皆既日食騒動

 たしか、関東地方の梅雨は明けたと聞いたが、このところ典型的な梅雨時のような鬱陶しさである。雨もさることながら、この湿度の高さは耐え難い。そばに寄らないで、くっつかないで、もっとあっちへ行って…と言っても、じとっとまとわりつく湿気はまるで○○だ。
 皆既日食騒ぎも、雨に水を差された感がある。なんとか島では、大勢の人が押し寄せ、テントを張ってカメラをセットして待機していたらしいが、結果は豪雨だったらしい。私の住むところでは、1日中重い雲に覆われ、太陽のかけらさえも見つけられない状態だった。

 皆既日食に関して、産経新聞の「主張」はめずらしくいいことを書いていた。
今回の皆既日食で考えさせられたことが、もうひとつある。「専用の日食グラスを使わないと失明の恐れがある」という警告の大合唱だ。煤(すす)をつけたガラスで眺めた今の大人の世代や途上国の子供たちが失明したのか。
 教えるべきは、長く見続けないという常識であり、望遠鏡でのぞくといった絶対にしてはならないことだ。社会全体が過保護になってしまっては、人間に必要な判断力の成長をゆがめてしまう。


 日本では46年ぶりの皆既日食だったそうだから、当然私は46年前の皆既日食騒ぎを知っているわけだが、「日食の観察は煤をつけたガラスで」というのは常識だった。窓ガラスはよく割れるし、ガラスの破片などそこいらにいくらでもあったので、それに煤をつけるくらいは簡単にできた。確かに、いまの時代は窓ガラスは故意に割らない限りめったに割れないし、ゴミは落ちていてはいけないものだからガラスの破片などがそこいらにあるわけではない。それなりのものを用意しなければならないのは確かだが、「これしかない」というふうな言い方は間違いである。

 現代では、こういう傾向はいたるところに見受けられるように思う。話は非常に飛ぶが、「脳死による臓器移植しか助かる方法(治療法)はない」という言い方も根は同じだと、私には思えてならない。
2009年7月23日 9:15 | コメント (0) | トラックバック (0)