ひっそりと読む本

 「日本語が亡びるとき ─英語の世紀の中で」(水村美苗・著 筑摩書房)を読み始めた。まだ途中までしか読んでいないので、ひとことだけ…。

 そのことがどういう意味を持ち、どういう状況を引き起こすかは十分承知だろうに、あの梅田望夫さんが、その肩書きと立場で、ブログという現代の道具を使って、『水村美苗「日本語が亡びるとき」は、すべての日本人がいま読むべき本だと思う』などと書いた。その結果、ネット上ではお祭りとやらになっているそうで、アマゾンの売り上げランキング1位になったとか。

 それを裏付けるかのように、私が購入したのは発行日からひと月近くしか経っていなったが、すでに初版第2刷であった。本来ならこのような売れ方をする本ではないのにこんな売れ方をした結果、それなりの読み方しかされず、しかし、お祭り大好き人たちによって、表層的な感想か巷に満ち溢れている。それらは一体何になるというのか。ネット上のごみと言ったら言い過ぎか。

 私は梅田望夫さんとは違って、「すべての日本人がいま読むべき本」とは思わない。本当に読みたいと思う人、その内容に関心のある人が読めばいい。正確には梅田望夫さんは、『「すべての」と言えば言いすぎであれば、知的生産を志す人、あるいは勉学途上の中学生、高校生、大学生、大学院生(専門はいっさい問わない)、これから先言葉で何かを表現したいと考えている人、何にせよ教育に関わる人、子供を持つ親、そんな人たちは絶対に読むべきだと思う』と続けているのだが、それほど広範囲の人が”読むべき”とは、私は思わない。というのも、ある程度の下地がなければ、反発しか感じないだろうと思うからだ。(何故そう思うかについては、また次の機会に…。)
2008年11月30日 15:32 | コメント (0) | トラックバック (0)

言い様、二題

 『裁判員辞退、最高裁は「柔軟に判断」』、これは朝日夕刊の見出しである。「柔軟に判断」と言えば良く聞こえるが、言い換えれば裁判官の心根次第ということだ。あっちの裁判官は甘いぞ、こっちの裁判官は辛いぞぉ〜、ということにもなりかねない。

 あそ〜さんの意向で、「総裁特別補佐」が新設されることになったという。「総裁特別補佐」というから右腕かと思えば、何のことはない、口だった。官房長官というスポークスマンがいるのにそれだけでは不足ということか、メディア対策など広報活動全般に関わり、政策をアピールする役割を担うのだという。”見ざる”・”聞かざる”・”考えざる”に、とうとう”言わざる”も加わった。では、”何を”自分でするというのだろう、あそ〜さんは。
2008年11月29日 18:50 | コメント (0) | トラックバック (0)

いよいよ、届く?

 今日、裁判員の候補者への通知が発送されるという。届くところには明日にも届くそうだ。郵便受けを開くのが怖い。私の住む県では、221人にひとりの確率だそうだ。もしかして…大阪に次いで多い?

 困るのは、私には辞退を申し出る積極的な理由がないことだ。裁判員候補者に選ばれても、質問にわざと過激な返答をすれば「けっこうです」となるのだろうか?でも、そんなことをすればブラックリスト入りだろうし、その情報が何に利用されるかわからないし…。そもそも裁判に対して(特に、死刑制度に対して)さまざまな質問をすることは、一種の思想調査だ。やりたくもない裁判員選出のために、そんなことされたくないのである。

 裁判に参加するのは義務だといわれるけれど、状況次第では免除される義務であるし、その基準はあいまいなままであるし、付け届けをすれば免除してくれるなんてことが絶対に起きないとは言い切れないし…、あぁ、イヤだなぁ〜。221人にひとりの確率だなんて、宝くじに当たる確率よりずっとずっと高いじゃないか!あぁ、イヤだなぁ〜。
2008年11月28日 9:12 | コメント (0) | トラックバック (0)

言語道断

 今回のあそ〜さんの発言(20日の経済財政諮問会議で、「たらたら飲んで、食べて、何もしない人の分の医療費を何で私が払うんだ」と発言したとされる)は、私には全く理解不能である。広い世間にはそのようなことを言う人がいないとはいえないが、総理大臣ともあろう人が言うことではない。

 いうまでもなく、社会は持ちつ持たれつである。資質、環境、境遇などは人それぞれで、決して一様ではない。しかし、そうであっても、すべての人が等しくある一定の生活ができるようにするのが政治であり福祉である…はず。だからこそ、収入に合わせて税金を納めるのだし、その税金を使って政治をするのである…はず。

 あそ〜さんが朝の散歩とご馳走三昧で健康を保ちえているのなら、それはご自身の境遇に感謝すればいいことで、そういう生活・生き方ができない・しない人を批判するのは間違いである。努力しさえすれば生涯健康でいられると考えているなら、呆れるほどの楽天家である。「努力して健康を保った人にはご褒美がなければいけない」だなんて、どの口が言うてんねん!である。

