雨の日、猫に出会う

 くるくる変わる天気に振り回される毎日だ。今朝もそう…。迷った末に洗濯物をベランダに出した。用があってそのまま外出した。念のために、カサを持った。駅まで行くうちに、空はどんどん晴れ上がり、抜けるような青空だ。手にした雨傘がうらめしい。これが、8時半ごろのことだった。
 2時間ほどで用を済ませ、駅に向かう頃にはどんより重い雲が立ち込め始めていた。始発駅で電車に乗って発車を待つ間に雨が降り出した。電車が進むにつれて、大雨になった。電車の窓に当たる雨粒が音を立てる。これが10時40分ごろ。
 土砂降りの中を歩くのは億劫だ。駅ビルで少しの買い物をして様子を見た。少し雨脚が弱まったところで、バスに乗って帰ることにした。家に着いたのが11時15分ごろ。そして、早めの昼食を済ませた頃には、また青空だ。これで、また夕方から夜にかけて大雨になるのだろう。

 くるくる変わることを喩えるのに「猫の目のように…」というが、そんな猫の目のように変わる天気の日に、くりくりした目の仔猫に出会った。駅へ行く途中の植え込みの中で、1匹の仔猫が遊んでいた。「狩ごっこ」でもしていたのか、しきりに出たりはいったりしているのだ。覗き込むと目が合った。好奇心がこぼれ落ちそうなくりくりおめめの仔猫だ。素通りするわけにはいかない。
 おいで!おいで!と手招きしてみた。指をひらひらふってみた。子猫が一歩前に出ると、私は手を少し差し出す。私が手を少し差し出すと、子猫は一歩下がる。子猫が一歩前に出ると…、私は…。子猫は飽きずに遊ぶ。私も飽きずに遊ぶ。

 わたしが大胆に手を出そうとすると、子猫は大胆に飛び出してきた。チャンス到来!とばかりに、喉をごろごろしてやろうとすると、一気にUターンして植え込みに。ところが、勢いあまって後ろ足が片方ずりっと滑った。やはりまだ仔猫である。まだまだである。そんな様子を、母猫はどこかで見ていたのだろうか。
 仔ノラちゃんとほんのいっとき遊んだだけなのに、なんだか驚くほど気持ちが満たされた。大荒れの天気の中であれだけ元気であれば、きっと逞しく育つだろう。じゃあね〜と、一度だけ後ろを振り返って、別れた。
2008年8月30日 14:10 | コメント (0) | トラックバック (0)

夢の中で冗談でしょ?と叫ぶ

 また夢を見だした。「冗談でしょ?」と、思わず叫んでしまうような夢ばかりだ。たとえばこんな夢。
電気を消して、さぁ寝ましょう…と思ったが、そこはいつもの自分の部屋ではなく、とてつもなくだだっ広い部屋だった。しかも四方に窓があり、照明もたくさんついている。ひとつひとつ明かりを消して、カーテンもしっかり閉めて、さて…と思うとまだ外から明かりがもれてくる。部屋の外の電気も消さなくちゃいけないのかと外へ出ると、そこにはなぜかタケシさんがいる。どうしてここでタケシさんが出てくるのか知らないが、へんなちゃんちゃんこのようなものを着て、これから原稿書きだと言う。こんなところで?冗談でしょ?というと、へへへ、冗談、冗談…と言ってどこかに消えた。安心して電気を消すと、今度はへんなハンチングを被ってまたやって来た。何なんだ!この夢は?

 さらにこんな夢。
私は、大きなホテルの何かのイベント会場を抜けて、目的の場所へ行こうとしていた。そのイベント会場は照明が薄暗く、人が多く、通り抜けるのも大変なら、目的の場所を見つけるのも大変だった。もうすでに遅刻気味だった私は焦っていた。案内の人が、何をお探しですか?と聞いてきたので、これこれじかじかと言うと、目的の場所は別棟にあるので案内してくれると言う。ついていくと、ここからタクシーに乗りますと言う。タクシーに乗る?冗談でしょ?というと、いえ、すぐそこですからと言う。すぐそこのはずが、20分も遅刻だった。ナンなんだ!コノ夢は?
 目覚めの悪い朝である。

 冗談でしょ?と聞き返したくなるような本の広告もある。たとえばこんな本。
「頭のいい朝の習慣術  たった15分の早起きが夢をかなえる 」(箱田忠昭・著 日本実業出版社)。著者は、年間300回以上のセミナーをこなすカリスマインストラクターだという。自己啓発セミナーはほとんど眉唾モノだと思っている私にすれば、こんな本は冗談だとしか思えない。
2008年8月28日 10:10 | コメント (0) | トラックバック (0)

今昔、変わるものと変わらないもの

 内田百間の「ノラや」は有名だが、そのノラとの出会いについて書いた随筆が「日本の名随筆3 猫」(阿部昭・編 作品社 1982年)に載っていて、それがなかなかおもしろい。そこには、行方不明になったノラを涙ながらに探し回る百間とは思えないほどに冷静な百間がいた。明確な意志があってのことではなく、成り行き上、次第次第に、何とはなしに、家に居つくことを許した…といった感じだ。

 そんなノラがあるときお腹を壊し、洗面所の足拭きに粗相をしたそうだ。来客があったとき、百間がその話をしたそうだ。すると、襖をがりがり引っかく音がしたしたそうだ。そして…、
客「ふんし箱にしませんか」
百間「もともと野良猫だからね」…と話していると、
<ノラ「僕がですか」>…と言った様な気がする。
 そう、百閧ヘ書いているのだ。ねこは、やはり人語を話すのだ。ねこには猫の自尊心があるから、やはり「ここは」というところでは話すのだ、たぶん、きっと…。

