めるのだろうか?53をゴミと読めない人はそんな場所に来るなということだろうか?「絵文字」「絵単語」というものがあるのだから、それを使えばいいものを…と、私は思うのよ。
2011年1月29日 19:27 | コメント (0) | トラックバック (0)

フシギな心理

 春を探しに出かけた先は、題して「向島百花園散策と早春の隅田川めぐり」だった。待合せ場所は東武伊勢崎線東向島駅だ。ずいぶんと思い切ったことをしたものである。初めての電車、駅…、ちゃんと出会えるか不安だった。それは私だけではなく、いつもの連れさんも同じ。不安のあまりホームに出ていた運転手さんにたずねたそうだ。自分も行くから連れて行ってあげますと、心強い対応だったという。

       

 申し分のない晴天で、吾妻橋から眺めた隅田川はまさに「春のうららの〜」であった。冬だからといって荒々しさがあるわけでもなく、寒々しさがあるわけでもなく、うららかそのもの。

 向島百花園では春の七草を見たり、ふきのとうがほんの気持ちだけ頭を出しているのを見たり、春の気配を探しながら散策した。地元の人なのだろうか、何かと説明したがるおじさんがいた。たぶん自称観光案内ボランティアかも。女性にばかり声をかけていたようにも見えたが、なんといっても下町である。郷に入っては郷に従えというから、ほどほどにお相手をしておいた。
 アサヒビールのビルの22階のレストランで、隅田川を見下ろし、スカイツリーを望みながらのランチ。あくまでも、隅田川づくしである。

 日増しに伸びゆくスカイツリーはフシギなものである。特別興味や関心があるわけでもないのに、なぜか見上げてしまうのだ。そして、あっ、見えたと思う。富士山と同じである。あらっ、こんなところからも見えた、とか思いながら、また見ている。
 
 帰りの電車でのことだ、電車が地上に出ると向かい側のシートに座っていたおばちゃんたち(互いに他人)が、一斉に首を曲げ同じ方向を見上げたのだ。最初は何事か?と思ったが、スカイツリーを見ているのだとすぐに気がついた。地元のおばちゃんらしき人たちだったが、まるで号令をかけたかのように動作があまりにもそろっていたのには驚いた。なぜだか見てしまう…フシギな心理である。
2011年1月28日 10:55 | コメント (0) | トラックバック (0)

電車で

 冬眠を中断して(実はこのところずっと冬眠していたのだった)、春を探しに出かけた。ある人は青い地に白の細い縦じまのネクタイ、シャツは横に織り縞の白で黒いボタン、またある人はハンチングに耳あて、メガネにマスク、赤い上着、性別不明(咳をしたので男性と判明)、手には本、「さとりの授業」、著者名は読み取れず、………。これはみな、電車の中で見たものだ。

 若い人が熱心に読んでいた本が気になった。本にはカバーもかけず帯も取らず(こんな状態で本を読むのは、たぶん普段から本を読んでいる人ではないから…かな?)、題名をこれ見よがしにさらしてまで読む本とは…?
 検索してみると、「スピリチュアル・さとりに関心があるすべての人の必読書」だそうだ。なぁんだ…といっては失礼か…。しかしねぇ、そんな本を読んでわかったような気になってもねぇ…。もっともらしく思えることは、たいてい眉唾だ。本当にもっともなことは、石みたいに頑固で、ある日突然ガツンと突き当たるものだという気がするけれど。

 話は戻って、探していた春は隅田川の川面にあった。(つづきは後日)
2011年1月26日 21:00 | コメント (0) | トラックバック (0)

夜毎の楽しみ

 夜毎眠る前のひと時、ちびりちびりと読み進めた「コーマルタン界隈」(山田稔・著 河出書房新社)を、昨夜読み終えた。そして思うのは、なんてウマイのだろう!ということだった。
 1話ずつ読んで(30分程度)、その余韻の中で眠りにつく日々は、本を読む楽しさ、心地よさをいっそう深いものにした。

 今夜から読む本がなくなった。どうしようか…。ほんのわずかばかりの私の蔵書から、「思索の階段 かくれて生きること」(串田孫一・著 朝日新聞社)が手招きしている。この本にしようか…。「今昔物語ふぁんたじあ」(杉本苑子・著 読売新聞社)も手を振っている。どちらにしようか…。

 図書館へも行きたいのだが、この寒さが私を出不精にした。今朝は粉雪が舞った。
2011年1月16日 9:48 | コメント (0) | トラックバック (0)

難しい問題か?

