ここも東京

 にわ1.jpg 一瞬これはどこ?と思うような写真だが、東京の青山である。新しくなった根津美術館の庭である。ここへ出かけたのは4年ぶり。建物だけでなく、庭もずいぶんきれいになっていた。 

 あちこちに茶室が点在し、木立の合間から垣間見終える。木々はどこに何が植わっているかわからないほど、入り乱れている。眺める庭園ではなく、木立を抜けて茶室に行くための庭のようだ。茶室には入れないが、たぶん室内は別世界のような静寂が漂っていることだろうと思わせる。


うめ.jpg やっと見つけた梅の花(背景は石灯籠の頭の部分)。庭から切り取った一幅の絵を気取ってみた。

 今回観たのは、「陶磁器ふたつの愉楽」観るやきもの・使ううつわ である。「青磁筍花生」を観て、これには何を活ける?といつもの連れさんに尋ねると、即座にテッセンを1本!と返事が返った。「緋襷鶴首花瓶」には何を?と尋ねると、ススキ!という返事。そんな遊びをしながら観る楽しみ方もまたおもしろい。


根津.jpg 一列に植えられた竹が車道を隠す。ここも、ここはどこ? である。







2010年1月30日 10:11 | コメント (0) | トラックバック (0)

うのみ

 若い人から聞いた話。何でもうのみにしてはいけないという講演を聞き、それをうのみにする人々がいかに多いことか…という話。たとえば、NHKの子どもニュースの元お父さんの『小学生から「新聞」を読む子は大きく伸びる! 』という講演を聞き、熱心にメモを取る人ほどそれをうのみにする…など、ね。

 その本の紹介によれば、『国語力はもちろん、あらゆる学力を伸ばすのに最適な教材、それが新聞です。1日10分の習慣で、「読解力」や「語彙力」「考える力」「知識」といった学力の基盤がしっかり身につき、学習効率がぐんぐんアップ! 』だというが、まず「ほんとかいな?」と疑ってかかることも必要。そこから出発しなければ思考力は身につかない。

 朝刊の本の紹介欄に、集英社の本、本日発売の広告があった。その中の1冊が、読解力&理解力養成に!「数学力は国語力」(齋藤孝・著)。どこかの大学の教授らしいが、この人は名前で本を書いている。それを読んでうのみにするのは…。

 人々がそれを読んでうのみにするのは、それがハウツウ本であるからにほかならない。こうすればこうなる、ああすればああなる、ああそうか!のどこに○○力が存在するというのか。

 もうひとつ、若い人から聞いた話。ドラクエ世代向けのバーが六本木にあるそうだと言う。ドラクエにちなんだ名前のカクテルとか、スライムの肉まんなどがメニューにあるらしいと言う。聞けば、ドラクエ世代とは30〜40歳代をいうそうな。

 ここで変な具合に合点がいった。小学校の先生はドラクエ世代なのだ。スライムの肉まんを食べるひとなら、NHKの子どもニュースの元お父さんの講演を聞きに行き、熱心にメモを取り、仕事の上で実践することだろう。その合間には齋藤本も読み、こうすればこうなる、ああすればああなる、ああそうか!と膝を打ちもするだろう。私などがそれは違うと言ったところで、何が?どこが?と心底思うことだろう。

 もし私が奨めるとしたら、要約をするといいと言いたい。要約をすれば、それが如何に内容のない文章か、あるいは、論理が捻じ曲がった文章か、本当に読むに値する文章か…等々がよくわかる。
2010年1月26日 10:00 | コメント (0) | トラックバック (0)

新聞小説

 朝日新聞朝刊の新聞小説は、川上弘美・作の「七夜物語」である。ふだんは新聞小説を読まない私なのに、いつのまにか読み始めているのだ。そして、今では読むことを楽しみにしているのだ。途中から読んだので事の成り立ちはよくわからないのだが、”さよ”と”仄田くん”の物語である。なぜかふたりはすぐに眠ってしまうのだ。

 不思議なリズムのある新聞小説である。そのリズムが心地よく、知らず知らずのうちに物語の世界へ私を誘い込む。そして、気がついたら毎朝読んでいた。

 昨年の9月10日から始まっていたそうなので、すでに第3章である。本になれば最初から読んでみたい。
2010年1月25日 9:05 | コメント (0) | トラックバック (0)

何のために言葉はあるのか

 こだわりのない者にとっては見過ごしてしまうことだが、『「1・17のつどい-阪神・淡路大震災15周年追悼式典」で、祝い事に使われる印象もある「周年」という言葉について、一部の参加者から「遺族感情にそぐわない」との疑問の声が出ている』と、神戸新聞の記事が伝えている。

 広辞苑によれば言葉の使い方に間違いはないそうだが、本質的なことでない部分でごちゃごちゃもめることもないだろから、頭に「第15回」とでも付ければすむじゃないか…と思うけれど、どうなのだろう。

 言葉が時とともに変化するのは避けられない。正しい用法であっても、人々の感覚が受け入れないということもある。先の場合は言葉の用法の変化を問題にするほどのこともなく、表現を変えればすむことだ。

