何のために言葉はあるのか

 こだわりのない者にとっては見過ごしてしまうことだが、『「1・17のつどい-阪神・淡路大震災15周年追悼式典」で、祝い事に使われる印象もある「周年」という言葉について、一部の参加者から「遺族感情にそぐわない」との疑問の声が出ている』と、神戸新聞の記事が伝えている。

 広辞苑によれば言葉の使い方に間違いはないそうだが、本質的なことでない部分でごちゃごちゃもめることもないだろから、頭に「第15回」とでも付ければすむじゃないか…と思うけれど、どうなのだろう。

 言葉が時とともに変化するのは避けられない。正しい用法であっても、人々の感覚が受け入れないということもある。先の場合は言葉の用法の変化を問題にするほどのこともなく、表現を変えればすむことだ。

 最近よく耳にする言葉の使い方で耳障りなものに「全然」という言葉がある。これは後に「…でない」と続かなければ聞いていて気分が悪い。しかし、イマドキの若い人は(実際は、若い人に感化されたか、ワカクない人も)「全然…だ」と言う。気分が悪いと感じるのは私の問題であって、用法としては間違っていないらしい(もっとも、第一義は打消を強める語である)。
 
 この言葉はどう捉えられているのだろう?と、いちいち相手の気分を推測しながら話すなどということは不可能である。だからこそ、言葉の意味は共有される必要がある。せめて言葉の第一義は世代を超えて共有しなければ、話ばかりか心も通じ合わないではないか。
2010年1月24日 10:00 | コメント (0) | トラックバック (0)