貴重な一冊

 本が本を呼び、その本に誘われて、思わぬ世界へたどり着く。先日、予約件数がゼロになって図書館へ戻ってきていた「ぼんやりの時間」を借りた。その最初のページに取り上げられていたのは串田孫一さんだ。うれしくて、おもわずウフンと笑みがもれた。

 著者の辰濃和男さんも串田孫一さんの本を繰り返し読んでいるという。そうでしょうとも、そうでしょうともと肯きながら読み進む。すると、「湧き水」という言葉があった。『串田の数々の文章を読み、それらはみな、長い黙想のなかで湧き水のように流れでてきたもの、という感じを私はもっている』、と辰濃さんは書いているのだ。驚くとともに、そうなのよ、そうなのよ、そうなのよ!と叫びたくなった。串田孫一集を読みながら私が思ったのもまた、串田さんの文章はまるで「山の湧き水」のようだということだったのだ。

 「串田孫一集8」のどの辺りだったかは手元に本がない今正確にはいえないのだが、文章は思ったまま感じたままを書いていてはだめだという意味のことが書いてあった。串田さんの日記の文章と、これまで読んできた1冊の本として完成された文章を思い起こすと、その意味がよく理解できた。「思ったまま感じたままの文章は、例えるなら水道水(感動したから、「感動した!」と叫ぶようなもの)だ。それに対して串田さんの本の文章はまるで山の湧き水だ」…と、そのとき私は思ったのだった。湧き水にたどり着くまでにはどれほどの時間と深い深い思索があったことか…と思い、だからこそ読む私の心をとらえて離さないのだと確信した。

 また、「子どもの場合も、ぼんやりすることは大切だろう」とも書いてある。私はこれにも大きく肯いた。串田さんは、『ぼんやりするのは、ちょうど蛹の時期にあたると思っていい。羽化するためには、蛹となって静かに瞑想しているような長い時期がどうしても必要である』とも書いているという。本当にそう…と私は思っているが、それを理解しない人は多い。子どもは小学校の時期から、ぼんやりすることを許されない。私は息子の小学校(3年生の頃)の担任に直談判して訴えたが、全く理解を得られなかった。

 「ぼんやりの時間」を読んでみようと思う人は少ないかもしれないが、お薦めの1冊である。
2010年7月25日 9:36 | コメント (0) | トラックバック (0)

夏の本

 こう暑くてはあまり本も読めず、串田孫一集は4週間かけても最期まで読みきれなかった。一旦返すことにして、新たに図書館で借りたのは次の2冊。

 「ぼんやりの時間」(辰濃和男・著 岩波新書)…5月に気になる本のリストに書き加えてから2ヶ月で手元に。

 「人生の色気」(古井由吉・著 新潮社)…著者から聞き取ったものを編集部が文章に起こし、著者が校正したものだそうだ。著者は1937年生まれ。何歳になっても色気のある人というときの色気ではなくて、人生の色気って?なんだかちょっと気になる。 

 朝の家事のあいまに、キンメ鯛の煮付けを作った。もちろん夕食用だ。夕方のキッチンは灼熱地獄。
2010年7月24日 10:08 | コメント (0) | トラックバック (0)

本当に誤解か?

 朝日新聞「オピニオン」に、『「脳死は一律に死」は誤解』と題した参議院議員の人の意見が載っていた。改正臓器移植法では、『脳死した者の身体』について、「その身体から臓器移植に使用されるための臓器が摘出されることとなる者であって」という部分が削除されたことで、「脳死は一律に死」との誤解が生じている、…というのがこの人の意見のようだ。脳死した者の身体に関する法律上の定義規定がいかに改正されようとも、臓器移植の場合に限って脳死は人の死という原則は変わらない、というのだ。読んでいて思ったのは、この人自身にも誤解がるのではないかということだ。それとも、私に誤解がある…?

 まず考えたいのは、なぜ「その身体から臓器移植に使用されるための臓器が摘出されることとなる者であって」という文言が削除されたのか?ということである。この部分はドナーの意思と密接な関係があると、私には思える。ドナーの意思表示があるかどうかが大前提であったこれまでの法律では、この部分は不可欠だったはずだ。それを削除したのは、ドナーの意思は不要としたからである。医学的に脳死と判定されればそれはすなわちその人の死、としたということなのだと思う。
 そうなれば、すべての脳死になった人はドナーの対象とみなしてもよいということになる。積極的に臓器移植の話を持ち出し説得しやすくなる、ということだろう。そう考えれば、「脳死は一律に死」は誤解であるとはいえない。
2010年7月21日 10:13 | コメント (0) | トラックバック (0)

美談?