 今から20年以上も前に出版された本だけあって、どれもこれもきちんとした日本語で、文章らしい文章で書かれている。忘れていた言葉遣いや言い回しなどが次々と出てきて、乾いた喉が潤うように体に沁みていく。ちょっと楽しみなシリーズである。

 話は変わって…。
 朝刊の1面片隅には時々「政府広報」が載る。今朝は、「旧日本赤十字社救護看護婦、旧陸海軍従軍看護婦の皆様へ」の広報だった。「内閣総理大臣名の書状を贈呈しています。請求期限は平成21年3月31日です」という内容だ。
 今頃そんな書状をもらってどうするのだろう。しかも請求すればあげます…とは。他にすることがあるだろうに。そう思うのは、戦後生まれだからで、当事者の人たちはありがたく頂くために請求するのだろうか。総理大臣の署名と印があるとはいえ、ただの紙切れではないか。ただの紙切れ1枚で多くの人が戦かわされ(殺し殺され)たことを体験している人たちが、そんな紙切れを欲しがるのだろうか。
2008年8月27日 10:37 | コメント (0) | トラックバック (0)

夏の終わりに

 まだ余波は残っているにしても、騒がしかった北京オリンピックが終わり、夏休みの8月もまもなく終わる。図書館へ行く電車で、サッカーの試合にでも行くらしいふた組の親子と乗り合わせた。小さいほうの改札口は、そんな小学生と親たちでごった返していた。そこが集合場所になっていたらしく、あちらからこちらから集まってくる。そしてひとりひとり切符をもらっては、また改札を入っていくのだ。そこは跨線橋にある改札なので狭い。親が親なら子も子、引率者も引率者である。一般の人が通り抜けるのに一苦労しているのにも気がつかないらしい。お願いだから、誰かひとりでいいから、邪魔にならないよう端に寄りましょと言って!

 8月の終わりに合わせるかのように、やけに涼しい日が続く。湿度はかなり高いがそれでもひと頃の極暑に比べればかわいいものである。そして、NHKーFMの番組担当者も最後の人たちが夏休みに入るようで、特別番組が続く。夜9時10分からは、「懐かしの洋楽ヒット〜あの人この人あのころこのごろ〜」である。昨夜は、エルトン・ジョンとビリー・ジョエル。山本さゆりさんの案内も心地よく、すっかり聴き入ってしまった。「日曜喫茶室 夏の特別開店スペシャル」も始まったが、夕方4時から6時は落ち着いて聞けない時間帯だ。ほんの少しだが、FMがFMらしく戻った感じ。

 さて、図書館で借りてきたのは、次の4冊。
「トリエステの坂道」(須賀敦子・著 みすず書房 1995年)…本棚にあった単行本はこの2冊だけ。
「地図のない道」(須賀敦子・著 新潮社 1999年)…出版社は違うのに、2冊ともよく似た装丁だ。
「日本の名随筆3 猫」(阿部昭・編 作品社 1982年)…このシリーズは、花・鳥・猫…から悪・哀・命まで100巻もある。
「電子レンジで銀七宝」(長谷川淑子・著 美術出版社 2003年)…やってみたいの虫が騒いだ。
2008年8月26日 13:50 | コメント (0) | トラックバック (0)

須賀敦子さん

 須賀敦子という名は、図書館へ行くたびちらちらと目にしていた。しかし、読み始めたのはごく最近だ。「霧のむこうに住みたい」(河出書房新社 2003年)を読み終えて、さらに読みたいと思った。須賀敦子さんは1929年の生まれだという。その時代に大学を出、さらに留学をし、というような生き方をした人とは、どんな人だったのだろうと興味が湧く。何を思い、何を考え、何を望んでいたのだろうか。それが知りたい。
  
 「霧のむこうに住みたい」のなかにある「フィレンツェ―急がないで、歩く、街。」というエッセイに、こんな一文がある。
『美術館や展覧会に行くと、あ、これほしい、うちに持ってかえりたい、と思う作品をさがして、遊ぶことがある。見る焦点が定まっておもしろい。』…というのだ。
 私もこういう遊びをいつもするのだが、同じことをする人がいたのだ。須賀敦子さんが私より上をいっているのは、美術館や展覧会だけでなく、街中でもそれをするところだ。街中が美術館のようなフィレンツェには、「持って帰りたい」ものが山ほどあるという。私には経験がないが、街並みをそういう目で見るのもおもしろいかも…と思わせるエッセイだ。

 この次は、「コルシア書店の仲間たち」を読もうか、全集を第1巻から読むことにしようか…。
2008年8月25日 10:05 | コメント (0) | トラックバック (0)

続ける?やめる?続ける?やめる?…

 「先見日記」が9月末で終了するという。毎日気軽にさまざまな人の文章をちょこっと読むことのできる「先見日記」は、私のお気に入りだった。終了は残念だ。2002年10月から始まった「先見日記」に、私もまた導かれたのかもしれない。

 私がとほほのWWW入門を参考にHTMLを必死で学び、ホームページらしきものを始めたのは2000年だった。2006年からはブログの形に変えたが、延々と飽きもせず?今日まで来ている。途中何度ももうやめようか…やめないまでも形を変えようか…と思ったこともあったが、もう少し…もう少し…と思い直すことの繰り返しだ。 
 日々を生きることも、同じ。こんなもの…と思ったり、私なんて…と思ったり、もういいか…と思ったり、そんなことの繰り返し。それでも、せめて今日1日、とりあえず明日も、まあもう少し…と繰り返している。

