08年、前半終わる

 今日で2008年も半分が過ぎる。2008年の前半はどうだっただろう、少なくともこの数ヶ月は嫌な世の中になった…という思いが強い。気持ちを立て直さなければ、と思う。

 半年前を振り返ってみた。1月1日には、私はこんなことを書いていた。若いときは乱読を…という話だ。若くない今は、さまざまな読み方をする。たとえば、10年ごと20年ごとに繰り返して読むというのもある。
 日曜の朝日新聞読書欄の「たいせつな本」は、姜尚中さんの『こころ(夏目漱石)』だった。最初に読んだのは17歳で、次は20代の終わりで、さらに50歳を過ぎてからも読んでいるという。私もそろそろ4度目を読みたくなる頃だ。

 「人は獣に及ばず」(中野好夫・著 みすず書房 1982年発行)を読んでいると、これは「今のことか?」と錯覚するほどだ。社会は大きく変化した…というような言い方もするが、案外なにも変わっていないのかもしれない。10年前や20年前のことなど、結局は体よく忘れているだけなのかもしれない。
 たとえば、1977年に書かれた「英語教育寸感」と題したエッセイがある。「テレビで3歳児を対象にした英語教育をやっているのをみて、親たちの要望か、経営者の先取り的善意(善意に傍点あり)か知らないが、とにかく驚いた」、という話が出てくる。その時代に英語の幼児教育を受けた人たちも、今では30代になっている。さて、成果はどうだったのだろうか?成果についてはどこかで調査し公表されているのだろうか?少なくとも私の耳には入ってこないが。もう十分に結果が出ている時期なのに、その成果のほど(あるいは、全く成果はなかった?)を検証して尚、小学校から英語教育を…といっているのだろうか。

 「水に流す」という言葉があるが、私たちは本当に水に流すのが好きなようだ。まぁまぁまぁ、それは水に流すことにして…と言えば、何でもまた新たに始められるというものだ。
2008年6月30日 11:26 | コメント (0) | トラックバック (0)

PCラジオ

 PCラジオチューナーも、F型コネクタ変換ケーブルがなければ話にならないと嘆いていたのが26日だった。受信できなければただの役立たずで終わってしまうので、即刻「F型コネクタ変換ケーブル」を予約注文したのも26日だった。翌27日には、予約販売分完売となっていたので驚いた。その日のうちに商品発想済みのメールが届き、28日には手元に届いた。そのうち注文すればいいか…などと思っていたら、とんでもないことになるところだった。

 前もって準備してあったケーブルにF型コネクタ変換ケーブルをつなぐと、あっけなく受信できた。音質は、こだわる人には物足りないかもしれないが、まぁこんなものでしょうという程度には聴けるので問題はない。さっそく、いくつかの番組の録音を予約した。

 まず最初は、昨夜の「ジャズ・トゥナイト」だ。午後11時から翌日の午前1時までの番組だが、なぜが後半の1時間分しか録音できていない。なぜだぁ?日付が2日にわたっていたから?別々に予約しておかなければならなかった?…わからないじゃぁないか…。これくらいのことわかるでしょ…とでもいうように、マニュアルなどないに等しいのだ。
 iTunesに簡単に送れるというのはそのとおりだったが、iTunesで聴こうとすると音が出ない。なぜだぁ?1時間の番組をまるごと録音したのが悪かった?サイズが601MBにもなったのが悪かった?若い人の勧めにしたがってmp3ではなくwaveで録音したのが悪かった?(どうやら、これが悪かったようだ。若い人に録音したものを聴いてもらったところ、ノイズ除去の必要はなし、mp3でよしとの連絡が来た)
 今夜は「セッション2008」をmp3で予約してある。これがうまくいってiTunesで聴ければ問題なしだ。あの憂鬱な月曜日(きまクラ)の朝に「ジャズ・トゥナイト」が聴ける。めでたしめでたしとなるはずだ、うまくいけば…ね。

 そうそう、もうひとつ問題があった。録音が済んだらPCはスタンバイにしておいてねという設定にしてあるはずなのに、そうなっていなかったのはなぜだぁ?「らくチューンのランタイム エラー」の表示が出ていたけれど、あれは何だぁ?
 ラジオがパソコンで録音できたらもっと感激するかと思っていたが、それほど気分が踊らないのはなぜだぁ?頭の片隅では、これくらいのことできて当然ジャン…とでも思っているのかな…このワタシが?
2008年6月29日 9:47 | コメント (0) | トラックバック (0)

群馬県と福島県、どちらが北にある?

