権限と限界

 権限のあるところには必ず限界はある。当然、県知事にも限界はある。宮崎県知事はテレビ番組で「知事としての限界を感じている」として、だから「今回が千載一遇のチャンスじゃないかと…」ということで、「自民党の責任あるポジションを任せて頂きたい」と言ったらしい(その番組は見ていないので詳細は承知していない)。

 この知事さんは、いろいろな点で考え違いをしているのではないか。地方分権の実現などは、当事者である全国知事会が知恵を絞り協力し合って勝ち取るものではないのか。上(国)から与えられた地方分権など、所詮お仕着せではないか。
 自身のタレント知事としての人気と引き換えに「責任あるポジション」を要求するなどということは、どうしてもやりたいなら陰でやってもらいたい。

 千葉市に続いて横須賀市でも、30歳代の若い人が市長になった。全国各地で若い市長が誕生している。30〜40歳代の市長が県を動かし、40〜50歳代の知事が国を動かすようになれば、さまざまな改革の実現も夢でなくなるのではないか。
 すっかり忘れてしまっていたけれど、この国は民主主義の国だ。ことさら民主主義など唱えなくても、民衆(市民・県民・国民)が動けば、モノゴトは動くのである。長らく助役上がりの市長が続いていた千葉市でさえ若い市長を出したのである。その気になれば…できるのだ。

 知事の目は下へ、口は上へ…である。宮崎県知事の場合は、目も口も上を向いている。自民党からの出馬要請を「千載一遇」と捉えるから、野心が丸出しになるのである。トップに立ちさえすれば、なんでも思い通りにできると考えているとしたら、ちょっと問題である。
2009年6月29日 13:34 | コメント (0) | トラックバック (0)

梅雨時の読書

 「砂のように眠る」(関川夏央・著 新潮社)を読み始めたとたん、外界の音が消えた。景色も消えた。そこにあるのは本と私だけになった。このような読み方をするのは、本当に久しぶりだった。小説と評論を交互に配した構成は、思いのほかおもしろいものだった。

 確かに、同時代を生きた者としての共感で読んでいた部分もあるが、その時代背景をひとつのポイントに絞って小説として描き出した、作家の腕に感心もした。その時代への郷愁ではなく、その時代の客観的な検証となっているところに、私は引き込まれたのかもしれない。
2009年6月28日 9:25 | コメント (0) | トラックバック (0)

一気に真夏日

 梅雨明けにはまだ間がある…と思っていたが、この暑さは梅雨明けを思わせる。昨日今日と、おそろしくすばらしく暑く、我が家のベランダガーデンの面々は一気に伸びた。ゴーヤ君は雄花を4つも咲かせている。雌花も咲いたら、いよいよ人工授粉である。なんだか農家のおばちゃんになった気分だ。私の計画では、ゴーヤ君と朝顔ちゃんのツルがベランダの天井を覆い尽くすはずだ。ゴーヤの実がたわわに実り、色とりどりの朝顔の花が私の目覚めを待っている、…はず。…はず、ネ?
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これは、ラベンダー。もうだめかと思っていたが、復活した。
2009年6月27日 14:02 | コメント (0) | トラックバック (0)

この2冊

 読めるかどうかは別として、図書館で2冊借りてきた。「砂のように眠る むかし「戦後」という時代があった」(関川夏央・著 新潮社 1993年)と「象が空を」(沢木耕太郎・著 文芸春秋 1993年)である。「象が空を」は507ページもある本だ。あまりの重さに一瞬躊躇したが借りることにした。どちらも1993年発行だったのは、全くの偶然である。
 「砂のように眠る」は、朝日新聞夕刊「ニッポン人脈記」の新シリーズ「反逆の時を生きて」で知った本だ。「象が空を」は、いま沢木耕太郎にはまっているという知り合いがいるので、私も一冊読んでみようかな…と選んだもの。

