よぉ〜し!

 昨日は「昭和の日」だったらしい。らしいというのもナンではあるが、大型連休だのGWだのと5月の1週目も含めてひとくくりに言われると、それぞれの祝日の意義など吹っ飛んでしまう。たしかにそれぞれの祝日のイベントはあるようだが、関心がなければそれまでだ。

 ひねくれ者の私は、連休中に出かける気にはなれない。ずう〜っと家で過ごしたい。昨日は、よい天気につられてベランダの片付けをした。飽きもせず、また草花を育てる気である。新しいプランターに取替え、土も耕し(大げさな表現であるが、すっかり固くなっていたので)、今日はこれから草花の苗を買いに行く。楽しみだなぁ〜と少々浮かれているのだが、大丈夫か?

 料理をするオノコは、草花を育てるのにも関心があるらしい。我が家の若い人がベランダを少し貸してくれという。好みのプランターを買い、花の種と肥料も買い込んでいそいそと土いじりを始めたのだ。負けられぬ!と、私も一念発起した…というのが事の顛末であった。
2009年4月30日 9:03 | コメント (0) | トラックバック (0)

言葉拾い

 夢見ごこち、着ごこち、寝ごこち等々、「ごこち」という言葉は日常的に使われる言葉である。たぶん…現代でも。しかし、「風邪ごこち」という言い方は聞いたことがない。かぜごこちではなく、かざごこちと読むらしい。これは、今読んでいる、杉本秀太郎・著「青い兎」のなかにある。なんとはなしに心引かれる1文である。いつか、「わたし、今、風邪ごこちで…」などと使ってみたい言葉である。

 杉本秀太郎さんの本を競い合って読んでいる私の知り合いは、「家づと」がいたく気に入って使ってみたいのだという。「…前年の秋さいごに拾った実をトランクの底に収めて家づとにした」という文章が出てくるのは、「青い兎」のなかの「琺瑯鉢とマロニエ」と題した1文だ。

 本のなかでたゆたう言葉を、そっと両手ですくいとりながら読んでいる。そんな読み方も、またいい。
2009年4月28日 21:26 | コメント (0) | トラックバック (0)

案の多さが意味するものは

 日本移植学会など9団体は、臓器移植法改正案について、「このままでは法改正の時間切れを招く。これ以上患者を犠牲にしないよう、A案(脳死=人の死・本人の意思表示不要・年齢制限撤廃)を速やかに採決することを強く要望する」という声明を発表したという。臓器移植の問題については、以前ここここに書いたので繰り返さないが、この声明には少々引っかかる言葉づかいがあった。
  
 『これ以上患者を犠牲にしないよう』とはどういう意味だろうか。犠牲にするというのは、できることをしないで死に至らしめたという意味かと思うが、ここで改めて辞書を引くまでもなく、「犠牲とはある目的のために、その人の生命やかけがえの無いものを提供すること」である。
 脳死による臓器移植に慎重な考え方をしている人たちが、”何のため”に移植を必要としている患者を犠牲にしているというのだろうか。ここであえて犠牲という言葉を使うなら、犠牲になっているのはドナーやドナーの関係者の方ではないか。臓器移植の他に助かる手段はないと宣告された患者の命をながらえるために、自身の命・臓器を提供するのはドナーである。
 
 また、これまで改正に向けての議論が進まなかったのは何故か。それは、「人の命とはなにか?人の死とはなにか?」という問題を、誰もが同じ視点で考えてこなかったからではないか。反対派の人たちは「人の命とはなにか?人の死とはなにか?」ということを倫理の問題として捉えている(たぶん…)のに対して、『これ以上患者を犠牲にしないよう』という表現からもうかがえるように、推進派の人たちは情緒的に捉えているのではないか。