 総理大臣でありながら、弱い立場の人を理解する能力がないのであれば、理解できるように努力すべきである。その努力もせずに、「健康を維持する努力をしないで病気になった人の医療費を、多額納税者である自分が、何で払わにゃならんのだ?」と言うとは、言語道断である。
2008年11月27日 9:38 | コメント (0) | トラックバック (0)

評論を論評する本

 今日の朝日新聞文化面は、斉藤美奈子さんの「2008年の批評」と題した文芸時評だった。ここでも、「日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で」(水村美苗・著 筑摩書房)」が取り上げられていた。評論を評論家が評論すると…、絶賛する人と批判する人との両方を取り上げてさらに論評する…というややこしいことになる。
 
 絶賛する人と批判する人とにはっきりと分かれるのは、「英語教育と日本語教育」の章だと、この文芸評論家は言う。そして、批判が出るのは当然だとして、それは、文学者は日本語を守る方向に、言語学者は日本語を開く方向に向かうのが常だからだと言う。

 私はこれから読むのでまだ何ともいえないが、そんな単純に割り切れる話ではなさそうな気がしているのだが…どうなのだろう。水村美苗さんの主張は、ただただ日本語を守ろうなどということではないような気がするが、どうなのだろう。昨日BK1で注文したので、近いうちに読めるだろう。
 ついでながら、この文芸時評で取り上げられた「ゼロ年代の想像力」(宇野常寛・著 早川書房)は、間違っても私が読むことはない本だ。
2008年11月26日 15:56 | コメント (0) | トラックバック (0)

日本語

 今朝の朝日新聞文化面に、「日本語を滅ぼさぬために 近代文学読み継ごう」という記事があった。「日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で」(筑摩書房)という評論を書いた水村美苗さんの話だ。

 「日本語がいかに恵まれた言語か」を再認識し、国語教育において「日本の近代文学を読み継ぐことを主眼とすることが重要と説く(英語教育においては、誰もがバイリンガルのなる必要はなく、一部の優れたバイリンガルを育てればそれでいいと言う)。また、 「若い頃にいいものに触れないと、いいものは生まれない」と言う。このまま日本語がひとつの「現地語」になり下がったら、どうなるか…、「人類の文化そのものが貧しくなる」と、水村さんは訴えている。

 『日本語がひとつの「現地語」になり下がったら』というところで、私はドキッとした。国旗や国家にはあまり誇りを持っていない私でも、日本語を持っていることは大いに誇りとしている。それが…現地語扱いになってしまうなんて…想像するのも恐ろしい。次はこの本を読まなくては!
2008年11月25日 13:15 | コメント (0) | トラックバック (0)

輿

 「輿論とは個人が担う意見である」という自覚を持つこと、自らの責任で支持する意見を担うこと、世論を「よろん」と読まないこと、輿論を復権させるために「感情の言説化」にひたすら努めること、世論に流されず輿論を担うだけのリテラシーを獲得すること、世間の空気に対して、たった一人でも公的な意見を叫ぶ勇気を持つこと、これが、「輿論と世論―日本的民意の系譜学―」(佐藤卓己・著 新潮選書)の著者が言わんとするところのすべてだ。

 輿論の「輿」という字が消えたのは、かなり昔の話だったのだ。私は(もちろん)戦後生まれだが、輿論という言葉の存在は知っていたし、輿論と世論は別物だとも一応知っていたし、世論はせろんとしか読めなかった。何故知っていたのかは、よくわからないが…。

 この本を読むと、漢字をひとつを無くすことがどんなに大きな影響のあることかと改めて驚く。英語では輿論は public opinion、世論は popular sentiments と、違いは明白である。日本語には、音だけでは意味の違いを表せない言葉が多々存在する。だからこそ漢字で表記することが重要なのに、漢字をどんどん減らそうとするし、「世論」と書いて”せろん”でも”よろん”でも好きに読んでいいですよ」などとふざけたことを言う。

 著者が「感情の言説化」の重要性を説くのも、感情のままでは世論しか生まれず、それを輿論とするには思考が必要だからということではないか。あそ〜さんにも勧めたい1冊である。
2008年11月24日 14:42 | コメント (0) | トラックバック (0)

変な風潮

 浅草酉の市の熊手に値札をつけたそうだ。「値切るのが恥ずかしい」という客が増えたから…というのだが、そんなことで伝統文化を壊してもいいのかなぁ、と思う。値札を付けたのは、境内を埋める店の1割に満たなかったというので少しは安心したが、売れれば何をしてもよいという考えでは文化は守れない。

 酉の市の熊手が文化なのではなく、ただの商売だと思っているならネット販売で済む。スーパーでは値切ったりしないが、市場なら少々は値切ってもいいかも。高級ブランド店では値切れないが、酉の市では値切ればいいのである。

 昨年の酉の市でのアンケートの結果、「売り子との会話が恥ずかしい」「値切ることにためらいがある」として、値札を付けてほしいとの要望が若者を中心に100件もあったらしい。勉強をする場は学校だけではない。若者の要望に屈して伝統を捨てることは、さまざまなことを学ぶ機会を若者から奪うだけでなく、とても罪深いことである、と私は思うけれど。
2008年11月23日 9:55 | コメント (0) | トラックバック (0)