 2000年には、「ホームページの公開」と題してこんなことを書いていた。
 『昨年の暮れ息子が受験期に入った時、私も何か勉強しようと思い立ちHTMLを覚えることにしました。それから約2ヶ月、どうにかひととおりできました。ひとつずつ確かめながらやってみると、さほど難しくはありません。なんだ? かんだ? どうだ? こうだ? から、こうした方が、いや、ああした方が、それからこうもしたいああもしたいとあれこれやっている時は結構おもしろかったです。そしてどうにかひとまず完成といっていいかなというところまでできました。
 しかし公開することには躊躇していたら、息子は「どうということはない」と言います。「ただサーバに置いてあると言うだけの事」だとこともなげに言います。「では、それは倉庫のほこりみたいなものか?」と聞くとそうだと言います。「なるほど」と納得しました。では倉庫のほこりになってみましょうかという気になりました。』

  その次は、「路傍の石か道端の花か」という題でこんなことを…。
 『もともと公開するつもりはなく、私の関心は作る事の方にありました。仕事でも趣味でもないところでパソコンとどんな関わり方ができるかに関心がありました。これからは誰もが立場や仕事やその他あらゆる事にかかわらず、パソコンと付き合っていくことになるのでしょう。その時、では私は? ということに関心がありました。
 「倉庫のほこりじゃさびしいと思ったら、Infoseekに登録すれば道端の石にはなるし、Yahooに登録すれば道端の花にはなれるかも」と更に息子は言います。つまりは自分が何者かということに尽きるようです。個人のホームページを作ることも公開することも、つまるところは「では、私は?」を知るというところに行き着くのかなと思いました。 (2000.2.14) 』

 今では、道端の花にすぎない私に目をとめて、何人かの人が定期的に読んでくださる。やっぱり、もう少し続けようか…。
2008年8月24日 10:30 | コメント (0) | トラックバック (0)

ダイコン

 080822.jpg
  どこから見てもダイコンの花にしか見えない花が、
  ベランダの雑草園に咲いている。
  葉の形もやはりどこから見てもダイコンの葉だ。
  すっかり忘れてしまったけれど、私のことだから、
  大根のへたを面白半分に、ぽいっと、
  プランターに放り込んだのかもしれない。

  大根を使ったレシピを検索した。
  「大根とさけの炊き込みご飯」がおいしそう。
  材料は、大根・米・塩さけ・油揚げ・・・
  だし・ しょうゆ・ みりんで炊くだけだ。
  鮭はグリルで焼いてほぐし、後から加える。
  黒ゴマと大根の葉でトッピング。
  なんだかおいしそう、今日の夕食はこれにしよっ。
2008年8月23日 9:57 | コメント (0) | トラックバック (0)

イヤなものはイヤ、ダメなものはダメ

 夜毎の嵐には、少々参っている。雷がちょっと怖いのだ。昨日は遂に停電した。停電なんてずいぶん久しぶりのことで、あたふたしてしまった。私はキッチンで洗い物をしていたのだが、窓のないキッチンは電気が消えると真っ暗だ。懐中電灯の在り処はわかっている。手探りで扉をあけ、このあたり…と思ったところにあった懐中電灯を取り出した。

 懐中電灯で照らしながら、家族のひとりひとりを「大丈夫ですかぁ?」と訪ね歩いた(そんなに広いマンションではないけれど、真っ暗だとね…)。みんな平気である。拍子抜けした。電気はすぐに回復した。落ち着いてまわりを見ると、外はまだ薄ら明るいのだった。道理で窓のある部屋にいた人は平気な顔をしているわけだ。

 停電して困るのは、いろんなものが勝手にシャットダウンすることだ。FAX付の電話機がブチブチいうし、私のパソコンは私に断りもなく勝手に電源を入れようとしているし、テレビも変になってるし、ほっておいてもいいものと、何とかしなくちゃいけないものといろいろあって、これまた右往左往してしまった。
‖‖‖

 縦のものを横にもしないということわざがあるが、縦のものを横にしちゃったのがゴマブックスの「横書きで名作を読む」ヨコガキ名作文学シリーズ。集英社に続けとばかりに、漱石や太宰を横書きにしてしまったらしい。ケータイ小説に慣れた読者向けということらしいが、もう、やめてくれぃ〜といいたくなる。「ヨコ書きで情緒が失われることはない。結局は慣れの問題」という人もいるそうだが、慣れの問題と片付けてしまってもいいものだろうか。

 「コンポジット氏四十年」(外山滋比古・著 展望社 2008年)に、そのタテとヨコについて書かれたエッセイがある。著者は、「タテのものをみだりにヨコにしてはいけない」という主義だ。著者の主張によると、「読むには、視線の進む方向を直角に交わる線が手がかりである」から、タテに読む日本語では漢字の横線が大事である…ということになるそうだ。つまり…月・日、烏・鳥、一・二・三、というように。それに対して横に読むアルファベットでは、縦線で区別をつけているという。たとえば…n・m、 v・w、T・U・V、というふうに。そして、話はさらに「思想というか考え方にもタテとヨコの問題がある」と進んでいくのだが…。

 取り扱い説明書のようなカタカナ語が多いものは横書きでも読むが、小説を、しかも漱石を、よりによって「こころ」を横書きで読むのはどうしても嫌だと思う。若い人が読むのだからいいじゃないか(おばちゃんは黙っとれ)といわれても、やはり「やめて…」と言いたい。小説としての情緒がどうのではなく、「日本語は縦に読む」という文化を残しておいて欲しいと思う。
‖‖‖

 社会は変化していくものということは十分に承知しているつもりだが、どうしても受け入れられない変化というものはある。ケータイ小説風横書き名作古典文学もそのひとつだが、これらの変化の根にあるものが問題なのだ。