 何を拠りどころとしてもいいのかもしれないが、何をもって人の死とするかについて共通の認識(倫理)が確立されない限り、この議論は進まない。議論が進まないまま採決を急げば、取り返しがつかない。厚生労働相は、「小さな子どもが、海外でないと移植ができないのは問題。1人でも多くの命を救えるなら、いいことだ」との考えを示したというが、そんな単純な話ではない。この場合は、一人でも多くの命を救うために、一人でも多くの脳死患者(幼い子どもも含めて)は一刻も早く死者になってもらわなくてはならないのだ。 
 脳死患者の命も臓器移植を待つ患者の命も、命の重さということでは同じである。それでも、脳死患者は一律に死んだことにして(脳死は人の死と言い切る)、できるだけ新鮮な臓器を移植を待つ患者さんにあげようじゃないか(命のリレー・命の贈り物)というのは、人として傲慢、不遜である。
2009年4月27日 20:12 | コメント (0) | トラックバック (0)

青空の下で

 昨日の千葉県知事の所信表明演説を、インターネットの中継で聞くつもりだったがすっかり忘れてしまった。その後の報道によれば、わざわざ聞くほどの内容はなかったようだ。相変わらず身振り手振りの派手さが言及されていたということは、如何に中味が乏しかったかということのあらわれだろう。元俳優だったというので、どこまでが真の姿でどこからが演技かがわからない。見ていると、すべてが演技に見えても来る。したがって、言葉がウソっぽくなる。

 また、昨日は千葉に激震が走ったかのように報道されているのが、市長の逮捕である。情けないことに収賄の容疑である。たぶん慣例のように、ちびちびと(100万円ものお金ではあるが、知事にとってはたぶん小金?)お金を受け取っていたのだろう。助役上がりの市長である。たぶん、すべてが典型的なのだろう。引退直前の収賄容疑による逮捕も、これまた嫌になるほど典型的ではないか。市長に続いて新知事も、そのうちお金の問題でつまづくのではないだろうか。なんともね、もはやタメイキしか出ない。

 都知事の圧力あるいは依頼があったのかなかったのかわからないが、「江東区はIOCの評価委員会が視察することを児童らに知らせずに、視察先である夢の島公園で校外学習を実施した」と報道されている。驚いたことに、区内の小学生5千人以上を集めていたという。江東区の児童数は1万8千余りだというから約3分の1である。具体的にはどのような校外学習(たんなる遠足?)をしたのか知らないが、よくないネ。大人の思惑に子どもの無邪気さを利用するのは、やはりイイコトではないし、教育活動の中でというのははっきり言えばヨクナイことだと、私は思うけれど…。
2009年4月23日 9:20 | コメント (0) | トラックバック (0)

持論など

 まもなく裁判員制度が実際に始まるというので、朝日新聞では連日、取材した候補者の思いを紹介していくという。私は幸い?まだ候補者にはなっていないが、さまざまな記事を見ていて気になることがある。それは、多くの人が「人を裁く」と考えているらしいことだ。もちろん私は門外漢なので正確な知識はないが、「人を裁く」のではなく「行為を裁く」のだ思っている。裁くとは「善悪理非の判断をする」ことだ。 
 
 そもそも私たち人間には、同じ人間を裁くことなど到底できない。その行為が、社会において許されない犯罪であると規定されていることに合致するかどうかを判断するのだと思う。そう考えている私は、裁判で被害者の人柄等々が、写真などを使ってまで云々されることには違和感を感じている。
 善人であったから、あるいは無垢な子どもであったから、働き盛りのよきパパやママであったから、被害者にされてはならないのか?それが、悪人であったり、ホームレスであったり、社会的貢献度の低い高齢者であたりすれば、被害者にされても加害者の罪は軽いのか?そんなことはないし、それこそ、そんなことは”あってはならないこと”だ。

 また、加害者に知的障害や精神障害があった場合、あるいはそういったことがなくても犯罪実行時に心神喪失状態だったとされた場合、それを理由に罪は問えない(責任能力はない)とされたりすることがあるが、これは違うと私は思っている。加害者に知的障害や精神障害があった場合でも、責任を負わせなくてはいけないと思う。そうすることによって、学んでもらいたいと思う。その上で、それまでなされるべきケアがなされていなかったならそれをしなければならないのだと思う。