いいかげんにして

 本当に、もう、いいかげんにして欲しいと思う。あそ〜さんは、ペルーでのロシア大統領との会談で、「ドラえもん」とロシア民話の妖精「ドラフェイ」が共演するアニメの共同制作を提案するのだという。「アニメづくりを通じて日本とロシアの文化交流を推進したい」そうだが、ロシアとの文化交流の実情にさほど問題が起きているわけではないのだから、総理大臣が大統領との会談でわざわざ話さなければならないことではない。それなりの管轄のところの人が話せば済むことだ。あそ〜さんは、総理大臣としての自覚をもっと持たねば。それができないなら、即刻辞任を。
2008年11月21日 9:18 | コメント (0) | トラックバック (0)

ドーシタと言われても…

 先日の夜、ぼんやりとNHK-FMラジオを聴いていると、「ドーシタトースター」というヘンテコリンな曲名の歌がかかっていた。曲名もヘンテコリンなら歌っているグループ?名(スキマスイッチ)もヘンテコリンだ。番組のDJの女性は、その曲を男性ならとても共感できそうな曲と紹介していた。歌詞はこちら
 今日の昼、またぼんやりとNHK-FMラジオを聴いていると、「サボテンの花」(歌っているのは、チューリップ)という曲がかかっていた。歌詞はこちら。最初のは最近の曲、後のは昔の曲。
 
 このふたつの曲は、どちらも二人の関係が”終わった”後の男性の気持ちを歌ったものだ。たぶん多くの人が共感するのだろうが、私は共感できないどころか、こういうオトコは苦手である。
 「トースターが君との唯一のつながりだったのに」などと1年経ってもまだうじうじ思っているオトコなど、私は到底受け入れられない。そのうじうじした心情は理解はできるが、イヤである。そんなの未練でしかないじゃない…と思ってしまうからだ。

 「ほんの小さな出来事に 愛は傷ついて/君は部屋をとび出した 真冬の空の下に/編みかけていた手袋と 洗いかけの洗濯物/シャボンの泡がゆれていた 君の香りがゆれていた」とオトコは言うけれど、編みかけの手袋も洗いかけの洗濯物もそのままに部屋を飛び出し戻ってこなかったオンナにとって、それは”ほんの小さな出来事”ではなかったはずだ。大きな大きな決定的な出来事だったからこそ、すべてをそのままに去ったのだ。サボテンの花に、このオトコは何を見たのかわからないが、恋の終わりを悟り、新しい世界へ踏み出す決心をする。こんなオトコも、私は苦手である。オトコは何故こういう歌を作り歌うのか…、それが理解できない私には、何かが欠けているのか…。

 何かが欠けているのかなぁ〜と思う私だが、この歌詞は理解できる。三畳一間にこそ住まなかったが、案外こんなセイシュンだったりして?なんてことがあったのかなかったのか、もう遠い昔のことで忘れてしまったワ。
2008年11月20日 18:49 | コメント (0) | トラックバック (0)

秋の1日

 今日は、わずらわしいことはすべて放り出して、秋を満喫した1日だった。いつもの連れさんと久しぶりに銀座で待合せ買い物と食事をして、大手町まで移動し東御苑へ秋を拾いに行った。
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左の写真は、落ち葉のシャワー(写真ではわからないけれど)。右の写真は、光の中で右に左にと風に揺れるススキ。

 大手門から東御苑に入り、北桔橋門から出て東京国立近代美術館工芸館へ。「かたちのエッセンス―平松保城のジュエリー」展は、展示作品の数は少ないが興味深い形のものがたくさんあった。いつものように、これがほしいなぁ、あれも欲しいなぁと観てまわった。ミュージアムショップでいくつかの作品が売られていたが、残念ながらとても手の出る値段ではなかった。

 工芸館へは前にも来たことがあるのに、違う方向から行くと道に迷うこと迷うこと…北の丸公園の深い木々に遮られなかなか建物が見えてこないのだ。過去に大手町で道に迷ったことがあったし、中高年の二人連れの女性が北の丸公園内で行方不明…なんてことになったらどうしようと、一瞬不安になったりして…。
2008年11月19日 20:20 | コメント (0) | トラックバック (0)

思い直して、考え直して

 「生活保護問題対策全国会議」という市民団体が、定額給付金に関して、「本当に支援の必要な人が受け取れない」と、麻生首相に公開質問状を出したという。
 ホームレスやいわゆるネット難民と呼ばれるホームレス一歩手前の人びと、また、さまざまな理由から身を隠して生活している人びと、本当に生活に困窮している人は少なくないだろうに、そういう人びとは国民の数の中に入らないかのように、あそ〜さんは一度として口にしたことがない(私が聞いた記憶がないだけ?)。

 あそ〜さんがどれほどのお金持ちが知らないし関心もないが、お金の価値を知らない人なのではないかと憂える。あそ〜さんの自慢とする経済対策は、どれもこれもお金をばら撒く話ばかりである。定額給付金然り、公共事業限定の1兆円交付金然り、G20でのIMFへの最大10兆円の融資提案然り…。