 国立教育政策研究所による「社会科の学力調査」の結果が出たらしい。「都道府県の名称から位置がわかるか」については、芳しくない結果が出たようだ。47の都道府県すべてで正解できた子供が12.7%いたそうだが、こういうのは電車の名前が全部言えるとか車の車種が全部いえるとか、何々線の駅名がすべて言えるとかいうのと同じで、特殊な能力があるのだろう。

 私にしても、「都道府県の名称から位置がわかるか」と問われても、いい年をしていてもわからない。生まれ育った関西周辺はほぼ正しく答えられるが、現在住んでいる関東地方になるとあやふやである。埼玉県の北にある県など全くわからない。東北地方は日本海側と太平洋側に分かれているからわかりやすいが、苦手なのは甲信越地方といわれるところだ。福島県だの栃木県だの、県名はわかるが位置関係はわからない。

 テストでは正解しなければいけない問題かもしれないが、わからなければ日本地図で調べれば済むことだ。宮城県は東北で宮崎県は九州だ…というくらいのことを覚えていればいいとしてもいいのでは?
 文科省では「子供が苦手な都道府県や国々がはっきりしたので、学校で指導する際にも重点的に教える工夫をしてほしい」といっているそうだが、わからないことがあれば調べるということ(調べる方法)を教えておけば将来困ることはない…と思うのだけれど。
 都道府県や世界の国々の名称と位置などを教える(覚える)ことに汲々とするから、社会科ひいては歴史が嫌いになるのでは?(あっ、これはワタシの経験から言ってるだけですが)
2008年6月28日 9:24 | コメント (0) | トラックバック (0)

電波状況

 「パソコンで録音すればラジオはもっと便利になる!」「iTunesへの自動転送(iPod同期)機能」などという宣伝につられて購入したFM/AM PCラヂオだが、我が家の電波状況はかなり悪い。AMは(聴かないのでかまわないのだが)何をしても全く受信できない。FMも、アンテナを壁のTVアンテナ端子に接続して聴いている。そんな状況だから、 FM/AMラジオチューナーを購入してもF型コネクタ変換ケーブルがなければ話にならないのだ。
 ところが、FM/AMラジオチューナーはやっと発売されたが、F型コネクタ変換ケーブルは予約を受け付けてはいるもののまだ発売はされていない。これではお預けである。
 
 「 放送エリア内であっても、地形や構造物などの周囲環境、本体を置く場所や向きによっては受信できない場合があります」と断り書きはしてあるが、どのような地形や構造物の環境であればきれいに受信できるのだろう。
 我が家は14階建てマンションだ。アンテナは屋上にあるわけだが、まわりには同じような高さのマンションが四方に建っている。このような状況で受信しようなどというのがそもそも無理なのだろうか。携帯電話の電波が届く範囲はずいぶん広がったようだが、ラジオさえ満足に聴けない電波状況って何なんだ?と思う。
2008年6月26日 9:09 | コメント (0) | トラックバック (0)

風刺

 MSN産経ニュースに、『朝日「死に神」報道、あすの会が抗議』という見出しの記事があった。「全国犯罪被害者の会」(あすの会)が、「犯罪被害者や遺族をも侮辱する内容」だとして、朝日新聞社に「抗議および質問」と題する文書を送付した…という内容だった。
 
 あの素粒子を読んだとき、私は「あぁ、素粒子さんは死刑反対の立場に立つ人だったのか…」と思っただけだった。法務大臣が怒りの抗議をし、犯罪被害者の会の人たちが「抗議および質問」の文書を出すほどの出来事になるとはつゆほども思わなかった。

 『朝日「死に神」報道』というが、大きな意味では新聞に載っていたのだから報道かもしれないが、素粒子は、狭い意味では報道などではなくコラムにすぎない。コラムのなかでも風刺(=他のことにかこつけるなどして、社会や人物のあり方を批判的・嘲笑的に言い表すこと)コラムだ。「死に神」は、そのなかでの表現にすぎない。

