好みの問題?

 先日から読み始めた「現代のことば 1966−1995」(京都新聞社・編 1999年)はなかなかの本だ。1960年代や1970年代なんて昔々じゃないかと若い人は思うだろうが、私にすれば十分に目を覚まして生きていた頃のことである。
 筆者はその時代の大学教授や学長などといった人が多いのだが、みなさん中身の濃いコトをお書きである。憂えるのは社会の問題だったり、案じるのは世の中の行く末だったりする。間違っても、学力のない学生のための補習をどうするなどといったことではない。たかだか新聞夕刊のコラムに、これほどの(現在の朝日新聞の社説より、ずっと読み応えのある)文章である。それを普通の人が普通に読んでいたのである。しっかりしなきゃぁ…と思う。

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 29日付朝日夕刊文化面に、『消え行く「作家像」』という記事があった。名の知れた小説家が筆名を伏せたり別の筆名や複数で書いたりし始めた、というのだ。作家像と物語を切り離そうとしている、というのだ。
 「作品が作家個人のものに帰属しすぎている」
 「1人の作家の価値観を押しつけるのではなく、読者が2人の作家のどちらに視点を置いて読むのか、選択できるようにしたかった」
 「高い位置にいる作家が特赦を導く構図。物語の読み方を、読者に返すことも必要ではないか」
 「誰が書くかより、どう読まれるかが大切だ」
…これらが、「作家像と物語を切り離そうとしている」人たちの言い分らしいが、私は基本的なところからして、これらには全く納得がいかない。

 小説(イマドキ文学とは言わないらしいのも気にいらないが)に限らず、作品とはなにか?と考えた場合、作家自身を作品から切り離すなどということは考えられないしあり得ない。極端な言い方をすれば、作品は作家の骨身を削ったものだ。だからこそ惹かれるのだ。
 もっとも、この記事でも「小説」(文学ではないのは言うまでもなく)ではなく「物語」という言葉を使っている。ケータイ小説の物語主義…というヤツね。娯楽的読み物にはなり得ても、それだけ、だ。それをもって「小説の可能性が広がると思う」というのは、ちょっとっ違うような…。
 このような時代の風潮と、先日のアイデア流用しての新人文藝賞応募や全くの盗作詩での応募は関連があるのでは、と言っては言いすぎか?
2010年10月30日 16:15 | コメント (0) | トラックバック (0)

重い言葉、軽い言葉

 駆け足どころか全力疾走で寒さがやってきた。札幌では紅葉と雪が共存しているらしい。めったに見られない風景と思えばナンだけれど…どうなのだろう。
 このところの気候のように、はて?どうなのだろう?というのが前首相のハトヤマさんだ。何を考えているんだか…。意地もなければ意気地もない人のようだ。オトコが(オンナでもそうだけれど)いったん口にしたことは、意地でも貫き通さねば。『はい、さようなら』と辞任会見もせず逃げ出した御本人が、「国難といえるときに、自分だけ辞めて『はい、さようなら』でいいのか」とは、笑えない冗談だとしか言いようがない。

 もうひとつ、はて?どうなのだろう?と思うのは、毎週のようにあった感のある脳死臓器移植が、はたと中断していることだ。改正臓器移植法施行後の脳死臓器移植を受けた患者がふたりも手術後に亡くなったことと関連があるのだろうか。あるとは誰も言わないだろうが、ないとも誰も言えないだろう。

 家族の承諾で臓器が提供された事例の多くが、脳死と判定された患者の体の一部がどこかで生きていてくれれば…という家族の思いからのものだったはず。ところが、元気になるどころか術後数ヶ月で亡くなっていたとなれば、臓器提供を承諾した家族の思いはどうだろうか…。それに対しては、誰がなんと言うのだろうか。誰がなんと言えるというのだろうか。手術を担当した病院や医師が、手術そのものや術後の管理には問題はなかったと居直っているだけでは、とてもやりきれないだろう。 

 そんなこんなで新聞を読む気も失せ、テレビのニュースなど全く見る気がせずの日々なので、気分転換に図書館へ。予定していた本はすでに借り出されていたので、借りたのは次の1冊だけ。

「現代のことば 1966−1995」(京都新聞社・編 1999年)…京都新聞夕刊に連載「現代のことば」を単行本化したものだという。なかなか読み応えがありそう。
2010年10月26日 20:47 | コメント (0) | トラックバック (0)

東京迷路駅

 東京へはほどほど出かけているが、東京駅の外へ出ることはめったにない。先日、三菱一号館美術館へ行くために珍しく東京駅で降り立った。総武線ホームから延々とエスカレーターに乗り地上に這い出ると、丸の内南口はすぐのはずだった、私の記憶では…。
 工事中の東京駅は床はボコボコ黒いシートが張られ、まわりは囲いだらけである。わからないままに前進すると、見たこともないような場所(角にアンデルセンがある所)に出た。どちらに向いて歩いているのかわからないまま、案内板を頼りに丸の内南口を目指して進むと、どうにかたどり着けた。しかし、どこをどう歩いてきたのかは、駅構内図を見ても理解できない。東京駅構内で迷子になったらどうすればいいのだろう?
 