 あそ〜さんは、住所不定の真の貧困層のことなど全く頭にないのだろう。それはまさに国の問題なのに、自治体で何とかしろと?「年間何千万だか何億だか、もらっている人は、1万2千円ちょうだいって普通言うか。オレの感性からいくと、そうなんだけど」など、そんなことを口にするのは恥ずべきことだから、
普通の感性の持ち主なら口にはしないだろう。
2008年11月18日 9:17 | コメント (0) | トラックバック (0)

黄葉

081117-黄葉.jpg そろそろ紅葉が楽しめる季節だが、これはどう見ても黄葉しているように見える。我が家のベランダガーデンにあるのだが、何の木(?)かわからない。
 思い当たることといえば、どんぐりが芽を出したのかなぁということくらいだ。私のことだから、ホイホイと調子に乗ってあちこちにどんぐりを埋めてしまう。まるで山のリスさんだ。自分で埋めておいて、すっかり忘れるのである。
 背丈はそろそろ30cmになろうかといったところだ。困ったね。このままどんどん伸びるのだろうか。楽しみなようでもあるが…どうしましょう?
2008年11月17日 9:40 | コメント (0) | トラックバック (0)

日曜日の新聞から

 まずは、書評欄に久しぶりに注目するものがあった。「輿論と世論―日本的民意の系譜学―」(佐藤卓己・著 新潮選書)だ。これは読んでみたい。
 ”よろん”という言葉が確かあったはずと思っても、漢字が見当たらない。現在では、世論と書いて”せろん”とも”よろん”とも読ませる。では意味も同じかというと、現在では読み方が違っても意味は同じであるとされている。意味も同じ、漢字も同じなのに、何故読み方は二通りあるのか。そのあたりは曖昧だ。

 読めない漢字はなくしましょう、書けない漢字はなくしましょう…の結果、「與」という漢字が消えた。それにつれて本来の輿論の意味も消えた。その結果、社会はどうなったか、…ということが書かれている本らしい。
 読めないなら、書けないならと漢字制限を繰り返していくうちに、人は思考力を失った。ひらがなばかりでは十分な思考はできない。新聞の社説が読むに耐えないものになったのも、あそ〜さんのような人が総理大臣になってしまったのも、漢字制限を繰り返した結果、といってしまえば極端に走りすぎかもしれないが、全くの無関係ではないだろう。

 次は、「写真が語る戦争」(朝日新聞のシリーズのひとつ)だ。傷痍軍人が「名誉の負傷」として優遇されていた時代のことは、私は知らない。それも戦後は一変したというが、私が街中で物乞い(街頭募金というらしいが、私には物乞いとしか見えなかった)する傷痍軍人を見たのは、30年代前半頃だ。本物の傷痍軍人だったのかどうかは定かではないが、本当に嫌な”風景”だった。文字通り橋の下で生活している人もいた。そういう”風景”を見ながら私は、ちょっとした庭で当時流行のスピッツ犬など飼っている家に住んでいた。社会が貧しかったのだといってしまえばそれまでだが、給食費が払えずその時間になると教室から出て行く子もいた。そういう事柄をすべて”風景”としてしか知らず、生きてきてしまった。誰もその”風景”の中にある現実を教えてはくれなかったことが、腹立たしかったのかもしれない。
2008年11月16日 10:50 | コメント (0) | トラックバック (0)

先行き不安

 社会を秩序立って成り立たせるために、さまざまな法律を作って運営できるようにするのが政治なのではないのかなぁ。法律のない状態は無秩序だし、法律を作ることができるのは政治しかない。なのに、それは時間がかかって面倒だからと、あんたンとこで良いようにやってくれと放り投げるというのは、なんと表現したらいいのだろう。
 「一定以上の一時所得がある人が定額給付金を受け取ると、増税となる可能性がある」と気がついて、定額給付金を非課税にしなきゃ!と、大慌てで特別会計法改正案などと併せて関連法案を出すという。まじめに手抜きをしないでやるべきことをやっていれば、こんな不様なことにならなかっただろうに。

 定額給付金に関する、ワシントンでの記者団への発言の要旨というのが報道されていたが、この人は本当にこんなこと(年収500万とか1千万なくても「いらない」という人もいるし、5千万でも「いる」と思う人もいる。本人で決めたらどうだって最初に言った。年間何千万だか何億だか、もらっている人は、1万2千円ちょうだいって普通言うか。オレの感性からいくと、そうなんだけど)を言ったのだとしたら、もう…何も言うことはない。
 あなたの感性で政治をやるのは間違いです。誰の感性でやるのも間違いです。1+1は2というように、これをこうしたらこうなるという式に則って施策するのが政治です。そんなこともわからないなら、顔を洗って出直しなさい…とだけは言っておこうか。
2008年11月15日 20:22 | コメント (0) | トラックバック (0)