 私は、素粒子さんの肩を持ち応援するなどといった気は全くないが、これらの抗議は何か違うなぁ…という気がしてならない。朝日新聞社に対して「抗議および質問」と題する文書を送るより、各々が自分の考えや意見を述べればいいのにと思う。自分の考えが間違っていないと確信しているなら、誰が何を言おうと動じることもない。素粒子さんってそんな人だったのね…、それでいいじゃないか、と私は思うのだが。
2008年6月25日 19:24 | コメント (0) | トラックバック (0)

蔵出し図書館

 図書館へ、休館日明けに行って驚いた。こんな本が…?と驚いた。図書館も蔵出しをするのだろうか。それは、背表紙もすっかり色あせた本(全集?)だった。背表紙は色あせていても、それ以外はまったくきれいな本だ。中野好夫著「人は獣に及ばず」(みすず書房 1982年発行)である。

 中野好夫さんといえば、「そんな人知らないぞ〜」という人も多いかもしれないが、知っている人にとっては「ああ、あの中野好夫さん…」というあの人である。今回借りてきた本は、1970年代後半の社会時評を含めた73年からの8年間のエッセイを集めたものだそうだ。なんだか、すごい本見つけた…という気分である。
 35年も前に書かれた本だというと、20歳代の若い人にとってはひぇぇぇ〜というくらい昔のものかもしれないが、私からみればほんのちょいとちょいとちょいと昔でしかない。今読んでみると、私たちがいかに成長していないか、いかに歴史から何も学んでいないかがわかるかもしれない。そんな怖いような期待をこめて、じっくり読んでみるとしよう。

 その他に、新刊書の棚から2冊。
「大阪おもい」(坪内裕三・著)…軽く読む本
「さよなら僕の夏」(レイ・ブラッドベリ著)…こちらも軽く読めるかな?
2008年6月24日 14:57 | コメント (0) | トラックバック (0)

まいど、まいど

 月曜日の朝は、「さぁ、1週間の始まりだ」と気持ちよく始めたい。その願いがかなったかと思うような一瞬の晴れ間で出かかった元気も、「NHK-FMの気まクラ」にくじかれた。新聞に挟まって来るチラシも、月曜日は見るに耐えない。月曜の朝から、ダイエットや脱毛、養毛、パチンコ店のチラシは見たくもない。
 
 月曜の朝は、洗濯も部屋の掃除も冷蔵庫内の整理も一気に片付けて、気持ちよく1週間を始めたい。そんなささやかな願いくらい聞き入れられてもよさそうなものを…。

 それでも何とかやり終えると、FMラジオは「ワールドミュージックタイム」の時間だ。放送時間が火曜日の23時(この時間は寝てます)からになったため、月曜の再放送は聞き逃せない。今日は、「北海道洞爺湖サミット参加国の音楽」だ。おもしろいネ。この番組は、録音したいと思うほどお気に入りなのである。
 FM/AMラジオチューナー(LRT-FMAM100U)を予約してあるのだが、まだ発売されないようだ。ちょっと待ち遠しい。録音したものをiPodにも入れられるというので、それも楽しみ。FMアンテナは本体に内蔵してあるというが、念のため壁のTVアンテナ端子につなぐためのケーブルも用意してある。あとは…、
2008年6月23日 10:18 | コメント (0) | トラックバック (0)

□□御一行様歓迎

 駅の正面入り口の軒下に、毎年やってくるツバメが今年もやって来た。軒下には、ツバメ御一行様歓迎とばかりに巣作り台が設けてある。もう子ツバメは孵ったのだろうか、親ツバメは忙しげに飛び交っていた。
 我が家のベランダも、スズメ御一行様歓迎といった趣になってきた。野草っぽいものがぐんぐんと育っているのである。先日も、1羽のスズメが偵察に来ていた。ハトは大きすぎて歓迎できないが、スズメくらいなら大歓迎である。これでスズメさんを呼び寄せようと思っているのだが、来てくれるかな?
P6220006.JPG これは何でしょう? P6220008.JPG

 「オルビス学習科学図鑑 野外植物」というとても重い図鑑で調べているのだが、どうもよくわからない。葉の形や小さくて密集した花?などいろいろと特徴はあるが、それでもよくわからない(実は、私はこういったものの観察は苦手)。名前はわからなくても、スズメさんが来てくれればそれでいいのだけれど。
2008年6月22日 8:50 | コメント (0) | トラックバック (0)