 今日の「反逆の時を生きて 6」を読んでも思うのは、「あなたはなにもしないのか?」という問いは何だったのか?ということだ。あの時代、どう見てもノンポリばかりとしか思えない女子大にまで、その問いは突きつけられた。『傍観は許されない。何かを行動することだ』と、京都駅前でビラ配りをすることになった。そこらあたりまでは私も付き合ったが、デモ行進までは付き合う気にはなれなかった。学長が現れ、まるで父親のように「女子大生らしさを失わず、怪我のないよう気をつけて」などと挨拶し、学生たちはそれに答えて、「行ってまいります!」と手を振りながら整然と出発するデモなどチャンチャラおかしく、私は敢えて傍観者となった。私には、60年安保世代と70年安保世代のふたりの姉がいる。必然的に私は傍観者でしかありえないのだった。 

 そんなわけで、この2冊の本を読んでみようと思う。
2009年6月26日 20:16 | コメント (0) | トラックバック (0)

世も末?あるいは、時代の先取り?

 注目度の高い都府県知事4人を評価するか否かを尋ねる、産経新聞社とFNNの合同世論調査によれば、評価すると答えた人は大阪府知事89.3%、宮崎県知事90.3%、東京都知事60.7%だったという。ちなみに千葉県知事は18.1%だった。他の都府県は別としても、千葉県に関しては納得する数字である。実際は10%くらいではないかとさえ思う。

 さて、その評価の高い宮崎県知事だが、昨日になって驚くようなニュースが流れた。(驚いたのは私だけかもしれないが)次期総選挙に自民党から立候補するよう正式要請を受けた宮崎県知事は、その場合の立候補の条件を挙げたというのだ。人気目当てに出馬要請するのは自民党のいつもの手ではあるが、立候補の条件のひとつが「自身を自民党総裁候補とすること」だというのには心底驚いた。まるで、相手の弱みにつけ込んで野望を果たそうとするかのようだ。

 あそ〜さんは「おちょくられているとは思わないが」とコメントし、大阪府知事は「しゃれとしか思えない」と笑い飛ばし、民主党代表は「県民や国民に理解されるのか。疑問があるのではないか」と指摘したといわれているが、実際に自民党をおちょくっていて、元芸人のしゃれが出てしまって、県民や国民のことなどハナから眼中にないのだろう。それは、野望の表れではないのか。
 FNNの夕方のニュースショーで生中継で話していたが、その表情から窺うに本気と見た。しかし世間には通用しないのではないか。これまで同様に、数日後には発言撤回なりなんなりする破目になるのではないか。たぶんに人の顔色を見る人、と見えた。まずは自民党の顔色を見、メディアの顔色を見、世間の顔色を見、それから言質を翻すことだろう。
 
 こういうやり方が違法ではないにしても、また、善悪で判断することではないとしても、こっそりとではなく大きな顔でこのようなことを言ってのける人を、私は理解し難い。今の時代、このような論理で何事も動いているのだとしたら、私はもう完全に化石である。
2009年6月24日 7:20 | コメント (0) | トラックバック (0)

ゴーヤ始めました。

 ゴーヤの苗を植えた。実を収穫するのが目的ではなく、緑のカーテンにするためである。そう、例のアレである。だからって、エコおばさんになったわけではない。楽しみと実用を兼ねただけである。日の出とともに太陽が照りつけるベランダは暑い、すぐに色あせてしまうので洗濯物が干せない、緑を目で楽しみたい…etc.理由はいろいろつけられる。強調しておきたいのは、エコおばさんになったのではないよぉ〜ということ。

 「新物理の散歩道 第5集」を見なければ、たぶん巻きひげになど興味を示さなかっただろう私が、ゴーヤのツルを観察した。「あら、本当だ」と、その巻き方に感心した。物理の本にうそが書いてあるわけはないのに。
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 黄色の花が咲くという。花の観察もしなければ…。雄花と雌花が別々に咲くらしい。雄花は咲いて1日で落ちてしまうが、雌花はなかなか落ちないそうだ。ここにも自然の摂理が働いている。人工授粉をしなければ実はならない?
 …この夏は、毎朝忙しくなりそうだ。
2009年6月23日 9:50 | コメント (0) | トラックバック (0)

あの時代

 朝日新聞夕刊の「ニッポン人脈記」は、新シリーズ「反逆の時を生きて」が始まった。その第1回は「二十歳の原点」である。もう一度読み返したい、でも読むのが怖い。心の中は複雑である。