それなりの方法

 朝から聞きなれない鳥の声がする。外をみると、電線に見慣れない鳥がとまっていた。大きさはスズメくらいだが、スズメではないのは明らかだ。鳴き声がまるで違うし、頬のあたりが白い。君は誰だ?とインターネットで調べてみると、どうやらシジュウガラらしい。電線の上でもせわしなく体を動かしていた。せっかちな鳥さんなのだろうか。鳴き声もやけに活発である。今朝はまだ、その声を聞いていない。

 10〜11月の「カップヌードル」の売り上げが、前年同期より20%も落ち込んでいるという。値上げした上に、防虫剤成分が検出された影響だというのだが…。
 先日、歯医者で予想以上に待ち時間が延びてしまって帰りが遅くなったとき、昼食に手っ取り早く食べられるカップヌードルでも買って行こうとスーパーに立ち寄った。カップヌードルの陳列棚には、詳しくは読まなかったが、防虫剤の近くで保存しないように云々という張り紙があった。それを見たとたん、食べる気も買う気も瞬時に失せた。

 カップヌードル自体に問題があるとは思えないので食べようと思ったが、防虫剤という文字を見たとたん、おいしくなさそうに感じたのだ。いろいろな人がいるから、注意書きは必要なのかも知れないが、売り場にそのような張り紙をしたら売り上げが落ちるのも当然だ。注意書きを書いた小さなシールでも作って個々の商品に貼ればいいのに。
2008年11月14日 9:17 | コメント (0) | トラックバック (0)

決着が招く次の混乱

 ついにやってしまったあそ〜さん。本当に、「ヘリコプターで上空から2兆円ばら撒く」に等しいことをやってしまった。「手間は省ける(やれやれほっとしたと言っていた政治家もいた)だろうし、欲しい人だけが拾いに集まってくる(所得に関係なく、そういうことにしかならない)だろうし、そこ(各自治体)でどんな混乱(ありとあらゆることが予想されるのは明白)が起きようと、政府の知ったことじゃない(だって、もう地方に任せたんだもん…とあそ〜さん)、国民(そして、自治体)の意識の問題」。読売新聞の社説でさえ、「国の施策としては“無責任”とも言える内容となった」と評した。

 「ふしゅう」の次は「みぞうゆう」と漢字を読み間違えたあそ〜さん。記者は揚げ足取りをしているのではなく、総理大臣という職務に対する心構えを問いただしているのだ。いかにぶら下がりの若い記者の質問であろうとも、その向こうには国民がいることを忘れないでもらいたい。記者に応えるときのぞんざいな物言いと、吟味していない言葉遣いを何とかしてもらいたい。言葉は思考である。言葉を大切に扱わない人は思考していないも同然である。

 定額給付金について、「僕は元々受け取る気ありませんから」と言ったあそ〜さん。これは立場上、口にしてはならない言葉だ。誰もあそ〜さんが受け取るなどとは思っていないだろうが、そんなことは取るに足らないことである。
2008年11月13日 10:00 | コメント (0) | トラックバック (0)

手っ取り早い方法

 いっそのこと、ヘリコプターで上空から2兆円ばら撒きますか?…と言いたくなる。そうすればかなりの手間は省けるだろうし、欲しい人だけが拾いに集まってくるだろうし、そこでどんな混乱が起きようと、政府の知ったことじゃない、国民の意識の問題だろうし…などと、バカも言いたくなった。

 国民の意識を当てにした政策とは何ぞや?ここまで執拗に、貧乏人に給付金を支給したいのだと繰り返し強調されたら、給付金が欲しい人は「私は貧乏人でございます…」と卑屈な気持ちで市町村の窓口に行かねばならないだろう。自尊心があれば、そんなはした金などいらんと言うだろう。それを期待するのが、あそ〜さんの言うところの「ご本人のきちんとした意識の問題」である。しかし、そんなものが政治といえるのか?政策といえるのか?…疑問を通り越して不可解である。

 漢字が読めず踏襲をフシュウと繰り返し読んだとか、ホッケを煮付けにしてしまったとか、そんな枝葉末節はもはやどうでもいい。国民の時間とお金を無駄にするだけの人をいつまでも総理大臣にしていては、大きな損失を生むだけである。
2008年11月11日 9:26 | コメント (0) | トラックバック (0)

本から飛ぶ

 本を読んでいると、突然いろいろなことを思いつく。そのひとつが、エスカレーター。たいていの人は、エスカレーターとは動く階段である、と思っている。しかし、その発想を変えるといろんなことが変わるんじゃないか…と、突然思ったのだ。エスカレーターをオープン式エレベーターと考えれば?というふうに。

 一段を今の3〜4段分の奥行きにして(1段の定員は4,5人か?)、台が順繰りに上がっていくようにすれば、ベビーカーごとでも乗りやすいし、ショッピングカートを歩行器代わりにしている高齢者も乗りやすいし、もちろん車椅子でも乗れるし、駆け上がることは不可だから故障も少なくなるだろうし、将棋倒しのような事故も防げるだろうし…と思うのだけれど。