 どうにか外へ出たはいいが、丸の内は背の高いビルが建ちこめ先が見渡せない。方向だけ確認して歩き始めたが、延々とはとバスの乗り場が続いている。不安になりつつも、このあたりと目星をつけて信号を渡ると、TOKIAの前だった。この近くにあるはずだ。でも見つけられない。警備員に尋ねる。やはりすぐそこだった。

 その後は八重洲側に移動して、北原ビルへ行くことになっていた。八重洲側に出るのは問題なく済んだ。八重洲ブックセンターもすぐに目に入った。その左側の通りを入ればすぐのはずだった。明治屋まで行ってはダメよと言いながら進むと、すぐに明治屋だ。戻りつつ、きょろきょろするが見つからない。角のドラッグストアで尋ねると、目指すビルは目の前だった。道路に面した入り口は、階段だけである。なんともおそろしく古びたビルだ。ガタビシ音を立てるエレベーターで上がると、いきなりドアが二つ。そのうちのひとつが目指す店だった。こんなところで商売をしてる人がいるとは、東京とはフシギなところである。

 三菱一号館美術館は、私好みの洋館だ。ひとつひとつの部屋を訪ね歩くように見て回る。こういう雰囲気の美術館は好きだ。しかし、この日は少々気分が悪かった。
 おばさま二人におじさま一人のグループがいた。そのうちのおばさまの一人が、それぞれの作品の前で、いちいちご自分の知識を披露するのだ。しかも声高に。見るからに元教師風情である。まわりにいる私たちは「アナタの生徒じゃないんだぜぃ」と言いたかった。自分たちだけが楽しけりゃいいっというものではない。小さな展示室では控えめにしなきゃ…と自分自身にも言い聞かせたのはいうまでもない。
2010年10月23日 11:17 | コメント (0) | トラックバック (0)

さまざまなようでいて、実は…

 わからないようでいてわかること、わかるようでいてわからないこと、さまざまある。河出書房新社主催の新人文学賞「文芸賞」の受賞内定者が、インターネット上のアイデアを無断使用したとして、受賞を取り消されたという。
 これまでの私であれば、どういうこと?どうなってるの?と思っただろうが、先日の件があってからは、さもありなんと変に納得した。アイデアの流用だけでなく、「作家としての姿勢」なども問われて受賞取り消しとなったそうだ。一応まともな選考委員だったようだ。
 応募総数が2012点だというのには驚いたが、その中で一番と思われたものでさえコレである。ある編集者は「出版不況が続く中、話題性を求めすぎた影響もあるのでは」と話しているとする記事もあったが、話題性を求めすぎているのは誰?読者?出版社や編集者?はたまた作者?どちらにしろ、作者に関しては小説の技術以前の問題だし、編集者に関しては編集の姿勢以前の問題だと思える。

 女子柔道金メダリストの新人参院議員が、選手引退会見を憲政記念館でおこなったという。つくづくわからない人だと思う(私が理解できないという意味と、世の中のことがわかっていない人だなぁという意味と両方で)。誰に教わったかしらないが、ずいぶんとご立派な会見である。しかし、たかが選手を引退するというだけのことを、なぜ国会議員という肩書きを振り回し、憲政記念館などという場所で言う必要があるのか?内容からいえば、柔道関係者の立会いのもと、そちら関係の建物で会見すればすむことだ。

 つまるところは、オリンピックのメダル(しかも金だけ)にしか関心のない選手が、外堀を埋められたから引退を口にするしか道がなくなっただけのことではないか。本当に柔道が好きであれば、後輩の指導者という立場で選手の環境整備に尽くすこともできるはず。誰かさんのおかげでぽこっと国会議員になったところで、数年でどれだけのことができるというのか。
 参院選への出馬会見で現役続行を宣言したからには、外堀を埋められようが何されようが、何が何でもあらゆる手を尽くしてやり遂げなければすべては「無」である。世間にがむしゃらさを見せつけることもせず、あっさりと引退しますとキレイゴトを並べるのはどういう了見なのだろう。

 わからないようでいてわかること、わかるようでいてわからないこと…、昨今のこれらの現象の根は同じなのではないかという気してきた。
2010年10月17日 9:38 | コメント (0) | トラックバック (0)