 先の、「新聞をじっくり読んで、メールをチェックをして、朝食もきちんと摂って、遅刻などということがないように余裕を持って講義に出てもらいたい」ので、来年開設予定の新学部では1限時の開始時間を10時40分にするという千葉商科大や、「学生が隠れて酒を飲むのは危険だ」からと、飲酒年齢引き下げ運動を始めたアメリカの大学長ら、これらはどれも同じ問題を根に含んでいる、と私には思える。現状に合っていないから、憲法を改正しようというのもそう…。

 理想も展望も指向もなく、ただ現状のあるがままに迎合しているだけではないか…、私はそう思うのだけれど?
2008年8月22日 10:10 | コメント (0) | トラックバック (0)

観察

 夏は、あっという間に洗濯物が乾く。早めの昼食を済ませ、正午までには洗濯物を取り込む。今日も、そう…。ふと足元を見ると、セミがいた。いいチャンスとばかりに、ぐっと近づいて観察した。私の方からはセミの表情までは見えなかったが、セミから見れば巨大な目が近づくのが見えたのだろう。セミはずりずりずりずりと後ずさりを始めた。
 まぁそういわずに、お顔をみせてくださいな…と言うと、ずりずりずりずりしながらも徐々に方向回転し、こんなもんでどうでっしゃろ?とカメラの前でポーズをとってくれた。セミが?カメラの前で?ポーズ?と思うけれど、ほら(下の写真)…ね?

080821-1.jpg    080821-2.jpg

 ところで…、これは何というセミ? ミンミンゼミ…?
種類もわからないのでは観察したことにはならないか…。
2008年8月21日 12:52 | コメント (0) | トラックバック (0)

新語、新解釈

 「消費者がやかましい」という何を言いたいのかさっぱりわからない発言をした大臣をかばうために、自民党幹事長は、『「やかましい」は、「詳しい」「プロ(専門家)」の意味』であるという、どうしようもなくバカバカシイ発言をした。

 以下、揚げ足取り風に突っ込みを入れると、…このようになる。
関西以西の人は『やかましい』とみんな言う。…<みんなとは誰のこと?関西出身の私ですが、そんなあほなこと言いません>
『あの人はワインにやかましい』というのは普通の表現だろう」と解説。…<確かにそういう表現はありますが、良い意味では使いません。知ったかぶりをして薀蓄を傾ける人を揶揄って言うときに使いますね。誰もがほほぅ〜と思うようなプロ(専門家)に対しては、決して使いませんよ)>
さらに「『選挙にやかましい』と言ったら、うるさい、詳しい、プロ。…<やかましい=うるさいですが、うるさい=詳しい=プロ、ではありません>
そういったものをみんなやかましいと言う。…<あまりにも雑です。はっきり言えばこじつけですね。言葉はもっと正確に使ってください>
 一部では次期総理大臣といわれているらしい人がこんなあほぶりを披露していては、人間としての底の浅さが露見してしまう。
* * *

 シュウカツという言葉を初めて聞いたとき、シュークリームがカツになったかと驚いた。シュウカツすなわち就活は就職活動のことであると教えられたのは、つい最近のことと思っていたが、近頃はその次のコンカツすなわち婚活、結婚活動という言葉もできたと知り本当に驚いた。

 それしにても、結婚活動とはなんと奇妙奇天烈な言葉であることよ…である。女子校あるいは男子校でない限り常に異性がいるはずだが、そういう場での人間関係はどうなっているのだろう。結婚といえども、ひとつの人間関係にすぎない。人は常に人に出会い、それなりの関係を生じ、そしてその後別れることもある…そういうものではないのだろうか。「結婚しようか」というのも、「それなりの関係」のなかのひとつに過ぎないではないか。いまどきの人は、コンカツというマニュアル(お膳立て)に乗せてもらわなければ人間関係も結べないのだろうか。カケオチなどという言葉は、もはや死語か…?
* * *

再開がうれしい「あそびをせんとや」さんの、「万華鏡のシミュレーション(もみじの花のアラベスク)」はとてもおもしろい。実は…と明かせば、パソコン遊びを始めた頃、私はパソコンで万華鏡を作りたいなどと大それたことを思っていた(そんな大それたことは、私にはできなかったのだけれど)。

 もみじの花といえば、牧野記念庭園に行った時に、案内ボランティアのオジサンから「もみじの花も見ていって下さいよ」と声をかけられた。小さくて見落としがちだが、確かにもみじに花が咲いていた。案内したくてたまらないといった感じの、少々つきまとわれるのがうっとおしいオジサンだったが、珍しいものを教えてくれたことには感謝した。もみじといえば紅葉、などという凝り固まったアタマをほぐされた感じだった。
2008年8月20日 13:35 | コメント (0) | トラックバック (0)

いいもの、みつけた!

 「パソコンで録音すればラジオはもっと便利になる!」などという宣伝につられて購入したFM/AM PCラヂオは、思いのほか重宝している。聴きながら録音するというのはあまりないのだが、「ワールド・ミュージック・タイム」と「ジャズ・トゥナイト」を予約録音している。FM放送が高校野球やOlympicに占領された時やつまらないおしゃべり番組などの時に繰り返し聴くのだが、何度聴いても飽きることがないのが「ワールド・ミュージック・タイム」だ。

 その番組の案内役は北中正和さんという人。私は、この方の声と話し方がたまらなく気に入っている。聴いていて心地良いのだ。まるで音楽と一緒。そんなに好きなのに、今日の今日まで、今の今まで、北中正和さんのサイトがあることを知らなかった。早速読んでみよう…といっても、読むところがたくさんあってどこから読もうか?DISCLANDもいいなぁ…INTERVIEWもいいなぁ…ブログまであるのね…。楽しみがひとつ増えて、うれしい。
2008年8月18日 9:25 | コメント (0) | トラックバック (0)