 犯罪実行時に心神喪失状態だったとされた場合、当然責任を負わねばならない。犯罪を犯さないまでも、誰でも日常において常軌を逸した精神状態になることはある。しかしその責任は、誰しも自分でとっているはずだ。ストレスを万引きや痴漢の言い訳にする人が多いが、だからといってそれらが犯罪でなくなるわけではない。

 裁判員制度の意義のひとつに一般人の常識的な判断を取り入れるということが挙げられていたように記憶するが、常識ほどあいまいなものはないし、それはたぶんに情緒的である。裁くとは「善悪理非の判断をする」ことであるとすれば、それに必要なのは理性的な論理、確立された倫理であるべきだ…と私は思っている。以上のことから、裁判員制度は不要である…というのが私の持論である。
2009年4月21日 10:24 | コメント (0) | トラックバック (0)

新芽

 向かいのマンションのベランダに、こいのぼりが揚がった。もうそんな季節になっていたのだ。早い人は来週あたりから大型連休が始まるらしい。大変なことである。

 我が家のベランダガーデンも片づけをしたら、どことなく春らしくなった。あちらからもこちらからも新芽が出てきたのだ。昨年の秋、黄葉していたこれも、気がつくと新芽がたくさん出ていた。顔を近づけ覗き込むと、新芽が”春だ、春だ〜よ♪”と歌っていた。
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 黄葉して、落葉して、季節がめぐって、新芽が出て…というのは世の習いであるにしても、こんな狭いベランダガーデンの小さなプランターの片隅でそれを目の当たりにすると、不思議な感慨を覚える。
2009年4月20日 9:20 | コメント (0) | トラックバック (0)

料理メモ

 新聞の片隅に料理メモが載っている。一応目を通すが、それを参考に料理をすることはほとんどない。いつもはそうである。ところが、昨日は違った。おいしそうかも…と思った。材料は、全部揃っている。めずらしく、料理メモを見ながら「チキンクリームカレー」作ってみることにした。

 クリームカレーってなんじゃいな?と思ったのが関心を引かれた始まりだが、クリームソースの中にカレー粉を入れてあるらしい。その味は、想像できそうでもあるが想像できない。我が家には、フレーク状のクリームシチューとフレーク状のカレーが常備してある。これを使うことにした。しかし、これだけでは少し物足りないかもという意見もあり、これまた冷蔵庫に残っていたペースト状のドライカレーも加えることにした。

 作り方は、私にもできる!というほど簡単だ。できばえは、見た目は上出来である。問題のお味は…心配は要らなかった。カレーよりもやさしく、クリームシチューよりは刺激的である。チキンとジャガイモと玉ねぎだけでは彩が寂しいので、今回はグリンピースを追加した。その緑とドライカレーのペーストに入っていた人参の赤とレーズンで少しにぎやかになった。レタスとキュウリも入ったゴボウサラダと、ピクルス入りフレンチドレッシングをかけたトマトを添えて夕食にした。いちおう、サマになった…と思っている。

 料理は苦手、下手、嫌いと三拍子揃った私であるが、最近やっと理想的な温泉卵が作れるようになった。温泉卵を作る器具を使うのだが、卵の大きさ、温度、お湯の量と温度、浸けておく時間等々、結構厄介である。どれかひとつがまずかっただけで、これは何だ?!というようなものが出来上がる。
 冷蔵庫から出してすぐの卵で、沸騰したてのお湯を使って、きっかり18分、タイマーがなったらすかさず取り出し冷水で冷ます。これで白身はぷるんとして、黄身はとろ〜りという温泉卵が出来上がる。今日も朝から調子に乗って4個も作った。昼食は、温泉卵ものったぶっかけうどんである。
 朝から食べ物の話ばかりしている私は、もしかしたら今、少々お腹がすいているのかもしれない。
2009年4月19日 10:13 | コメント (0) | トラックバック (0)

久々に本の話

 他にすることがあって、しばらくお休みしていた図書館通いを再会した。4ヶ月ぶりである。図書館には何の変化もなかったが、途中はあちらでもこちらでも工事をしていたし、少し大きめのコンビニが開店準備をしていた。