 1969年に同じように二十歳だった関川夏央さんは、1993年に『砂のように眠る むかし「戦後」という時代があった』を書いたという。そのなかに「1969年に二十歳であること――『二十歳の原点』の疼痛」という文があるそうだ。読んでみたいと思う。その関川さんは、そのころ何を?と聞かれても「昔のことは忘れましたね」と言う。
 自ら命を絶った1969年の二十歳、40年後に「昔のことは忘れましたね」と言う1969年の二十歳。「ニッポン人脈記」の筆者も同世代。新シリーズ「反逆の時を生きて」に期待する1969年十九歳の私。

 「傍観は許されない。何かを行動することだ。その何かとは何なのだろう。」と思い悩む1969年の二十歳。そう問うてくる波のうねりは、私のすぐそばにも達していた。たった1年の年齢の差で、『二十歳の原点』の著者はその渦に飲み込まれてしまった。何年たとうが客観的に読むのが難しい本である。
2009年6月19日 20:15 | コメント (0) | トラックバック (0)

考えてみよう

 私にしてはめずらしく外出する日が続いていた。気にかかっていたことはあるのだが、ゆっくり考える余裕もなく、考えもまとまらず今まで書けずにいた。今もまだ書けないのだが、忘れないように要点だけ書いておこう。

 まずは、6月17日付の朝日新聞「オピニオン」に寄稿された、辺見庸さんの死刑制度についての文である。数回読んだ程度では十分に理解できない文章なのだが、辺見さんの言うところの「ジャパネスクな”文化”」という言葉が気にかかっている。その部分を引用する。
 この問題を過度に詰めない、議論しない、想像しない、はやくわすれる、ことあげしないほうが、おのれの内面にも世間にも波風たてずにすむことを、じつはこの国のみんなが暗黙のうちに弁別している。そういったある種ジャパネスクなたちふるまいこそ、私たちの日常に滑らかな諧調と無意識のすさみをもたらしているのではないか。
 死刑制度とは、おもえらく天皇制同様に、この国のなにげない日常と世間の一木一草、はては人びとの神経細胞のすみずみにまでじつによく融けいり、永く深くなじんでいるジャパネスクな”文化”でもある。

 この問題はまた後でゆっくり考えることにして、もうひとつ気にかかっているのは、臓器移植法改正案の採決で、A案が賛成多数で可決されたことである。A案は臓器移植を受ける側、臓器移植を推進したい側からのみ考えられた案である。もちろんそれはそれでいいのだが、その案が賛成多数で可決されたということの意味が問題である。
 
 A案では「提供を拒む権利」を認めるとしているが、そういう人は社会においてどのように位置づけられるのだろう。「提供を拒む権利」を認めるというのは、「うるさい国民もいるから…」ということだろう。それを言い換えれば、ものを考えていないひとの臓器は全部もらっちゃおうということだ。さらにA案が問題なのは、死ぬべき命と生き伸びるべき命の選別を前提にしていることだ。多くの問題を覆い隠してでも、提供臓器が増え臓器移植を待つ人が死ぬことがないようにすることが絶対善なのだろうか。

 あれほど宣伝してもドナーカードが普及しなかった原因は何か?その意味を深く考えもせずに方法論だけが議論され、A案が第一の案として提案され採決された意味は何か?
 「命のリレー」や「命の贈り物」などといういかにも善意を装った言葉の前では多くの人は口をつぐんでしまう現実。これも辺見さんが言うところの「ジャパネスクな”文化”」なのだろうか?
2009年6月18日 19:46 | コメント (0) | トラックバック (0)

我らが市長は、

 千葉市長選挙の投開票日の翌日が新聞休館日となるとは、やはり千葉である。さて、その市長選だが、やっとまともな選挙ができたといえるのではないか。これまでは、当然といわんばかりに助役上がりの市長ばかりだった。