いろいろありまして…

 タバコ税の増税は、当然税収入の増加を狙ってのことだったのだろうが、実際にはその思惑は少々ずれたような感じだ。値上がり前の駆け込み需要で、9月は昨年の倍もの販売量だったという。つまり、値上げしたタバコは極力買いたくないと思った人が多かったわけだ。

 また、そんな高いタバコは買えないと禁煙外来に走った人も、月間7万人程度だったのが9月には17万人に一気に増えたそうだ。それどころか、今月は6日間ですでに8万人だという。そうなれば、禁煙治療補助薬は不足する。大手製薬会社は、すでに治療中の人の薬を確保するため、供給を一時、制限し、新規の患者への処方を見送るよう医療機関などに要請するという。なんともまぁ、大変な事態になったものである。禁煙外来が保険も利くようになって、ニコチン依存症は治療の対象であることが認知され始めたのに、薬不足のために治療が受けられない人は気の毒である。

 我がオットも9月に禁煙外来へ走った17万人のうちのひとりである。長年どうしょうもないニコチン依存症だった。心筋梗塞で冠動脈にステントを3個入れてもなお喫煙している、どうしょうもないオトコである。そのヒトがついに禁煙外来へ行ったらしい。5回の受診で完全に永久にニコチンと手が切れるのか少々危惧が残るが、今となっては治療が受けられるだけでも幸運である。こんなことで幸運だとか不運だとかに分かれるのは、本当はおかしいのだが、誰もかれも認識が甘かったようだ。

                               ☆

 チリの鉱山落盤事故の救出作業がいよいよ始まるという。誰もが待ちに待った「時」である。しかし、それを生中継するというのは、「どうもね…」と私は思う。現地やチリ国内は別としても、日本のテレビ局までが「世紀の救出の瞬間」を見逃してはなるものかとばかりに放送するのは、やはり「どうもね…」である。
                               ☆

 つまらない本はとっとと返して、新たに図書館で借りてきたのは次の3冊。

「絵の教室」(安野光雅・著 中公新書)
「犬と人のいる文学誌」(小山慶太・著 中公新書)
「都会の花と木」(田中修・著 中公新書)

 新書の読者の大半は40、50代の男性だという記事をどこかで読んだが、新書を3冊も借りてきた私(オンナ)って変わり者?
2010年10月13日 10:54 | コメント (0) | トラックバック (0)

これも本

 先日図書館で借りた「おさがしの本は」(門井慶喜・著 光文社)はつまらないというか何というか、読むに堪えず早々に投げ出した。光文社のサイトでは、「端正な筆致と、該博な知識に裏打ちされた、上質で爽やかな探書小説、待望の完成です」と宣伝されている。ふぅ〜む、そういう言い方もあるか…とは思ったが、それは言いすぎではないか?という気もする。
 
 「端正な筆致」とはどういう点をさして言っているのだろうか?「惑溺」「違(たが)える」「版面(はんずら)」「浅学菲才」「化外」「僻陬」「素志」「爆ぜる」「稀覯」「枉げる」「贅する」…等々、このような言葉というか漢字というか、このような表現をする必要性がどこにあるのか、全く理解できない。
 
 「該博な知識」とは、あぁ、この点をさして言っているのだなとわかるが、その部分は全体から見るとくどくどと説明っぽくて、何故そんな「該博な知識」をひけらかす必要があるのか理解できない。

 「上質で爽やかな」とは…ね。そう言う場合は基準が問題である。そして、「探書小説」とは何ぞや?
つまるところ、全体が非常にアンバランスだ。こんな本、…借りるんじゃなかった。失敗した。 

 …というわけで、近いうちにまた図書館へ行こう。借りたいのは、今朝の新聞の広告欄に載っていた「絵の教室」(安野光雅・著 中公新書)だ。出版社のサイトで見ると、「技術と想像力という視点に立ち、絵画の奥深い世界を案内するものである」と書いてあった。技術と想像力…ね、なるほど。
 「惑溺」「化外」「僻陬」「素志」「稀覯」等々の漢字を使えば主人公の性格なり気質なり特徴が表現できると思っているのだとしたら、小説の技術以前の問題かも。
2010年10月10日 10:16 | コメント (0) | トラックバック (0)

答えのない問題

 朝日新聞(10/8付)朝刊の「時時刻刻」に、脳死臓器移植に関して臓器摘出手術がおこなわれたある病院の院長の話が載っていた。事故で意識不明で搬送された患者が家族の承諾で臓器摘出されるに至った経緯をひとりの医師が語っている。新聞社の取材に応じたのは、「臓器提供の背景に、家族の重い決断とそれを支える医療者がいることをわかってほしい」からだという。

 たった一つの例で全体を語ることはできないが、医療者がどんなに誠意を尽くそうと患者の家族は非日常の状態にいることに変わりはない。この例では、患者もその家族もそれまでに脳死移植について考えたり話し合ったりはしていなかったようだ。突然の出来事により問題を突きつけられたわけだ。改正脳死移植法では「家族が承諾すれば臓器を提供できる」という前提のもとでコトは進行する。つまりその前提のもとでしか思考できないということだ。