 最近よく耳にする言葉の使い方で耳障りなものに「全然」という言葉がある。これは後に「…でない」と続かなければ聞いていて気分が悪い。しかし、イマドキの若い人は(実際は、若い人に感化されたか、ワカクない人も)「全然…だ」と言う。気分が悪いと感じるのは私の問題であって、用法としては間違っていないらしい(もっとも、第一義は打消を強める語である)。
 
 この言葉はどう捉えられているのだろう?と、いちいち相手の気分を推測しながら話すなどということは不可能である。だからこそ、言葉の意味は共有される必要がある。せめて言葉の第一義は世代を超えて共有しなければ、話ばかりか心も通じ合わないではないか。
2010年1月24日 10:00 | コメント (0) | トラックバック (0)

失敗

 風邪をひいていたわけでも、おなかをこわしていたわけでもない。ちょっと、冬眠していただけ。でも、今日は、久しぶりに冬ごもりの穴から這い出した。カルチャーセンターに行く日だった。

 人が生きていくとき、大なり小なり失敗はある。それもひとつやふたつではなく、数え切れないほどに。そうはいっても、実際に失敗に出くわすとショックを受け落ち込むのが人間である。

 今日は急に用ができ、午前中は必死でそれを終わらせようとしていた。何とか片がついたが、少々、いや、かなり焦っていた。出かける準備をしなきゃ…、と。

 早めの昼食をとる余裕がない。リンゴをむいて2切れ食べた。忘れ物がないか、戸締りは大丈夫か、それだけを確認して家を飛び出した。それでも電車の時間は1本遅らせた。

 教室について準備を整えて、さて…と講師の先生や仲間の受講生が来るのを待った。5分、10分…待った。誰も来ない。どうしたのかなぁ〜と待った。時計を見た。12時40分である。う?ん?ええっ?う…?

 一瞬、この時計は遅れているのか?と思った。実際は、私が時間を間違っていたのだ。1時間も早く家を飛び出したのだ。私としたことがぁぁぁぁぁぁぁあっ!

 大急ぎで片付けて、一目散にその場を逃げ出した。頭の中に空白が広がった。あと40分…どうしよう。「時間つぶしにスターバックス」なんて標語はなかったが、目の前にあったお店に吸い込まれた。

 メニューのなかから目に付いたカフェ モカとシナモンロールを注文した。シナモンロールはこれでもかというほど大きく、カフェ モカはおそろしく甘かったが、そんなこんなで何とか時間をつぶし、何食わぬ顔でいつもの時間に出直した。

 ショックである。こんな失敗は初めてである。焦ったりすると、モノゴトの前後左右の関係がつながらなくなってきたのだ。明らかな老化現象である。年が明けたからって、そんなに、急に、こんな失敗をしなくてもいいではないか…と、自分自身が腹立たしい。腹立たしくはあるのだが、それ以上に恐ろしい。
 この先どうなっていくのだろう…。決まりきったこと、自分の日常を続けている限りは大丈夫なのだ。問題は突発的なことが起きたときだ。対応はできるのだが、そのことを自分の通常にうまく組み込めないのだ。どうすればいいのだ…。

 当分、起き上がれそうもない。また、冬眠しよう。でも、明日は今日以上に気温があがると、ラジオのお天気のお姉さんが言っている。あぁ!
2010年1月19日 18:57 | コメント (0) | トラックバック (0)

あなたの生きた時代の向こうに

 その時代を生きた人を通して見る歴史は一面に過ぎないかもしれないが、それらの断片の向こうに多くの出来事を垣間見ることができる。年号と出来事の羅列の歴史の授業はつまらなかったが、断片の向こうに垣間見る歴史は、その時代を生きた人々の息遣いまで聞こえてきそうだ。

 「昨日と明日の間―編集者のノートから」(小尾俊人・著 幻戯書房)を読み始めた。読んだのはまだ50ページほどだが、さすがは編集者だと思わせる文章である。たとえば…”あの頃”を振り返るとあれもこれも思い出し、あれもこれも書きたくなるのが人の常だろう。しかし著者は、言葉少なに語る。厳選され尽くした言葉で語られる”あの時代”は、それゆえ人々が生き生きと立ち現れ私の心を捉える。
 戦争に負け日本がひっくり返った「出来事」は、『完全な「敗戦」であるが、「終戦」の語で、衝撃を和らげた。こういうのが日本の習癖。・悪癖であった』と簡潔に記す。

 『宇佐見英治さんと「同時代」』という文のなかに、宇佐見英治さんの戦中詩集「海に叫ばむ」の「あとがき追記」のことが書いてあった。「戦後短歌をもう決して二度とは作るまいと決心した」宇佐見さんは、その理由を次のように書いているという。
 『戦争の衝撃があまりに強烈だったので、戦争と言葉、毎朝歌わされた「海行かば」の曲調、また先輩詩人や歌人が戦中にかけて次第に理性を失い、鬼畜米英というような語を詩人と称する徒が用いるようになったこと、韻律が蔵する魔力と思考の放擲、定型詩のもつ本来の秩序と転結等について、反省し、なぜ日本の詩歌だけが非人間的戦争謳歌に向かったかを究めねばならぬと思ったからである』…と。読んだ者に背筋を伸ばさねば…!と思わせる言葉である。
2010年1月11日 10:26 | コメント (0) | トラックバック (0)