 さて、今回少々欲張って借りてきた本は次の5冊。
「絵 隠された意味」(杉本秀太郎・著 平凡社)
「現代随想集 青い兎」(杉本秀太郎・著 岩波書店)
「四季の無言歌」(串田孫一・著 恒文社)
「「いとおしい」という言葉」(竹西寛子・著 青土社)
「あみねこのいる生活」(ねこやま・著 主婦と生活社)

 「あみねこのいる生活」はあまりのおかしさに、思わず借りてしまった。ついでに、たぶん、そのうち、ひとつ、作ってみたいと思っている。

 「四季の無言歌」は、その本の存在を教えてくれた人が辞書を手元に置いておかなければ読めないと言っていた。確かに、読めない漢字がひょこひょこ出てくる。しかし、そのうちの半分くらいは文脈から推測して読めてしまったりする。後の半分のうちの半分くらいは読めないのだが、漢字の字面から意味はわかる。残りは全く読めないので辞書を引かねばならない。辞書をあてずっぽうに引いてもダメで、ここは漢和辞典が必要だ。

 「攀」という字などこれまでお目にかかったこともないが、「攀じ登る」とあるとヨジノボルと読むのだと理解できる。「擽る」という字も初めて見たが、「砂は足の裏を擽り、尖った小石が私の顔を顰めさせた」とあれば、”あぁ、そういう意味ね”とわかる。たとえば、この漢字「舊」。私は全く読めないし推測さえできなかった。大修館書店の漢字林で調べようにも、老眼の目では画数がわからない。目を凝らしやっと判読してくさかんむりで調べたらうすのページを見よとある。うすのところへ飛ぶと、この漢字は旧字体であるという。さらに指定されたページへ飛ぶと、なんと「舊」は「旧」の旧字体であった。この漢字は「舊い夏」という題名で使われていた。

 内容はいかにも孫一さんらしくていいし、短文ばかりなのでちょこっとずつ読むにも適している。そして、何より豊富な漢字を読み解いていく楽しさがある。
2009年4月18日 10:14 | コメント (0) | トラックバック (0)

狂騒給付金

 鳴り物入りで巷にばらまかれた定額給付金だが、それを狙うのは詐欺師だけではなかった。ANAは、「せっかくの定額給付金、思い出にかえてみませんか。定額給付金で行ける日本全国の旅」とそそのかす。期間限定で「定額給付金記念超割」商品を売り出すという。負けるものかと、JALは「定額給付金で、日本中に笑顔がはばたきますように」と「定額給付金記念バーゲンフェア」を行うという。また、ある大手スーパーでは「定額給付金割引クーポン」を新聞に折り込んだ。家庭用品から家電、衣料品、寝具、文具に玩具と、食品以外のさまざまなものを対象に5%から10%、あるいは、50円から1,000円引きである。

 定額給付金を熨斗袋に入れて、町長さんが「おめでとうございます」と手渡した村があったというが、「定額給付金記念」と謳う航空会社もそれと同じ意識だったのだ。スーパーにしても、いつものセールとさほど違いはないのに、定額給付金という言葉を冠しなければ遅れをとるとでも思っているのだろうか。

 我が家にも申請書が郵送されてきたが、未だにほったらかしである。申請しなければそのお金はどうなるのだろう…という気はするが、さほど欲しいという気も起こらない。給付金を支給する対象は国民ひとりひとりであっても、申請は世帯主がせよという。つまり、家長がせよということだ。事務的な便宜上そういっていることはわかるが、気分的にはおもしろくない。

 私の住む市では、申請書は事務局宛に郵送することになっているが、返信用封筒に「○○市長様」と印刷されている市もあるらしい(家長がお上から頂き、おんなこどもは家長から頂くべしという構図が垣間見える)。事務的能力が優れているとはとても思えない市役所(公務員)に、銀行口座の情報を教えるのも気が進まない。世間が「給付金で○○しよう!」と浮かれるほどには、私の気分は浮かないのである。
2009年4月17日 19:41 | コメント (0) | トラックバック (0)

食卓を盛り上げる

 玩具のバンダイが、自宅で流しそうめんが味わえる「流しそうめん そうめんや」を発売するそうだ。バンダイの説明によると、『食卓を盛り上げるコミュニケーション型商品』だという。しかし、私はasahi.comに載ったその商品の写真を見て涙が出そうになった。