ネコ事情

 「猫カフェ」が首都圏で急増中だという。時間制で「お茶」をしながら、ネコと一緒に遊んだりくつろいだりできるカフェのこと…と聞けば、ネコさん大好きな者としてはちょっと興味が湧く。飼いたくても飼えない事情はさまざまあるだろうし、そういう状況にある人が多いということもあるだろう。需要はまだまだあり今後さらに増えるだろう…、ということらしい。

 検索してみると、そう遠くないところにも猫カフェはあるようだ。しかし、行ってみようという気にはなれない。ネコさんの体調次第ということで決して虐待はしていないだろうが、ネコさんをスタッフという扱いにしているところがどうもね…。ネコで商売をしているのはペットショップも同じだが、どうもね…好きになれない。

 動物に接することが、健康か病んでいるかにかかわらず人間にとって、とても重要な意味を持つことであるのはよく知られていることだ。アニマルセラピーはボランティア活動として行われているが、猫カフェは商売だ。”癒し”を売る商売にはさまざまあるが、その道具が生きた猫というところが、どうもね…。ネコさんに申し訳ないような気がする。

 生涯を共にする覚悟ができて初めて猫の飼い主になれるのだとすると、猫カフェなどというところでネコさんといちゃいちゃするのは、世のオトコ共がキレイナオネエサンのいるお店でいちゃいちゃするのと同じじゃないか…という気がするのだ。どんなにネコが好きでも、そんなことをするのを自分に許すことはどうしてもできない。
2008年8月16日 12:50 | コメント (0) | トラックバック (0)

またぁ〜?

 また、夢を見た。この前と同じ、バッグを置き忘れる夢だ。どこかの大きなホールだった。ロッカールームのような所で、しかしロッカーはなく棚が並んでいて、人が多くて混雑していた。私はそこで何をしていたのかわからないが、ちょっとホールをのぞいてこよう…と思いついたとたん、バッグを棚に置いたまま行ってしまうのだ。ホール覗いたとたんバッグを置いてきたことに気づき、大急ぎで戻るのだが、そこは嘘のように静まり返り、当然私のバッグもなくなっていた。係りの人に必死に説明しようとするのだが、話がまるでかみ合わない。夢の中で、この間もこんな夢を見たばかりじゃないか…などと思っているうちに、そうかこれは夢なんだ…と目が覚めた。道に迷う夢から開放されたと思うと、今度はバッグを置き忘れる夢ばかり見るようになった。いやになってしまう。

 しかし、これはやはり私に対する警告に違いない。思っていること(次にしようとしていること)と実際にしていることには時間差があるはずなのに、近頃の私はソレを同時にやってしまう。こんな調子で料理をしていたら怪我をしそうだし、出かけるときにこんな調子だと、まだ体が外に出ていないのにドアを閉めてしまいそうだ。気をつけなきゃ…と思う。
2008年8月15日 9:26 | コメント (0) | トラックバック (0)

残暑!

 日が暮れるとほっとするほど、今日も暑い1日だった。朝の日差しにも、真昼の日差しにも背を向けて、ひたすら本を読んで過ごす。軽く読んで笑っちゃおう…と思って読み始めた「その言葉、異議あり!」だったが、軽いばかりではなく予想以上におもしろい。
 著者についての予備知識はなかったが、ふと「webちくま」を見ると、マイク・モラスキーさんの「ジャズ喫茶という異空間―'60-'70年代も若者文化を歩く」というシリーズが始まっていた。おや、まぁ、こんなところでお目にかかるとは…である。知らない間に、いろいろなところでさまざまに繋がっていく。これもその1例だ。
 
 この暑い中、新聞は連日Peking Olympicで暑い。朝日新聞さえ、スポーツ新聞かと見まごうほどである。おまけにNHK-FMラジオまで、なぜか高校野球の中継をしている。せめてFMくらいはクラシック音楽の番組を残しておいてほしいのに…。

 明日は敗戦の日。戦争を知らない世代がぐっと増えた日本だが、「体験のない戦争について考えるのはどこまでも理性であり、理性を発動させる意志である」と誰かがどこかで言っていたそうだが、この間の秋葉原の事件では、驚き恐れおののき現場に駆けつけ献花した人たちが数多くいたが、戦争を終わらせるためという名目があったにせよ、原爆を2度までも落とし多くの人を一瞬にして殺した戦争は、秋葉原の事件の何十倍、何千倍、何億倍もの出来事である。忘れないためだの、事件を風化させないためだのといって献花していた人たちが、少しでも理性を持ちその理性を発動させる意志があれば、体験のない戦争についても考えることができるだろうに…。
2008年8月14日 19:09 | コメント (0) | トラックバック (0)

本、5冊

 バス通りに出ると、道路沿いに駐車場つきのコンビニがある。ごく普通の7-11なのだが、「たばこ」と大書きしたのぼりが乱立していた。タバコの大安売りでもあるまいに、そんなにまでしてタバコを売りたいのだろうか。これまでは「タバコあります」の看板だけだったのが、のぼりが「タバコはコンビニで!」と連呼しているかのようだ。

 バスが信号待ちで止まったのは、時間極の駐車場の前だった。そこにあった看板には、「駐車場内での盗難その他については、一切責任を負いかねません」とあった。手書きの張り紙ではなく、ちゃんとした看板にそう書いてあったのだ。へぇ〜、ここの駐車場は何が起きても責任を取ってくれるのだ…なんて、そんなことはないだろうが、この文章はそういう意味になっている。

 『責任を負いかねる』=『責任を負うことががむずかしい(責任を負うことはできない)』のはずなのに、『責任を負いかねません』は『責任を負いかねます』の否定形だから、『責任を負います』という意味になってしまう。そんなことを書いてしまって、この駐車場の管理者はだいじょうぶなのだろうかと他人事ながら気になった。