 1月もそろそろ半月となる今日この頃、各地で最後の正月行事であるどんと焼きが行われるという。ところが、無病息災や家内安全を祈願して正月飾りなどを燃やす祭事をなんと心得るのか、全く関係のないものを持ち込む人があとを絶たないらしい。ぬいぐるみや日記など思い出の品から、果ては家庭ごみまで投げ入れる人がいるという。

 近頃この国では、各地にタイガーマスクと名乗る人物が出没し、児童養護施設などに金品を送りつけている。メディアは、それに「タイガーマスク運動」と名をつけ、人々を煽っている。小・中学生までがまねをし始めた。これは褒められることではないのに。子供は大人のまねをしているだけ、責任は大人にある。
 
 これらの現象に共通しているのは、どちらも勝手な解釈で行動しているということだと思う。そして、どちらにも欠けているのは、己を知り他を知ることがいかに大切かということだ。

 厳しく己を知れば、何をすべきか、何はしてはならぬかがわかるはずだし、他を知れば、何をしてはならぬか、何はすべきかがわかるはずだ、と思う。

 昨日、全国児童養護施設協議会は「児童養護施設へのご厚意にかかわるお礼とお願い」という文書を出した。近頃の現象に耐えかねてのことだろう。私たちは申し訳なく思い、恥じ入らなければ…。
2011年1月14日 16:15 | コメント (0) | トラックバック (0)

きょうは何の日?

 1月の第2月曜日が成人の日というのはいまだになじめないが、今年は10日が成人の日だ。また、きょうは「110番の日」でもあるそうだ。そんなこと全く知らなかった。110番にかけるのは、「事件や事故、人命救助など緊急性のある場合」というのは常識だと思っていたが、イマドキはそうでもないのだという(朝日新聞の記事によれば)。

 「家の鍵を落とした」とか「捨て犬がかわいそう」などと110番する人が、少なくない(多い)らしい。何を期待してそんなことで110番するのか、私には理解できないが、警察と交番、警官とおまわりさんの違いを知らない人が多いのだろうか。「家の鍵を落とした」とか「捨て犬がかわいそう」などは交番(おまわりさん)に言えばいいことだ。

 ところが交番はその数が減り、必ずしも近くにあるわけでもない。ならば、「お宅のお近くの交番の電話番号はなになに」と住民に知らせておけばいいものを、それもやっているのかいないのか、十分に知られていないのが現状だろう。私も、駅前にあるのは知っているが、そこの電話番号は知らない。

 「緊急性のない相談や問い合わせは、各警察本部の相談窓口(♯9110)にかけてほしいと呼びかけている」と記事にはあったが、そういう番号があるというのも私は知らなかった。電話帳には当然書いてあるのだろうが、最近では電話帳など開くことはまずない。

 110番通報全体の4分の1は、110番にふさわしくないものだという。4分の1というのはかなりの割合である。そんなことで110番にかかりにくくなったら、困るのは私たち自身だ。ちょっとばかり考えれば…わかることだと思うけれど。
 「家の鍵を落とした」らカギ屋へ行く、「捨て犬がかわいそう」と思えば、自分が保護して飼うか保険所へ連絡する…そんなこともちょっと考えればわかることだと思うけれど。何事も「ちょっと考える」ということをしないで、物事に反応するだけで即座に口を開くのは、どうかと思うけれど。

 きょうは折りしも成人の日。「ちょっと考える」ということをしないワカモノは、「羽織袴とくれば刀でしょ」と模造刀を振り回す。当然、銃刀法違反容疑で逮捕、である。新成人へ贈る言葉は、「ワカモノよ、ちょっとは考えよ」としたい、ね。
2011年1月10日 9:49 | コメント (0) | トラックバック (0)

お守り

 昨日は仕事始め、普段の生活に戻りましょうという日だ。それでは…と、きょうは年末に行きそびれてしまったへカットを済ませた。2011年初の外出である。

 美容室ではいつも「家庭画報」をみるのだが、きょうは間違えて「婦人画報」を見た。その本の中に、お守りの特集があった。お守りになどまったく関心がない私だったが、あるお守りに心が動いた。それは神田明神の兎のお守り(「おねがい兎守り」というらしい)だ。木彫りの兎の部分だけ欲しい、欲しいなぁ、神田明神て神田にある?とか、さまざまな思いが頭をよぎる。