 最近のエレベーターには、ベビーカーや高齢者を優先するようにと張り紙がしてある。これって、列車の優先席や女性専用車両みたいにとてもいやな感じなのだ。そんなことをいちいち言わなくてもいいのが、ユニバーサルデザインではないの?と思うのだけれど。

 また、本を読んでいると、突然思い出すこともある。ある本にこう書いてあった。『愛する人に死なれた者が必ず悩むのは、残された自分の気持ちのことなど大して考えないで死んでいった人に対して、裏切られたような悔しさや憎しみが自分の中にあるのに気づくからである』。『そのような気持ちに対処する方法も教わったが、そういう訓練にも増して私の助けになってきたのは、確か昔、小田実氏が言ったことと記憶する。「自殺しそうな者には死ぬなと言い、死んだ者には冥福を祈る」という一種の現実的な対応である』。

 そうか、そういうことなのか…と、今になって納得する。とても大切に思っていた人が突然死んでしまったとき、私は腹立たしくて腹立たしくて、その思いを長いこと持て余していた。ずいぶん時間が経って、ようやくもう許してあげるという気持ちなると、腹立たしさも収まりつらい気持ちも静まった。 

 どんな本を読んでいたかというと、大平健・著「こころの散歩道」(それにしてもこの題名は…。ちょうど”こころの〜”が流行っていた頃に出版されたのかもね)。著者についてはここに。
2008年11月10日 9:43 | コメント (0) | トラックバック (0)

笑えないジョーク

 当選後初の記者会見で、アメリカの次期大統領が披露したジョークは笑えない。もっともこれは、イタリアの首相が言った「オバマ氏は若く、格好が良く、日焼けしている」という、これまた笑えないジョークへのお返しだということは明らかだが、こういうものにお返しは不要である。無視した方がずっと格好はよかったのに。 
 
 音が同じというだけでオバマ氏を応援していた小浜市は恥ずかしい限りだが、当選したらしたで今度は「特別名誉市民」に…などと言い出した。このあほらしさは、あそ〜さんと共通している。単純で思慮がなくあほらしい。あそ〜さんとの初の電話協議でオバマ氏が「小浜市についてもよく承知している」と言ったというが、それはお愛想でしかない(マナーともいえるかも)。

 オバマ氏が大統領になることでアメリカは変わるのか?というのは大問題であるし、どう変わるのか?というのは天地がひっくり返るほどの大問題である。笑えないジョークの応酬が意味するものは何か?それがもたらすものは何か?怖いほどの問題を、想像を絶するほど抱えている…と、私には思えてならない。
2008年11月 9日 11:07 | コメント (0) | トラックバック (0)

今日のあの人

 かつて森さんが首相になったときも毎日のように呆れかえっていたが、今のあそ〜さんと比べれば、森さんはまだまだかわいらしいものだった、と思えてくる。
 もうあほらしくて…話にならないよぉ…と言いつつもここまで付き合ったのだから、とことん決着がつくまで付き合ってあげようじゃぁないの…ということで、今日のあそ〜さんである。

 お昼のニュースで、葛飾区の亀有銀座商店街を視察して、1個70円だか80円だがのどら焼きを買い食いした…とか何とか言っていた。休みの度に商店街に繰り出して何をやっているんだ?と思ったら、アニメの主人公の像の除幕式に出席したのだという。こともあろうに、総理大臣がアニメの像の除幕式?

 ぐちゃぐちゃになった生活支援定額給付金の話も、さらにぐちゃぐちゃになって、高額所得者には給付金受け取り辞退を要請してはどうかとまで言い出した。どんな頭がそんなことを思いつくのだろう。関西弁で言うところの「どの口が言うてんねん!」「この口かあー」である。国が国民に対して、これこれこんなことをするのだが、アンタにはそれの受け取りを辞退してもらいたい、と言うというのは、理解のしようもないほど突飛である。
 
 いわゆる「田母神問題」に関する記者の質問に対して、あそ〜さんは「防衛大臣の所管。ちょっと正直どうのこうのという立場にない」と発言したとされている。私の思い違いでなければ、あそ〜さんは基本的なところで大きな思い違いをしている。自衛隊の一番トップはあそ〜さん自身であることは、誰もが知っている。防衛大臣は総理大臣の腕でしかない。昨日と今日でご自身に何の変化がないとしても、ひとりの国会議員であったときと総理大臣になった今とでは全く違うのだということを、理解し認識し自覚してもらいたい。それができないなら、即刻、辞任すべし。
2008年11月 8日 13:10 | コメント (0) | トラックバック (0)

変則的調理法

 オーブンレンジで天ぷらを作る…といわれても、へぇ?となる。どうやって?とオーブンレンジのクッキングガイドを読んでみると、天ぷらとはいってもヘルシー天ぷら、つまり天ぷらもどきのようなものらしい。天ぷら衣をまぶすのではなく、天かすを細かく砕いたものをフライを作るときの要領で、小麦粉、溶き卵、天かすとまぶしていくらしい。天かすを使って天ぷらを作るなんて、なんだか詐欺みたいだけれど、おいしくできるのだろうか。興味はあるが、作るのは不安である。