 お弁当屋さんにも、「おろし天丼」と書いたのぼりが立っていた。お腹が空いていたわけではないが、「おろし天丼」ってどんなもの?と気になった。天ぷらの上に大根おろしがのって、その上に天つゆがかかっている?それならおいしいかもしれないが、おろし天丼っていう名称は、ちょっとこわい気がする。

 駅から図書館への道は上り坂だ。夏は少々つらいほどの勾配だ。ふぅ〜ひぃ〜と喘ぎながら歩いていると、とある住宅の塀の上に小さな看板が…。「図書館まであと300m、がんばれ!」と手書きで書いてあった。思わず頬が綻び、ウン、がんばる!と元気が出た。
 バスに乗って電車に乗って、たどり着いた図書館で借りたのは次の5冊。

「霧のむこうに住みたい」(須賀敦子・著 河出書房新社 2003年)…「本に読まれて」の次はこの本を。
「コンポジット氏四十年」(外山滋比古・著 展望社 2008年)…コンポジット氏は根本実当氏だというわけのわからない本。
「ちいさなおはなし」(新井素子・著 集英社 2007年)…星新一さん繋がりで読んでみようかと。
「反時代的、反教養的、反情緒的」(古山高麗雄・著 ベスト新書 2001年)…反何々という題名に惹かれて。
「その言葉、異議あり! 笑える日米文化批評集」(マイク・モラスキー著 中公新書ラクレ 2007年)…残暑の厳しい日には、軽く読んで笑っちゃおう。

 この図書館には、美術館のパンフレットを置いているコーナーがある。
そのなかで機会があれば行ってみたいのは、次の美術展。

「かたちのエッセンス 平松保城のジュエリー」(東京国立近代美術館工芸館 10/4〜12/7)
「百寿を超えて 奥村土牛・小倉遊亀・片岡球子」(山種美術館 9/13〜11/3 )
「エッシャー展 ハウステンボス美術館所蔵」(佐倉市立美術館 〜9/23)
2008年8月13日 13:42 | コメント (0) | トラックバック (0)

あほらしブーム

 「血液型自分の説明書」シリーズが人気らしいと頭の片隅で知ってはいたが、今朝の新聞広告によると、270万部も売れているらしい。血液型には4通りあるのは誰でも知ってるし、日本人の場合、A型:O型:B型:AB型は4:3;2:1の割合であることもまた誰でも知っている。しかし、「血液型自分の説明書」というから、この本を買う人は自分の血液型の本を買うのだと思っていたら、B型が110万部でA型は65万部、AB型は55万部、O型40万部となっているという。なぜB型がA型の倍近くも売れているのか、不思議でならない。
 
 自分のことではなく、相手のことを知りたくてこのような本を買うのだとしたら、B型の人はわかりにくい人間だと思われている…ということだろうか。
 根拠があるのかないのか知らないが、血液型や干支やつむじの巻き方でとやかく言われるのは嫌だ。そんなことどうでもいいでしょ?といいたいが、こんなことを言うところがB型人間だといわれるのだろうか。そう、私はB型だ。そのうえ寅年(念には念を入れて庚寅だったりして?)だ。おまけにつむじはふたつもあり、それぞれ右と左に巻いている。どうだ!?参ったかぁっ!と啖呵のひとつもきりたくなるというものだ。あほらし…
2008年8月12日 8:24 | コメント (0) | トラックバック (0)

ときには無題で

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 雑草園と名づけた
 我が家のベランダガーデンには、
 さまざまなものが育っている。

 たとえば、こんな葉っぱ。
 右手奥はオシロイバナで
 (根元には、どんぐりまでが芽を出している)
 左奥はラベンダーだが、
 手前のは何でしょう?

 きれいな葉だと思うのだが、
 素性が知れない。
 植物図鑑を見てもわからない。
 

080810-2.jpg
 窓辺に置いて
 ひたすら水をやり続けていたら、 
 こんなに伸びた。

 天井まで、
 あと30cmもない。

 伸びに伸びた
 ドラセナ サンデリアーナ。

 どうしたものか…
 思案中。
2008年8月10日 14:35 | コメント (0) | トラックバック (0)

消雨弾???

 今日はナガサキの日。しかし、新聞はどのページを開いてもPeking Olympicの記事ばかり。注目の開会式が済んだばかりだから仕方がないか…。開会式にも競技そのものにもメダルの数にも興味がない私には、読むところがない新聞だった。

 その中に、ひとつだけ気になった記事がある。中国には「消雨弾」というものがあるらしい。本当に、人工的に降らせたくないところには降らないようにできるのなら、日本もやってみたらどうなのだろう。集中豪雨の起きる地域はある程度決まっているようだし、いつも同じところで大きな被害が出ているのだから、そこに降る予定の雨雲を海上や水不足の地域で降らせてしまえばいいのでは?…と思うが、そう簡単な話ではないのだろうか。
2008年8月 9日 16:40 | コメント (0) | トラックバック (0)

悲しい話

 女子中学生が夜中に父親を刺殺した事件は、「人の顔色を見て生きるのに耐えられなかった」からというところに落ち着くのだろうか。それにしても、悲しい話である。
 ごく普通の、特に問題視もされていない、これといって問題を抱えているとも思われなかった中学生が、たかがテストの成績でそこまれ追い込まれるとは…悲しい話である。その家庭がテストの成績に特別厳しいというわけではなかったとしても、中学生にとっては、テストの成績はそれほどまでに人生にとっての重大事となってしまっているのだろう。なんとも、悲しい話である。
 「何もかも嫌になって、すべてを終わりにしたい」という強い思いは、私にも経験がある。しかし、私の場合は、「でも…、それですべてが解決するわけでないし…」という超現実的な理性が常に働いた。この中学生の場合は、そういった現実的な思考に戻ることなく行動に出てしまったのだろうか…、悲しい話である。