 「本人の提供の意思がないまま提供してと中傷されることが一番怖い」と言う家族が、どのような心境の移り変わりで臓器提供を承諾するに至ったのか。「どこかで生きていて」、「生きてたら息子は『(臓器提供を)やれよ』と言うてくれる」、「息子なら、どこででも生きていける強さがある」…等々の家族の言葉が紹介されているが(医師らは、そうやって家族は気持ちの整理をつけたのだと思いやったそうだが)、「家族が承諾すれば臓器を提供できる」ということが、「家族が承諾しなければならないのだ」と受け取られているということはないだろうか?
 私自身についていえば、非日常の状況の中で難しい問題に関して判断し決断するなどということはとても無理である。だからこそ、こうして常日頃からいろいろな状況を想定し、どう考えればいいのかを考えている。

 そういうふうに気持ちの整理をし臓器提供を承諾した家族は、それぞれご本人も脳死移植のドナーになるという意思表示を、その後するのだろうか?問題はその後にもあるのだ。
2010年10月 9日 11:17 | コメント (0) | トラックバック (0)

今回の本は

 10月もはや1週間、あの夏が夢かと思われるほどのさわやかさだが、歯茎の痛みに悩まされている私は少々鬱陶しい気分。でも、散歩がてら図書館へ。借りたのは次の3冊。今回は当たりかはずれか…?

「クレーの食卓」(林綾野 新藤信 日本パウル・クレー協会 講談社 2009年)…レシピ付き
「気になる部分」(岸本佐知子・著 白水社 2000年)…以前から気になる人だった
「おさがしの本は」(門井慶喜・著 光文社 2009年)…光文社発行だし著者も知らない名だし、と迷ったが題名がおもしろい

 図書館へ行ったもうひとつの目的は、「暮らしの手帖」の最新号で「クートラスのある部屋」を読むためだった。雑誌のコーナーはCDやDVDの棚の向こう側、中庭に面した隅にある。めったに行かない場所なのだが、DVDを見ている人が何人もいたのにはちょっと驚いた。いちいち覗いたわけではないのでわからないが、平日の午前中から図書館でDVDを見ているのはどういう人なのだろうとちょっと興味を引かれた…が、同時にちょっと寂しくも思った。

 さて、その「クートラスのある部屋」だが、クートラスとは画家の名前、その作品を所有している人の部屋を紹介している記事だった。そのクートラスの作品の展示が「POSTALCO 」であるという。…で、観に行きましょうというお誘いがあったという話。今月のお出かけは三菱1号館美術館とクートラス。フシギな組み合わせ。
2010年10月 7日 21:01 | コメント (0) | トラックバック (0)

国勢調査始まる

 今日から10月。そう…そろそろ国勢調査票に記入しなければならない。めんどうだぁ〜、と思う。こと細かに記入しなければならない。私ひとりが家族の分まで?あぁ、面倒だぁ〜。

 これまでの国勢調査では、調査票をもって来るのはきまって中高年の女性だった。しかも、近年はごくごくご近所さんが来ていた。ところが、今回はけっこう若い女性だった。しかも、全く見知らぬ人だ。その人が言うには、「調査票は4人分まで記入できます。1枚で足りますか?」 
 以前なら「住んでいる人は何人ですか?」とか「ご家族は何人ですか?」というような聞き方だ。この違いは何なのだろう…。私が「足ります」とひとことで答えたのはいうまでもない。
 提出方法に関しては、封をして調査員に渡すか郵送するかどちらかで…などとは言わず、「郵送してください」と。我が家の場合、マンションの入り口にポストがあるからだろうか。どちらにしても、調査員と顔をあわせるのは一度きりだ。ただ調査票を渡しに来ただけ。それだけの仕事に「調査員」と名づけるのはちょっと大げさな気がする。

 話は変るが、今朝の天声人語に「落後」という表現があった。「落伍」の意味である。なぜ「落伍」ではなく「落後」なのか?と若い人が天声人語子に噛み付いていた。「伍」という漢字は常用漢字ではないそうな。故に「後」という漢字で代用するのだと。ふざけた話だと思う。漢字はそれ自体がそれぞれ意味を持っているのだから、他の漢字で代用などできるわけがないではないか。伍から落ちるから落伍なのであって、後に落ちたって落伍にはならないではないか。常用漢字以外の漢字は使ってはいけないと?そんなバカな…。分類上学校で教えなくてもいい(教えてもいい)漢字であったとしても、おとなであればきちんと使って欲しい。
2010年10月 1日 11:26 | コメント (0) | トラックバック (0)