 私は”古い人間”だ。食べ物で遊んではいけないと育てられた世代である。玩具で食事をするなどということは、到底考えられないことだし容認できることではない。食卓を盛り上げる演出をすることはイイコトだし必要なことだとは思うが、玩具はダメである。

 お店であれば給仕をする人がいてどんどん素麺を流してくれるからいいが、家庭では誰がその役目をするのだろう。その人はせっせと素麺を流さねばならず、おちおち食べていられないではないか。そんな状況が楽しいといえるだろうか。

 『水車小屋付近に茹でたそうめんをほぐしながら少しずつ投入します。全長約140cmのレール上を流れてくるそうめんをタイミングよくキャッチして美味しくお召し上がり下さい』というが、ABS樹脂のレールを流れてくる素麺はどう見てもおいしそうには見えない。
 価格は8,400円。それだけのお金を出せば家族分の趣味のいい食器が買えるではないか。すてきな器こそ『食卓を盛り上げるコミュニケーション型商品』である。
2009年4月15日 15:43 | コメント (0) | トラックバック (0)

言語道断

 やはり我が県知事はあほである。あほでは言葉が悪いので言い直すと、非常識である。全国版のニュースにはならなかったかもしれないが、初登庁の日に、知事室に母親(90歳)と実姉を招き昼食(幕の内弁当)を共にし、記念の家族写真を撮影したという。
 県庁の知事室は、県民のために知事としての仕事をする場所であると自覚せよ、と言いたい。ご高齢の母上はさぞかし知事就任をお喜びだろうことは容易に想像できるが、それはそれ、これはこれ、である。

 折りしも今日は東大の入学式だったという。東大に限らないが、大学の入学式に親がどっと乗り込んでくるようになったのはいつの頃からだっただろうかと、先日知り合いと話したばかりだった。その前に、受験に母親がお弁当を持って付き添ってくるようになった、その流れであると、物知りの知り合いは言っていた。
 我が県知事さんもその世代であるからして、知事就任の喜びを分かち合うために母親と姉を知事室に招くことの非常識さに気がつかないのだろう。しかし、しかし、これは非常識である。非常識な振る舞いを繰り返す県知事は、県民の恥である。

 これといった仕事もしないうちから、県民有志らが立ち上げた「森田健作氏を告発する会」が、公職選挙法違反(虚偽事項の公表)の疑いで千葉地検に告発する予定であると報道されている。また、政治資金の件でもあれこれ取りざたされている。
 派手なパフォーマンスなど不要である。誠実に地道に仕事をする気(というより、能力)がないなら、即刻辞任すべし、である。知名度と派手さに惑わされてこの人に1票を投じた県民は、本当にそれでよかったのかと自問してもらいたいと思う。
2009年4月13日 15:53 | コメント (0) | トラックバック (0)

×(バツ)

 一気にひと月飛んだかと思うほどの陽気である。しかし、この陽気に浮かれている場合ではない。我が県知事さんの知事室でのガッツポーズはあほに見えるだけだったが、「千葉弁当」のPRのためといって試食しているのはみっともないだけだ。カイワレの菅さんといい、牛肉の武部さんといい、どの人も人様に見せられるような品のいい食べ方ではない。

 さらに問題なのは、それらの弁当を考案した女子大学生に対して「みんないいお嫁さんになるよ」と言ったと報道されていることだ。多くの人がなかなかそういう認識を示さないし、問題視する私がことさらとんがっているわけでもないが、これはセクハラである。スペシャリストを目指して勉強しているであろう学生に対して、女性であるというだけのことでそのような発言をするのは、明らかにセクハラである。考案したのが女子大学生ではなく、男子学生であったとしたら何と言っただろうか?