 文部省の調査では、中学生の34人に1人は不登校だという。過去最高の増加率だそうだ。不登校という言葉も、その前の登校拒否という言葉もまだ使われていなかった時代に、いま言うところの不登校だった私のその原因は、「いじめ」でも「友人関係」でも「親子関係」でも「学業の不振」でもなく、もっと本質的な自己の問題であった。
 調査や統計のために、無理やりそれらの原因に分類されているだけで、100人に不登校の生徒がいれば100の原因があるはず。そういう考え方をしないかぎり、なにも改善されない。
 先の女子中学生も、良い子悪い子、成績のいい子成績の悪い子、問題のない子問題のある子…といったさまざまな分類(言い換えれば型にはめること)をされる中で息がつまってしまったのではないだろうか。悲しい話である。
2008年8月 8日 8:35 | コメント (0) | トラックバック (0)

理解できないことばかり

 もうやめましょうよ…と言いたい。また、献花台である。下水道事故で亡くなった作業員を追悼するため、地元である雑司が谷二丁目町会が設置したという。 何を考えているのか?と思ったが、あの人たちは何も考えていないのだと気がついた。もう少しモノを考えましょうよと言いたい。

 この調子では、日本中献花台と慰霊碑だらけになる。病原性大腸菌O157による集団食中毒(1996年)の慰霊碑の文言をめぐって、慰霊碑に「謝罪の碑」とのみ記すよう求めていた被害者の遺族が、碑銘は「碑」とし、反省や謝罪、二度と繰り返さないという誓いなどを盛り込んだ文面を載せるという市側に腹を立て、相手に怪我までさせたという。食中毒被害の慰霊碑というのにも驚いたが、その文言でもめるとは…、いったいどうなっているのだろう。こんなことでもめるなんて悲しいね。なんとも、この世は理解できないことばかり、である。
2008年8月 7日 18:28 | コメント (0) | トラックバック (0)

きょうのこと

 今日は、ヒロシマ「原爆の日」だ。もうそろそろ、「核廃絶の日」と言い換えてもよさそうな気もする。今年の平和宣言で市長は、核兵器廃絶の声に耳を傾ける米国の新大統領の誕生に期待を寄せたという。良くも悪くもアメリカが変われば世界が変わる、皮肉にも。
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 昨日は、このあたりにも雷がとどろき雨が降った。やっと…である。しかし、またしても痛ましい事故が起きた。マンホールの工事をしていた人たちが流された。気の毒でならない。
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 社会的に一番忙しい年齢の人がブログやホームページを続けるのは、やはり容易ではないようだ。「おすすめサイト」にリストアップしてある私のお気に入りのサイトも、開店休業中のものが多くなった。さびしいなぁ〜と思っていたが、今日は「あそびをせんとや」さんが再開した。無理をいうわけにはいかないが、再開はやはりうれしい。「村のホームページ」さんの「村の住民」も楽しみにしているのだが、なかなかままならないようだ。
2008年8月 6日 9:36 | コメント (0) | トラックバック (0)

なんでもランキング

 なんでもランキングが好きなのか、「裁判員に選ばれる率の都道府県ランキング」なるものが朝日新聞に載っていた。裁判員裁判の対象になる事件の年間件数をもとに、1事件につき6人の裁判員と2人の補充裁判員が選ばれるとして試算したものだという。それによると、選ばれる確立が最も高いのが大阪で、千葉がそれに続くそうだ。

 こういう計算は簡単にできるだろうが、ナニを目的としてこういった試算をするのだろう。あなたの住む県は裁判員に選ばれる確立が高いですよと言われたからといって、どうすることもできないではないか。覚悟をしておきなさいということかとも思うが、3千人に1人となると、宝くじが当たる確立よりは高いということくらいはわかるが、だからってどうだっていうのよ?と聞きたい。その確立で選ばれた人たちが軒並み辞退したりしたら、確立はもっと高くなるわけだし…あまり意味のない試算だという気がする。

 裁判員なんて嫌だぁ!!という国民に、まもなくですよぅ!始まりますよぅ!あなたもサイバンインコになるんですよぅ!と、これからはことあるごとに言うのだろう。わざと反社会的なことを言ったり死刑廃止論者だといったりすれば、裁判員には選ばれないで済むのだろうか?代わりにブラックリストに名が記されたりする…?なににしても、嫌だなぁ〜。
2008年8月 5日 9:15 | コメント (0) | トラックバック (0)

なんだかねぇ〜

 日曜日、東京ビッグサイト、イベント…となれば、起こるべくして起きた事故といえなくもない。エスカレーターが突然停止し逆走したという。素人考えでも、それはあまりにも乗り過ぎだ…と思う。イベント開始前に1万人もの人がつめかけていたというし、お目当てのものをめがけて我先にエスカレーターに押し寄せたという。その状況を写した写真(現場にいた人が携帯で撮ったもの?)を見れば、200%の乗車率の電車内のようにもみえるほどだ。当然警備員はいただろうが、これだけの群集を制止するのは難しいかもと思われる。なにせ、お目当てのものに向かって突進している人たちばかりなのだから。

 閉所恐怖症気味の私は混雑するエスカレーターには怖くて乗ることができない。東京駅の地下ホームから這い上がる時は仕方がないので乗るけれど、あの狭い(そのくせ長い)エスカレーター上の空間に閉じ込められるとパニック寸前になってしまうのだ。階段が併設されていれば階段を使う。
 急ぐ人のために片側をあけて乗るのが常識のようになっているが、急いでますっ!とばかりに片側を駆け上がる人がいると、それが若い人や体の大きな人だったりすると、その振動はかなりものである。手すりにつかまっていなければ、ちと怖いと思う。こんな私が怖がりすぎるのではなくて、本当はソレくらいの乗り物なのだ。便利さに慣れて忘れちゃってるだけのことではないか。