 しかし落ち着いて考えてみれば、お守りの兎の部分だけ欲しいだなんて、よくないのかもしれない。信仰心などないならお守りなど買うべきではないのかもしれない。兎だけ欲しくてお守りを買うなんて、信仰心がなくてもバチアタリな考えだという気がしてきた。

 私にしてみれば、ただの木彫りの兎じゃん、ただの紙切れじゃん、としか思えなくても、ありがたいお守りだと信じる人がいる限り、それは思っても口には出さないほうがいいという気がするのだ。だから、…兎は…諦めようっと。
2011年1月 5日 14:32 | コメント (0) | トラックバック (0)

謹賀新年

 たまには除夜の鐘でも聞こうかと思った大晦日の夜、睡魔に打ち勝てず、気がつくと2011年が明けていた。朝はいつもどおりに済ませ、昼にはかたちばかりのおせちとお雑煮。夜は、男たちには一番小さいサイズの缶ビールを1本ずつつけて、またおせち風とお雑煮。準備の段階からあわせると、もう見飽きた!食べ飽きた!おせちとお雑煮である。2日は中華、3日はカレー、これが我が家の定番となったのはいつの頃からだったろうか。

 元旦の新聞は、これでどうだぁ!と言いたげなほどに厚みがあった。ドアの内側からは取り出せず、そっとドアを開け半身を差し出し外側から引っこ抜いた。それほどの新聞ではあったが、それに見合った読み応えがあったかどうか。全面広告とスポーツ記事の多いことには目をつぶるとしても、読み応えのある記事のなんと少ないことか(ちなみに我が家は朝日新聞だ)。

 生活面にあった「教えて、長続き!」というコーナー、全5回の企画らしい。今回は「長編小説 私も書きたい!」だという。タレント本が話題になっているこの時期にという、いかにも安直なテーマである。元銀行員の作家に、介護施設で働きながら小説を書きたいというワカモノが、そのコツを聞くというなんの工夫もない設定。
 結論は、「毎日少しずつ書くというのは難しいうえに非効率的であるからして、休日に5時間続けて書くべし」との教え。そもそも書くという行為を、小説というものを、どう考えているのだろう。聞くほうも聞くほうだし、教えるほうも教えるほうである。あほらしくて…元旦の朝にじっくり読むほどのものではない。
 今私が読んでいる山田稔・著「特別な一日」を読めば、書くという行為がどういうことか、小説というものがどういうものかが少しはわかるだろうに…と思う。

 次に槍玉に挙げたいのは、文化面の「新春座談会」。演出家と服飾デザイナーと建築家の3人である。見出しは「世界にぶつかっていけ」という。お三方ともそれぞれの分野で活躍中なのだから、朝日賞受賞者であるとか、文化勲章受章者であるとかといった肩書きでくくらなくてもいいだろうに、と思う。
 記事の紹介文のなかに、(例によって)気になる言葉遣いがあった。こう書いてある。
『(お三方は)1960年代から世界と切り結び、いまなお第一線で闘い続けている表現者だ』

 気になったのはこの「世界と切り結び」という言葉である。「切り結ぶ」などという言葉はなじみがないので辞書を引いてみた。元の意味は「互いに刀をまじえて切り合う」ことだという。最近では「激しく争う」という意味でさまざまな使い方がされているそうだが、朝日新聞の記事もその使い方の部類だと思われる。
 わざわざこのような言葉を使わなくてもいいのではと思う(いかにも知ったかぶりである、あるいはハヤリに乗っかっている?)が、「激しく争う」という意味で使用したのであれば、「世界と切り結び、いまなお第一線で闘い続けている」では言葉が重複してしまうのではないか。

 ついでにもうひとつ、「教育 あしたへ」の記事に関して、朝日新聞社世論調査の結果についての3人のコメントを取り上げたい。その一人本田由紀さん(東大教育学部教授)は、私の中では一目のおける人であったのだが、このコメントには少々同意しかねる。仕事に生きる(大学)教育を」というのだが、あまりにも現状にだけ目を向けすぎているように思える。大学は人材育成機関ではないと、私は思う。イマドキであれば高校くらいまでは人材育成機関(本来は人間育成機関だと言いたい)になっていても仕方がないと思うが、大学は自発的に学ぶところであり続けて欲しい。そうでなくては大学の存在意義がなくなってしまう。また山田稔・著「特別な一日」を引き合いに出すのだが、私が心引かれて読むのは、山田稔さんの時代は、うらやましいくらいに、身もだえするほどうらやましいくらいに大学が大学であったからだ。
2011年1月 2日 12:20 | コメント (0) | トラックバック (0)