カミダノミ

 平日の昼下がり、市の中心部の繁華街近くで、Nのマーク入りリュックを背負った小学生(女の子)がビルに消えた。そのNのリュックで、「がんばれ!中学受験」のお札が揺れていた。冬休みもお正月も当然なしで、塾通いの日々だったのだろうか。その後ろ姿からは、何の感情も読み取れなかったが…。

 この季節になると、恒例のように湯島天神の合格祈願絵馬のニュースが流れる。「多くの受験生や家族たちが訪れ、合格を祈願する絵馬約3万枚が鈴なりになっている」という。まさしく神頼みである。いつもの合格祈願に加えて、今年は就職祈願の絵馬も多いという。…とくれば、次は結婚祈願も湯島天神へ?

 本来の信仰心からのものであれば、他人がとやかく言うものでは全くないが、ただのイベントと化した神社の絵馬は物悲しい。あなたの人生、そんなでいいの?…と聞いてみたい気がする。
2010年1月 9日 15:32 | コメント (0) | トラックバック (0)

古本ではなく、古い本

 12月の初めに図書館で借りた本が、貸し出し延長と年末年始の休館で約ひと月借りていられたにもかかわらず、なかなか読めずにいた。冬ごもりから本を抱えて出てきたその手で読めずにいた本を開くと、とたんにのめり込んだ。

 本を手に、前かがみになって活字を追っている私の姿を見た人がいたとしても、私はそこにはいない。体から抜け出したワタシは、本のページに溶け込んで活字を拾い集めているはずだ。

 その本とは、山田稔・著「八十二歳のガールフレンド」だ。そのなかに「書棚の片隅」という散文がある。1930年生まれの著者は、「新刊書を買って読む機会がめっきり減った」という。「新刊書までも読む時間と体力(視力)が無くなったのだ」という。「むかし読んで深く心を動かされた本を再読するだけで、精一杯である」、「好きな古い本を気分にまかせて、もっぱら自分の楽しみのために読み返せばよい」、「さいわい、中身はあらかた忘れていて、いま読んでも新鮮」、「そんな情けないような有難いような年齢に、やっと到達したのである」という。

 「その再読用の古い書物の場所が、書棚の片隅に何時の間にか出来ている」という。「ある日、ふと思い立ち、本棚の前の小さな書物のバリケードをよいこらしょと跨ぎ、手をのばす」という。

 そんな本の読み方にあこがれる私の蔵書は決して多くない。したがって、図書館の書棚が頼りである。書棚の間をそぞろ歩いていると、沈黙していた本がちいさなちいさな咳払いをする。あるいは、ふっとため息を漏らす。そんな瞬間がある。
 そんなわけだから、図書館にお願いしたいことがある。古い本をどうかしまい込まないで。
2010年1月 4日 18:31 | コメント (0) | トラックバック (0)

冬ごもりの穴の中で拾い集めた言葉などなど

 「西暦で2010年という区切りの良い年を迎えると…」と、読売新聞の編集後記の筆者さんは年の初めに10年ごとを振り返り、10年後ごとを夢想している。私は西暦でいうとキリのいい年の生まれなので、今年はキリのいい年になる。 

 60年代はteenの時代というふうに、何かにつけてわかりやすい。わかりやすすぎて、時にどきりとする。今年は寅年だ。私の干支でもある。…ということは、…ということだ。何事もなければ80歳までは生きるとして、あと○○年だ。計算も簡単である。簡単すぎて、どきりとする。○○10年ごとの始まりは、すべての始まりとなる。さて、どうする!?

 とりあえずは、冬ごもりの間に拾い集めた言葉などなどを書き記しておこう。

※もっともすばらしいおもちゃは、退屈という無から、無我夢中という無をとりだして見せてくれるようなおもちゃである。

※存在するとは、理路間然するところがないということとはちがう。「どういうわけか」、あいまいで、ぶしつけで、不作法なのが、存在するということなのだ。

※何もすることがないときは、言葉で旅をする。1冊の本と1杯のコーヒー。騒がしい街の店のかたすみに座って、一人ぶんの沈黙を探す。

※猫は、人との1歩の距離を生きる生きものである。

※地下道には、いま、ここというものがない。いま、ここという感覚が失われてしまえば、じぶんなんてものは、あっさり見失われてしまうのだ。

※読まれるまえの本は沈黙している。ひっそりと沈黙した本のならんでいる本屋が好きである。本の沈黙が聴こえてくるような本屋が、好きだ。
2010年1月 3日 12:30 | コメント (0) | トラックバック (0)