 大の大人が、しかも総理大臣を目指そうという人が、漫画大好き、アニメ大好きといって憚らない国である。アニメキャラクターのフィギュアの展示会に、10代後半から50代までの幅広い年代の人たち(多くは男性?)がつめかけたのも不思議はないか…。なんだかね〜、なんと言ったらいいのか〜、なんともいえないね〜としか言いようがないが、漫画やアニメが好きでもかまわないが、なんだかね〜、こどもだね〜(偏見といえば偏見だけれど…)。
2008年8月 4日 11:00 | コメント (0) | トラックバック (0)

後悔先に立たず

 昨日はまた暑かった。夕食は簡単に、冷し中華と春巻、春雨の和え物にした。みっともなくて大きな声では言えないが、どうしたことか春巻を食べ過ぎた。いつもの量の倍を食べてしまった。腹八分目どころか、普段は七分目しか食べない私が十四分目も食べた。苦しくならないわけがない。胃の重苦しさと暑さでばてた。上を向いても横を向いても下を向いても後ろを向いても体をよじってもまっすぐにしても、苦しい。おいしかった春巻が恨めしくなった。ィヤァ〜ネ。
* * *


 きれいだなぁ、素敵だなぁ、作ってみたいなぁ…と借りてきた「はじめてのメタルエンボッシング 手軽に楽しめる簡単メタルクラフト」(日本ヴォーグ社)だが、そうそう手軽には楽しめないもののようだ。決して安くはない何種類もの道具や材料を手に入れるのはたやすくはないし、教室も関東地方ではまだまだ少ない。これから講師を養成して…という段階のものらしい。

 たまたま目に付いたので借りてきた「新編 百花譜百選」(木下杢太郎・画 前川誠郎・編 岩波文庫 2007年)は、みっけものだった。木下杢太郎という人は初めて知った。この時代の人がどのように生きたか…、その一端を垣間見た感じだ。命をいとおしみつつ、今の日本人の平均寿命の半分位しか生きられなかった時代の人々。生きることの重さは決して長さとは比例しないと思い知る。
2008年8月 3日 9:45 | コメント (0) | トラックバック (0)

セミ鳴くころ

 ちらほらとセミも鳴きトンボも飛び交い始めると、夏の終わりも近い。とある住宅の庭の、大きな夾竹桃が満開だった。この赤い花を見ると、ますます夏も終わりだという気になる。

 今回の改造内閣を、福田サンは「安心実現内閣」と命名したそうな…。何をもって安心というのか、そこが問題。

 今日から夏の甲子園。近頃の高校生は選手宣誓をやりたがらないそうな…。そりゃそうでしょうよ、走り方から止まり方まで、事細かに指導されればやってらんないよ(試合で勝つことの方がより重要)となるのも無理はない。

 週が明けて6日は広島原爆の日。170カ国が核廃絶を支持しているとはいっても、アメリカをはじめとする3カ国が反対していては核廃絶は実現しない。問題はアメリカの態度。

 今夜は花火大会。スターマイン・ワイドスターマインなど約8千発、エンディングは毎年恒例のゴールデンシャワー、人出は20万人の予想。夜空に咲く大きな花火もきれいだが、線香花火の可憐さも忘れ難い。
2008年8月 2日 10:31 | コメント (0) | トラックバック (0)

本を読めるシアワセ

 今日から8月。猛烈な暑さもやっと少しおとなしくなり、風が通ればエアコンなしでも過ごせるようになった。そのとたん、本の虫が騒ぎ始めた。久々に、猛暑の間はお休みしていた図書館へ。借りてきたのは次の5冊。

「新編 百花譜百選」(木下杢太郎・画 前川誠郎・編 岩波文庫 2007年)
「わが友 石頭計算機」(安野光雅・著/画 文春文庫 1987年)
「本に読まれて」(須賀敦子・著 中公文庫 1998年)…カバー(ウイリアム・モリスの「鳥」)がとてもいい。
「はじめてのメタルエンボッシング 手軽に楽しめる簡単メタルクラフト」(日本ヴォーグ社)
「カルトナージュ カルトンをベースにしたヨーロッパの伝統的手工芸」(香代子ビジャー 美術出版社)

 福田サンがやっと重い腰をあげ、内閣改造をするという。どんな顔ぶれになることやら…。我も我もという人たちをどう配置するかも大切かもしれないが、その人たちをどう動かして何をするかのほうがもっと大切…、福田サン、シッカリヤッテクダサイ。

 目白押しの食品値上げも問題だが、スーパーに一緒に買い物に来ては喧嘩ばかりしている夫婦も問題である。どうでもいいような、くだらない些細なことで言い争っている夫婦がいた。夫は商品をレジ袋につめながらぐじぐじぐじぐじと妻に文句を言い、妻はすべてを諦めきったように「はい、はい、はい…(念入りに3回である)」と言う。それでもそろってスーパーに買い物に行くしかない団塊世代の夫婦がごまんといる。そんな些細な言い争いを繰り返しているうちに、うるさい!えいやっ!と殺してしまう夫婦もいる。ここまでくれば、殺す前に殺してしまえの世界である。生き難いのは若い人ばかりではない。中高年、老年、高齢者と呼ばれる人々もそうだ。福田サン、シッカリヤッテクダサイ。
2008年8月 1日 13:11 | コメント (0) | トラックバック (0)