 肉まんをカレーパンみたいな揚げパンふうにできないだろうか?と、腹をすかせた若い人が聞いてきた。ほんのひとつふたつ作るのに卵を1個割るのもナンである。そこで頭をひねって考えた。天ぷら粉(必要な分を水で溶くだけ)という便利なものがあるではないか。それを使えば…。
 軽くあたためた冷凍の肉まんに天ぷら衣(必要な分だけ用意できて便利)を薄くまぶし、それにパン粉をまんべんなくまぶして、少量の油でかりっと焼いてみた。中はふっくら、外はかりっと、理想的な揚げ肉まんが出来上がった。

 今晩の夕食にはまいたけの天ぷらを…、などという献立を立ててしまった。オーブンを使って天ぷらもどきにしてみようか。まぁ、失敗しても主菜ではないから、なんとかなるかもね(私はキノコは食べないし…?)。
2008年11月 7日 9:36 | コメント (0) | トラックバック (0)

白紙に戻して

 案の定、むちゃくちゃである。いっそのこと、白紙に戻して一からやり直せば?と言いたい。「定額減税」から「生活支援定額給付金」と名を変えた追加経済対策のことだ。政府は、年収1500万円以上の世帯を支給対象から除外する方針を固めた(つまり、年収1500万円未満の全世帯を対象にするということ?)…という報道があった。本気か?と目を疑った。

 「生活が困っているところにやる。豊かなところに出す必要はない」と再三あそ〜さんは発言しているが、年収1400万円の人は生活に困っていると本気で思っているのだろうか。しかも、年収の証明を必要としない「自己申告方式」にするという。こんなめちゃくちゃな話は聞いたことがない。

 もとはといえば国民のお金だ。それを、こんなめちゃくちゃな使い方をしていもいいと、一体誰が言った?と聞きたい。本当に生活に困っている人を支援すること(この「生活支援定額給付金」は、住所不定のホームレスの人にも行き渡るのだろうか?)には何の異存もないが、何のために支援をするのかを忘れないでもらいたい。お金をばら撒いて国民を消費に走らせることより他に、もっと大切なことがあるでしょうに。
2008年11月 6日 9:38 | コメント (0) | トラックバック (0)

試してみる

 オーブンレンジで焼きそばを作る…だなんて、インスタントのカップめんの焼きそばのようなものか?と不安だったが、少々興味があったので試してみた。というのも、新しいオーブンレンジに買い替えたのに、まだ何も挑戦していなかったのだ。
 お皿に麺をのせて、野菜をのせて、塩コショウして、ソースをかけて、もう一度野菜をのせて、ラップをして、「カロリーカット」のボタンを押して、メニューから「焼きそば」を選んで、「スタートボタン」を押す。それだけ。待つこと、6分ほど。

 さぁて、どんな具合かな?と興味津々取り出してみると、あぁら不思議!ちゃぁんと焼きそばになっている。お味はどうかな?と食してみると、あぁらまぁぁ!おいしいじゃん!である。新しいオーブンレンジも少しは信用してよさそうだ。今度は「チンジャオロウスー」を作ってみよう。その次は、鶏のハーブソテーだ。フライパン不要、油不要…、ついでに私も不要にならないかなぁ?
2008年11月 5日 19:25 | コメント (0) | トラックバック (0)

あなたもおひとつ…

 毎朝夕、朝日新聞を読んでいる。朝日新聞が好きというわけではなく、かといって読売や産経が好きということにはならないのだが、中学生のときからの習慣である。したがって、アスパラクラブやどらくなどには関心がなく読んでいない。朝日には、「声」だけでなくさまざまな投稿欄があるのは一応知っていたが、大人版?天声新語があるとは知らなかった。

 11月25日〆切のテーマは「景気」だという。では前回は?と見ると、「友」だったそうだ。最優秀・優秀作品の投稿者は、揃いも揃って70歳代である。みなさん、カルチャーセンターのエッセイ教室にでも通っているのだろうか、と勘ぐった。

 新聞が、上からモノを言うのではなく読者に近づくことはイイコトだろうが、「あなたも天声新語を書きませんか?」と読者に擦り寄るよりも、歴史のある朝日の天声人語の名に恥じないような天声人語を書き続けるための、切磋琢磨を怠らないで欲しいと思う。天声人語を読んだ読者に、この程度のものなら自分にだって書けるわぃなどと思われているようではだめなのである。
2008年11月 4日 9:40 | コメント (0) | トラックバック (0)

思考の詐欺

 大平健・著「こころの散歩道」を読んでいると、本のタイトルは少々陳腐だが、興味深いことが書いてあった。著者が言うには、「昔は良かった」や「近頃の若者は…」というのは”思考の詐欺”なのだそうだ。その根拠はというと、今の良いことと昔の悪いことを棚上げにして、今の悪い点と昔の良い点のみを比べているからだという。比べているようでいて、本当はすでに結論が出ているから”思考の詐欺”だと…。「近頃の若者は…」の方も、今の若者の欠点と昔の自分たちの長所を比べているだけだと。そして、そういった思考の詐欺に陥るのは、自省心が欠如しているからだという。