 先の知事選挙は投票に行くのもバカらしいというものだったが、昨日は朝一番に投票に行った。ここで「助役上がりの市長」の根を断ち切らねば、千葉市民は物笑いの種である。若さゆえの問題は今後出てくるかもしれないが、若いがゆえにこれからも勉強し続けることは可能だろう。それを期待したいと思う。ここしばらくは「全国最年少の市長」といわれ続けるだろうが、若い人を支えその成長を見守るのは私たち年配者の役目でもある。
2009年6月15日 9:33 | コメント (0) | トラックバック (0)

不可思議

 夕刻というにはまだ間がある、午後の電車内でのこと。乗客はほどほどで、立つ人がちらほらといったところ。端っこのシートに座った私の前に、若い男性がふたり立った。一緒に乗ってきたのではなく、車内で偶然出会ったらしい。降りるまでの30分間、ずっと話をしていた。

 目の前というより頭の真上からの声は、聞く気がなくても耳に入る。学生のようなのだが、話の内容は共通の知り合いの情報交換(噂話とは少々違っていたような感じ)ばかりなのだ。それも、直接自分が会った時の話ではなく、いわゆる又聞きの情報ばかりだった。

 コレって何なんだろう?と思った。この人たちにとっては、知り合いの情報を共有していることがそんなにも大切なことなのだろうか。それらの話の間に、そのふたりは自分自身について語ることは全くなかった。とても不可思議な光景に出会った…という気がした。
2009年6月11日 9:15 | コメント (0) | トラックバック (0)

蚊取り線香の話

 朝顔、風鈴、蚊取り線香は夏の風物詩だ。とは言っても、朝顔は苗を買ってこなければならないし、風鈴は生活騒音といわれかねない。どれも、いつの間にか普通の生活から遠のいていった。蚊取り線香も機密性の高いマンションでは、長時間使用するとむせそうだ。
 今年は、ベランダガーデンの手入れをしたこともあって、久しぶりに蚊取り線香を買った。ひと巻を一度に使い切ることはなく、三分の一くらいのところで折って消してしまう。

 「新物理の散歩道 第5集」の”立ち消えする渦巻き線香”を読んだ。物理的思考をする人とは、こういうことに目をつけるのかと驚き、感心した。物理学者はどんなところに目をつけたかというと、同じ蚊取り線香を同じように使用したのに、燃え残りの部分の形がそれそれ違っていることに目をつけたのだ。
 そこで、「何故だ?」と思うのが物理学者。そんなことは気にもとめず捨ててしまうのは私。途中で火を消したいときにクリップで線香を挟むのは物理学者。最初から三分の一くらいのところで折って使用するのは私。

 「何故だ?」と思えば実験をするのが物理学者である。その実験というのがまたすごい。道具らしい道具は何もない。ただただ蚊取り線香に火をつけるだけ。しかし、それそれの条件は事細かに違えてあるのだ。予測を立て、事細かに条件を違え、詳細にデータを取り、それを分析する。物理学とはそういうものらしい。私とて根気がないわけではないが、こういう種類の根気は持ち合わせていない。

 実験の話とは別の話題として書いてあったのが、火をつけた蚊取り線香を灰の中に入れるとすごいことになるということだ。すごいというより危険…?かも。
 仏壇のお線香は灰の中に寝かせて置く場合もある。この場合は何事も起こらない。もしそれを灰の中に少しでも押し込んだら、やはりびっくりするようなことになるのだろうか?…という疑問が生じたが、怖いので私は試してみる気にはなれない。

 「まだまだ試してみる実験はたくさん残っている」と、この本の筆者はいう。この文が書かれたのは1980年。その後蚊取り線香の実験をした人はいるのだろうか?
2009年6月 9日 21:14 | コメント (0) | トラックバック (0)

こんな本も

 少々不安はあったが、図書館で「新物理の散歩道 第5集」(ロゲルギスト・著 中央公論社 昭和58年発行)を借りた。ぺらぺらぺらとページを繰ってみると、うっと喉が締めつけられ頭痛がしてきそうなページもないわけではないが、それそれのタイトルを見る限りではおもしろそうなテーマが並んでいる。