 なかには、将来妻となり母となる人はもちろんいるだろうが、それはあくまでも個人的なことであり、知事という立場にある人からあれこれ言われる筋合いのものではない。知事ともなれば、無神経な発言は許されない。その人の生き方、考え方、あらゆるものがすべてそこに現れるのだから、単なる感想を述べるにしても慎重に言葉を選らばなければならない。口の軽いお調子者の知事など要らない。
2009年4月10日 9:01 | コメント (0) | トラックバック (0)

実は、私…

 夕刊が来るのが待ち遠しい。こんな気持ちは、とうの昔に忘れてしまっていた。今日は、杉本さんに会える日だ。どんなことが書いてあるかな…、新聞を開く手ももどかしい。

 マネという画家については何も知らないしその絵もみたことがないが、ありありと思い浮かべることができそうな文章である。杉本さんが言いたかったことは最後の1行だけだ。それを言うために1枚の絵を詳細に描写してある。衝撃を受けるほどのすごい文章だ。

 新聞の切抜きなどまずしない私が、いそいそと切抜きをしているのである。
2009年4月 8日 19:22 | コメント (0) | トラックバック (0)

「新」の季節

 街は「新」の季節。初々しく、どこかぎこちなく、浮き浮きと、華やかに、「新」の季節。我が県知事さんも初登庁である。女性職員から花束を贈られるのは慣習だとしても、ハイタッチやガッツポーズは、言葉は悪いがあほかと思う(「モリタ」コールで出迎えた支援者も似たもの同士)。ガッツポーズなんて他でできるでしょうが…と、我が家の若い人は苦々しく呟いた。
 
 さて、めったに更新されなくなった「村のホームページ」の「村の住人」が、にゃ〜ぁんと更新されていた。猫好きのあなたなら見逃す手はない。さっそくこちらをポチッとして…。
2009年4月 6日 17:20 | コメント (0) | トラックバック (0)

非常事態

 インターネットがほとんどつながらない状態が続いていた。突発的なものではなく、設備拡張工事のためである。さすがに土曜日は工事をしないのか、朝からてきぱきとつながりほっとする。昔は停電も多く、懐中電灯やろうそくを常備していたものだが、インターネットがつながらなくなったときに備えてなど考えたこともなかった。これからは考えておいたほうがいいのだろうか。メールが届かない、買い物ができないなど、少なからず生活に支障をきたす。工事は断続的に20日頃まで続くらしい。

 そんなときに、炊飯器が突然壊れた。「F2」である。「F2」が何であるかは知らないが、販売店に相談するしかない故障である。5年も使い込んだ炊飯器である。買い換えることにした。ネットがつながるときに、大急ぎでアマゾンに飛び込んだ。
 新しいI H炊飯器は、お米の銘柄によって炊き分ける機能がついていた。あきたこまちの無洗米を予約でお願いね…というと、指定した時間においしいご飯が炊き上がった。気がつかなかったが、使い込んだ炊飯器ではおいしく炊けていなかったのだ。
 それにしても、炊飯器が予想もしなかった「F2」という表示をしたのは驚いた。新しい炊飯器には、「F01」 から「F10」まであるらしい。機能が多いということは、故障の種類も多いということなのだ。その他にも、「C10」や「C11」や「C14」というのもあるらしい。

 どたばたしている間に堂本さんが県庁を去り、週明けにはモリタさんが登場する。すでにあちこちで派手にパフォーマンスしているが、うんざりである。都知事に倣ってアクアラインでマラソンを、宮崎県知事に倣って千葉名産品のセールスを、大阪府知事に倣ってオオボラを…も、うんざりである。知事としての仕事も始まらないうちに、献金違法受領問題が話題になるのもうんざりである。
2009年4月 4日 9:20 | コメント (0) | トラックバック (0)

期待

 朝日新聞夕刊文化面で、「私の収穫」というコラムが始まった。書いているのは、杉本秀太郎さんだ。新年度になって紙面の構成が変わり、その読みにくさにブチブチ文句を言っていたが、杉本さんの文章を読んだとたん、私の機嫌はすっかりよくなった。
 とにかく好きなのである。文章が呼吸している。書くときの基本どおりに起承転結のある文章は、緩やかなうねりとなって、読む者を包み込む。
 [1]となっていたということは連載ものということだろうか…、そうであれば楽しみである。
2009年4月 1日 19:26 | コメント (0) | トラックバック (0)