 「何モノかを失っても何モノかを得たくて、そして現代に至ったはずなのに、失ったモノを惜しむばかりで、得たモノのありがたみはすぐに忘れてしまう」、とも著者は言う。確かに確かに。私もついつい、「あのころはね」などと言い出しそうになることがある。
 進歩も発展も歴史の流れも、何もかも皆、「何モノかを失っても何モノかを得たくて」の結果だ。ならば、”今”を考えるとき、「これを失ってもそれを得たいか?」と自問してみることが、ひとつの判断の基準になるのではないか。

 あそ〜さん御自慢の、新総合経済対策の目玉である総額約2兆円の「生活支援定額給付金(定額減税が化けた)」に関して、今頃になって自民党内で意見の対立があるという。これもそれも、あそ〜さんが、何ものも失わずあれもこれも得たいと考えた結果だ。物事の筋を通そうとすると経済財政相の意見になるし、首相の言うことなのだから無茶でも何でも聞いておこうとすると財務・金融相の意見になる。
 
 あそ〜さんの「何ものも失わずあれもこれも得たい」を改めない限り、何も生まれない。とってつけたように八重洲の本屋へ立ち寄ったあそ〜さん、漫画は避けて経済本を数冊買って行ったらしい。そんなパフォーマンスをする暇があったら、1冊でも本をまじめに読んだほうがいい。そして、思考の訓練をしたほうがいい。
2008年11月 3日 9:59 | コメント (0) | トラックバック (0)

不具合とは欠陥のこと?

 「日本ヒューレット・パッカードは、同社製ノートPCのバッテリーに加熱などの恐れがあると発表」という話を聞いて、ちょっと慌てた。私のノートPCは日本ヒューレット・パッカードだ。「該当製品は、2004年12月から2006年6月までの間に製造された同社製ノートPCの一部機種のバッテリーパック」と聞いて、さらに慌てた。私が買ったのは2005年製造だ。「対象として発表された日本販売モデルは7機種の約600個」だという。たったの600個か…それなら大丈夫かなと思ったが、「交換対象となるのは、以下の製品で使用されているバッテリーパックの一部」というリストに、私が購入した「HP Compaq nx4820 Notebook PC 」が入っていた。

 おっとぉ〜これは大変と、さらに記事を読むと、「バッテリーパックのバーコード番号を確認」せよとある。バッテリーパックの取り外し方などわからないし、わかったところで怖くて自分ではできそうにない。久々に、我がパソコンのセンセイにヘルプ・メールを送った。

 「L0, L1, A0, GCで始まるバッテリパック」が該当するというので調べてもらったら、私のは該当しなかった。それにしても、今頃?2008年も残り少なくなった今頃?2〜4年前に製造されたPCの話だ。加熱・発火の恐れのある欠陥品だったら、とっくに事が起きていただろうに。
 加熱といってもどの程度なら大丈夫で、どの程度になれば危険なのかがよくわからない。ノートPCをひざの上で使用すると、あんか並には熱くなっているのがわかる。あんか程度なら大丈夫、ということ?
2008年11月 2日 9:30 | コメント (0) | トラックバック (0)

”犬”可愛がり

 大抵の動物は好き。一緒に生活したことのある動物といえば、猫と犬、それに九官鳥、カナリアくらい。猫は屋外には出さなかったので、首輪もつけなかった。子どもの頃一緒に過ごした数匹の犬(小型犬から小さめの大型犬まで)は、首輪と鎖をつけて庭で飼っていた。ときどき門をしっかり閉めて庭を走り回っていたような記憶もある。

 最近では、犬に服を着せるのは当たり前となった。それなりの理由があってのことのようで、現代の生活形態では必要なものなのかな、と思う。犬用のお散歩靴というのもあるらしい。それもアスファルトが異様に暑くなるからと言われれば、なるほど必需品かも、と思う。雨の日にはレインコート、波乗り用にはサングラス、バイクやグライダーに乗るときには防塵眼鏡(それはスヌーピーか)…、どれもこれも確かに、と思う。

 だが、これはどうだろう?「犬ヅラ」という犬用のかぶりものがあるという。散歩のときやエサを食べるときに、耳が地面やエサに触れて汚れないようにする「スヌード」や「耳バンド」というのがあるというのも驚きだが、それをかぶりものにしてしまったのが「犬ヅラ」らしい。ここまでくると、犬って一体何なのだろうと思う。ペットというから愛玩物だろうが、着せ替え人形とは違うはず…。

 猫のひげや尻尾は、かなり重要なものだ。それらの自由を奪ったら、猫は非常に困るだろう。犬は耳をふさがれても平気なのだろうか?何もかもご主人様(というより下僕か?)がやってくれるからかまわないのだろうか?
 猫は、汚れたら自分でなめてきれいにする。犬はしないのだろうか?することを忘れてしまったのだろうか?猫可愛がりという言葉があるが、犬可愛がりに変えたほうがいいかもしれない。
2008年11月 1日 12:59 | コメント (0) | トラックバック (0)