 たとえば、「巻きひげの形の秘密」は植物のツルの話のようだし、「立ち消えする渦巻き線香」は蚊取り線香の話、「だまし絵の謎解き」は、滝を流れ落ちた水が巡り巡ってまた滝になって流れ落ちていく、エッシャーのあの絵の話である。このように書き出してみるとなかなか面白そうであるが、やはりそこは物理の話である。物理的思考に慣れていない私にはもしかしたら難しいかも…と、読む前に怖気づいてしまう。

 しかし、またこうも思う。『科学少年の好奇心と大人のウイットがまざりあった、日常を科学する洒落たエッセイ集』、『日常のできごとから興味深いテーマを取り上げ、物理学者ならではの視点で問題を解きほぐした。そのエレガントな思考法に魅せられた文系ファンも多い』などと紹介してあるからには、私にだって読めないことはない、…と。これもまた筑摩書房の”思う壺”か?
2009年6月 7日 14:13 | コメント (0) | トラックバック (0)

もう、いややぁ〜っ!

 もう、いややぁ〜っ!と叫びたい。朝刊に折り込まれていた県民だよりを見てそう思った。ノーネクタイで白いシャツを着て、白っぽい上着の衿にはチーバくんのピンバッチをつけ、歯をむき出しにしてガッツポーズをとる知事。選挙ポスターじゃぁあるまいに、この知事は何を考えているのだろう?
 直筆署名入りのご挨拶は読むのも恥ずかしいが、ここに書き写してみる。『ひとつの国としても成り立つような実力を持つ、私たちの千葉県。この力を生かし、千葉のブランド力をいっそう高め、日本をリードする魅力ある県づくりを目指しましょう』。そして、その後には「なんでもランキング」が延々と続く。「私は千葉県生まれではない」というのが、せめてもの救いである。

 昨日の定例会見では、私的諮問機関「森田健作経済諮問会議(仮称)」を発足させることを明らかにしたという。そんなところにまで名前を冠さなくてもいいと思うが…。幸いまだ仮称だそうだから、そんなみっともないことはやめたほうがいい。

 このところ毎日のようにハラワタが煮えくり返ったり、腸がねじれたりしているが、今度は胃がよじれそうである。私的諮問機関というからには、知事がメンバーを選んで発足させるのだと思っていたら、県商工会議所連合会会長、県経営者協会会長、県法人会連合会会長、県経済同友会代表幹事、オリエンタルランド会長の5人が発起人だという。
 「千葉の経済人との懇談を通じて、経済活性化はもとより、多岐にわたる意見交換を行いたい」と知事は言っているらしいが、発起人は、お調子者の○○な知事を思い通りに利用しようと手薬煉引いている古タヌキばかり…、と言っては言い過ぎか?
2009年6月 5日 19:00 | コメント (0) | トラックバック (0)

それは違う!

 それは違う!と言いたい。京都教育大の学長は、集団暴行事件についての学生説明会の席で、事件に関与したとされる6人の学生を退学ではなく停学処分にした理由について、『教育大学である以上、加害者も更生させて社会に送り出すことが責務だ』と発言したという。

 教育大学の使命は、いうまでもなくより質の高い教員の養成である。教育大学は、決して更生施設ではない。罪を犯しても更生し、なお教育者になることへの意志を持ち続けていたなら、そのときは改めて受験すればいい。その場合に、大学側が受け入れる考えがあるというなら受け入れればいいことだ。

 『教育大学である以上、加害者も更生させて社会に送り出すことが責務だ』、『それ故、退学とはせず停学処分とした』というこの学長の考え方は、全く間違っている。そんな意識で教員養成をしているから、教員になってから問題を起こす(犯罪を犯す)教師が絶えないのだ(あえて、そう断定するのだが…)。

 学生はまだまだ未熟なものだから間違いも犯すとしても、大学からの追放は当然である。学長はいったい何を血迷っているのか!?私のハラワタは煮えくり返っている。
2009年6月 4日 9:44 | コメント (0) | トラックバック (0)

思う壺

 思うところがあって、ケイタイの機種変更をした。たいして使うわけではないのだが、ないと何かと不便なケイタイである。深く思うところがあったわけではない。「あなただけの特別プライスをご用意しました」というDMがきただけのこと。ふだんなら、「あ、そ〜」で済ますのだが、ふと「それもいいかも」と思っただけのこと。

