案の多さが意味するものは

 日本移植学会など9団体は、臓器移植法改正案について、「このままでは法改正の時間切れを招く。これ以上患者を犠牲にしないよう、A案(脳死=人の死・本人の意思表示不要・年齢制限撤廃)を速やかに採決することを強く要望する」という声明を発表したという。臓器移植の問題については、以前ここここに書いたので繰り返さないが、この声明には少々引っかかる言葉づかいがあった。
  
 『これ以上患者を犠牲にしないよう』とはどういう意味だろうか。犠牲にするというのは、できることをしないで死に至らしめたという意味かと思うが、ここで改めて辞書を引くまでもなく、「犠牲とはある目的のために、その人の生命やかけがえの無いものを提供すること」である。
 脳死による臓器移植に慎重な考え方をしている人たちが、”何のため”に移植を必要としている患者を犠牲にしているというのだろうか。ここであえて犠牲という言葉を使うなら、犠牲になっているのはドナーやドナーの関係者の方ではないか。臓器移植の他に助かる手段はないと宣告された患者の命をながらえるために、自身の命・臓器を提供するのはドナーである。
 
 また、これまで改正に向けての議論が進まなかったのは何故か。それは、「人の命とはなにか?人の死とはなにか?」という問題を、誰もが同じ視点で考えてこなかったからではないか。反対派の人たちは「人の命とはなにか?人の死とはなにか?」ということを倫理の問題として捉えている(たぶん…)のに対して、『これ以上患者を犠牲にしないよう』という表現からもうかがえるように、推進派の人たちは情緒的に捉えているのではないか。

 何を拠りどころとしてもいいのかもしれないが、何をもって人の死とするかについて共通の認識(倫理)が確立されない限り、この議論は進まない。議論が進まないまま採決を急げば、取り返しがつかない。厚生労働相は、「小さな子どもが、海外でないと移植ができないのは問題。1人でも多くの命を救えるなら、いいことだ」との考えを示したというが、そんな単純な話ではない。この場合は、一人でも多くの命を救うために、一人でも多くの脳死患者(幼い子どもも含めて)は一刻も早く死者になってもらわなくてはならないのだ。 
 脳死患者の命も臓器移植を待つ患者の命も、命の重さということでは同じである。それでも、脳死患者は一律に死んだことにして(脳死は人の死と言い切る)、できるだけ新鮮な臓器を移植を待つ患者さんにあげようじゃないか(命のリレー・命の贈り物)というのは、人として傲慢、不遜である。
2009年4月27日 20:12 | コメント (0) | トラックバック (0)