ドナーカード改めドナーに関する意思表示カードを

 昨日、改正臓器移植法に基づく2例目の脳死判定が行われたとの報道があった。その度の記者会見がいつまでおこなわれるかわからないが、昨日の会見も問題が多い…と感じた。
 今回の場合は全くの家族の承諾のみでコトが進められたようだ。それはそれで法律がそうなったのだからどうということはないのだろう。だが、「もう助からないのであれば、どこか体の一部が生きていればうれしい。元気な体なので、たくさんの人の役に立ってほしい」というのが家族の言葉として公表されたが、家族の心情はそうであろうと思われるが、それをあえて公表する意図は何か?ある意味都合のよい情報だけが公表されていると思うのは私だけではないだろう。

 脳死というのは臓器は機能していてもその人格は死んでいるとする考え方だと私は理解しているのだが、臓器提供を承諾した家族といわれる人たちはどう捉えているのだろう。先のコメントを読み解いてみると、「もう助からない(その人格は死んでいる)のであれば」「どこか体の一部(臓器)が生きていればうれしい」と考えているのだろうと思われる。

 それは脳死移植法における脳死の定義どおりではあるが、「人格は死んだがその臓器は生きている」という考え方は私には理解しがたい。「臓器は(他の生命体のなかで)機能している」にすぎない。確かに他人の役にはたっているだろうが、その頃にはその臓器はドナーとは無関係のはずだ。ただの臓器、体を維持するための部品のひとつにすぎない…そう考えろというのが臓器移植法の脳死の定義だと私は理解していたのだが…。

 1日の交通事故の数がどの程度か正確には知らないが、その中には若い人も多いことだろう。家族の言葉として公表された「元気な体なので、たくさんの人の役に立ってほしい」ということからも、ドナーは交通事故で脳死になったのではないかと思われる。「もう助からないのであれば、どこか体の一部が生きていればうれしい。元気な体なので、たくさんの人の役に立ってほしい」という今回のドナーの家族の言葉は、公表されたことにより今後に大きな影響を持つと思われる。前例はやがて社会の規範となる。それが日本臓器移植ネットワークの意図するところなのだろう…と、私は感じた。
 臓器移植は生々しい人体操作なのに、それを数々の言葉でキレイゴトにしている。キレイゴトにしなければ、とても通常の人には耐えられないコトだからだ。そのことを十分に承知した上での臓器提供の承諾であればいいが、実際はどうなのだろう………?
 早々に、私はドナー拒否カードを所持しようと思っている。
2010年8月20日 8:57 | コメント (0) | トラックバック (0)