 ケイタイの料金プランはころころ変わってよく理解できないが、今よりもさらに安いプランができていたというのも、機種変更をする気になった理由のひとつである。
 「機能を絞り込み、いつまでも飽きのこないデザインと高い質感のケータイを楽しむ」と宣伝していた機種にした。外観はアタッシュケースっぽい。色は黒。女性の持ち物っぽくないところが気に入った。

 この話を若い人にすると、それは(auの)「思う壺」だと言う。そう言われたとたん、大きな思う「壺」のふちに立って中を覗き込んでいた私がスィ〜ッと壺の中へ落ちていく映像が、ありありと脳裏に浮かんだ。
2009年6月 3日 21:15 | コメント (0) | トラックバック (0)

交換商品

 何がエコなのか?どこがエコなのか?全く理解に苦しむエコポイント制度である。『エコポイント制度とは「グリーン家電普及事業」の一環で、対象製品の価格の一部を「エコポイント」として購入者に付与するもの』と説明されても、だからどこがエコ?何がエコ?である。

 「グリーン家電普及事業」というのは、グリーン家電をどんどこ買ってくれぃ!ということだと理解した。ではグリーン家電とは?というと、エコポイント制度の対象となる「エアコン」、「冷蔵庫」、「地上デジタル放送対応テレビ」のことらしいと認識した。
 だが、ここらから私の腸がねじれ始める。そもそも巷にグリーン家電なるものがあったわけではないらしい。どれもこれも大型家電である。買換えには慎重に慎重を重ねた上でしか決断できない家電ばかりだ。それがホイホイ売れるようにしたいがためにエコポイント制度を考え出しただけ?

 なぁんだ、そうだったのか…と思う。「メーカーや商店街振興組合を対象に、エコポイントと交換できる商品の募集を始めた」というのだ。*省エネ・環境に配慮した商品、*全国で使える商品券・プリペイドカード、*地域振興に役立つものというのがその条件だという。つまり、消費者が欲しいと思うものではなく、メーカーや商店が売りたいものばかりになりそうだ。

 そうか、ここにミソがあったのだ。制度が実施された時点で交換商品の内容もわかっていたなら、たぶん誰も勇んでエコポイント制度の対象商品など買わないだろう。やはり、悪徳商法か詐欺っぽいものだったのだ。
 『対象製品の価格の一部を「エコポイント」として購入者に付与する』ということは、価格の中にエコポイント分の金額が上乗せされているということだ。要りもしないものを「将来必ず買います」と強制的に言わされ、その金額を払わされているようなものだ。交換商品の条件に商品券やプリペイドカードが含まれているのは、批判をかわすため?これではエコという言葉が泣く。
2009年6月 2日 20:00 | コメント (0) | トラックバック (0)

気になる本

 私の場合、今最も気になっている本は「1Q84」ではない。「新 物理の散歩道」(ロゲルギスト・著 ちくま学芸文庫 筑摩書房)だ。筑摩書房のPR誌「ちくま」でこれを読んでいたく興味をもった。

 7人もの大人が深夜まで、ああでもないこうでもないああだこうだと、議論というよりはおしゃべりをして、お泊まり会をしたという。なんて素敵な、かっこいい男たちなのだろう。お泊まり会の翌朝は、『皆様非常に言葉少なく、ごきげんよく召上ると、十時にはお引上げです。外交辞令のない方々ですからにこやかに簡単なご挨拶のみで、さわやかなこと』という。本当に、かっこいい。『ロゲルギストのお仲間とかくも親しく話しあっているにもかかわらず、おつきあいはせず年賀状の交換もありません。何年間ご無沙汰していても、お互いに消息をしりたいという発想がない人種のようです』だなんて、どこまでも私好みである。

 読んでみたいのだが、問題は果たして私に”物理の本”が読めるか?ということだ。書店で立ち読みしてから図書館で古い本(岩波書店版)を借りてみようか…。でも、読めなかったら…恥ずかしいよねェ?
2009年6月 1日 19:29 | コメント (0) | トラックバック (0)