 明日17日に改正臓器移植法が施行される。それにあわせた朝日新聞の記事によると、愛知県の病院で子どもの脳死臓器移植の訓練をしたという。それを見学したある病院の高度救命救急センターの人は、「虐待を隠すため、臓器提供という美談に仕立てようとする親がいるかも知れない」との懸念を口にしたらしい。

 この人の認識では臓器提供は美談となるらしいことに、私はとても驚いた。この改正臓器移植法における臓器提供が美談であるわけがないではないか。

 改正臓器移植法では、「臓器を提供する意思が本人にあったかどうか不明な場合、家族の承諾で提供できる」となる。この意味を考えれば、あらゆる人を臓器提供者とすることを前提としているということだ。そしてここで必要とされるのは、”家族の承諾”にすぎない。承諾とは「いいですね?」と問われて「はい、いいです」と答えるだけのことだ。ちなみに美談とは「美しい話。感心すべき立派なおこないについての話」である。臓器提供を美談とするなら、法律が、「これは感心すべき立派なおこない」なのであるからして、つべこべ言わずに臓器を提供せよと国民に迫るに等しいではないか。

 臓器移植は医療であり、臓器は互いに提供し合わなければ成り立たない医療であるというのであれば、人々の感情や意思などは抜きにした、手順を明確にするための法律でいいわけだ。そうしなければ需要と供給のバランスは永久にとれないだろう。そうなれば、美談でもなんでもない。一方でこれは医療だと言いながら、これは感心すべき立派なおこないなのだからと臓器提供を迫られるなんて…私はまっぴらだ。
2010年7月16日 11:38 | コメント (0) | トラックバック (0)

マメをつぶす

 パソコン机の下に、組み立て式のちょっとした棚を置くことにした。ネジを8個取り付ければいいだけだ。簡単!簡単!と、朝一番でとりかかった。あいにく手元には柄の短いドライバーしかなかった。ネジ8個だからいいか…と気楽に考えたのが間違いの元だった。

 ネヂネヂネヂとドライバーを握る手に力を込めてまわしていたら、中指の真ん中にできたマメがつぶれていた。皮はどこへ行ってしまったのやら、生身がむき出しである。これは痛い。いつのまにかすっかりやわな手になっていた。これしきのことでマメができるなんて…。
 生身は石鹸が沁みる、シャンプーが沁みる…、何をするのも痛い。それから3日。やっと皮(皮膚のこと、ね)が再生した。適した道具を使わないと、こういうことになるのだ。ちょっと反省した。
2010年7月10日 9:45 | コメント (0) | トラックバック (0)

気がつけば7月に

 うかうかしていたらもう7月だ。そしてすでに3日。今朝の朝日新聞に、『本国での不人気はなぜ、「フランダースの犬」の謎に挑む」女性を紹介する記事があった。「フランダースの犬」は、第2次大戦後にアメリカが「日本の子どもに希望を」と普及させた本だという。その後日本ではアニメ版もできたのは多くの人が知っているだろう。しかし、アメリカで映画化されたものは、少年ネロが画家として大成するサクセスストーリーになっているそうだ。

 第2次大戦後にアメリカが「日本の子どもに希望を」と普及させた本だったと知って、なるほど…と思った。アメリカは、日本という国、国民をよく研究したうえでこの本を普及させたといことがよくわかる。多くの日本人はあの結末に涙する。そして感動的な物語だと言う。でも私は、ストーリーが教訓的で好きではない。

 「串田孫一集8」を先日から読んでいるが、なかなか読み進めることができない。やっと昨夜、1943〜1946年の日記を読み終えた。いろいろと思うところがあったのだが、その中のひとつに、アメリカが意図的に日本にひろめたのに大ヒットした「フランダースの犬」と通じる事柄があった。

 1945年9月の日記に、串田孫一さんはこんなことを書いている。「米兵は別にそれ程恐ろしいことはなく、アメリカ人らしく愛想を振りまいています。(中略)僕はこれらの米兵に対する日本人の軽薄が目についてかないません、憤慨しています、(中略)米兵から三、四十円で買った煙草を、皆大っぴらで自慢そうにのんでいますし、帽子を横かぶりしているのをその儘真似している人が実に多いのです、矢張り日本人の方がだめなのです。(中略)こんな有様は見ない方がいいのです。見たところで何にもなりません。それよりラジオを買って、新派だの歌舞伎だのを聞いている方がよいと思います。(後略)」…と。

 話を「フランダースの犬」にもどすと、原書を読んでないのではっきりしたことはわからないが、アメリカの手によって日本に普及された「フランダースの犬」は、たぶん「日本人向け」、「こども向け」なのではないだろうか(機会があれば原書に忠実な訳本を読んでみたい)。それに感動しただの涙しただのというのは、串田孫一さんがその日記で憤慨しているところの軽薄でダメな日本人と同じである。

 かく言う私も日本人だ。だからこそ、思慮深くありたいと常に思っている。付和雷同だの迎合などというのは断じて受け入れたくないと思っている。
2010年7月 3日 12:50 | コメント (0) | トラックバック (0)