論理的に

 言葉を正確に使いたい時は、とりあえず国語辞典で引いてみる。<罰>とは、「社会的規範を犯した者や倫理的・宗教的規範に背いた者に対して与えられる制裁。こらしめ。しおき」とある。<償い>とは、「つぐなうこと。また、そのための金銭・財物など」とある。罰は他者から与えられるものであり、償いは自発的な行為である。しかしながら、この根本的な違いさえ無視し、ごちゃ混ぜにしてモノを言う人のなんと多いことか。

 <刑罰>とは、「犯罪を行なった者に国家権力が科する制裁。刑」であると、辞書にはある。死刑であれ、無期懲役であれ、なんであれ、それは「犯罪を行なった者に国家権力が科する制裁」にすぎない。それによって、反省させたり謝罪させたり償いをさせたりできると思う(あるいは、期待する)のは、大きな思い違いである…、と私は思う。

 反省もせず、したがって謝罪もせず、当然償いもせず処刑されてしまう死刑囚がいるのは仕方がないことではないか。反省し、謝辞し、償いをするまで刑(この場合は死刑)の執行を先延ばしするということがあれば、おかしな話だ。
2008年6月21日 9:49 | コメント (0) | トラックバック (0)

今度はあちらで…

 負けてはならないとばかりに、今度は宮崎県のお騒がせ知事さんが、またまたとんでもないことを言い出した。「体罰は愛のムチ。昔はげんこつで教えられたが、最近はできなくなっている。愛のムチ条例はできないか。愛という範囲で条例化すべきだ」と言い出したらしい。愛などという心情的なものをどうやって条例化するというのか。「これが私の愛よ」「いやいやそんなのは愛じゃない、私の愛はこれだよ」「何いってるんだい、愛とはこれをいうんだよ」…なぁんていう”愛”である。条例にするためには”愛のムチ”を定義する必要があるが、何をもって”愛のムチ”というのか?

 ついでに”お騒がせ知事さん”の定義すると、石橋を叩きもせずに飛び越そうとする、頭で考える前にお口が動いてしまう、そういうタイプの知事さんをいう。
 すべての知事さんの仕事ぶりが報道されるならいいが、そういったお騒がせ知事さんの言動ばかりがマスコミにもてはやされ報道される。うんざりである。
2008年6月19日 8:39 | コメント (0) | トラックバック (0)

この傾向は何だろう?

 大阪府のお騒がせ知事さんが、またまた物騒なことを言い出した。「40代府職員の自衛隊体験入隊検討したい」と言い出したらしい。企業の新入社員研修としての体験入隊にも否定的な私には考えられないことだ。自発的に個人的に体験入隊したいという人については、私は何もいうことはないが、知事さんが部下である職員(公務員)に体験入隊をさせる(有無を言わせず?あるいは希望者だけ?)なんて…。
 
 それが、やがては公立の中学や高校の生徒にも…とならないという保障はどこにもない。冗談じゃぁない、と思う。それがさらに進んで、それならいっそのこと徴兵制を復活させれば…とならないと、誰が言い切れる?

 自らを律するとは、すなわち大人になることだ。それは訓練で得られるものではない、と私は思っている。日々人として、大人として、どう生きるかを自覚して過ごすことによって得られる、と思う。
 自衛隊員の訓練は、自己をなくしてひとつの目的のために命令ひとつで行動できるようにすることだ。それは、自らを律することとは程遠い。
2008年6月18日 8:44 | コメント (0) | トラックバック (0)

この人も…?

 大江健三郎といえば、私が好んで、あるいは熱心に読む作家ではないが、朝日新聞朝刊に「定義集」をシリーズで書いている。今朝は、【翻訳調の力は忘れられていいか】だった。「マワリクドサが持つ力」というのがテーマ。詳しくは、今朝の新聞で読んでもらえばいいのだが、この文章は「翻訳調として、日本語が苦しみつつ作った表現の力を、すべて放棄していいものでしょうか?」と結ばれている。 

 「マワリクドサが持つ力」…なるほどねぇ。
2008年6月17日 18:18 | コメント (0) | トラックバック (0)

キャラビス

 キャラメル入りビスケットのことかと思うようなこの言葉(キャラビス)は、キャラクタービジネスの略だという。しかし、キャラクタービジネスとは何ぞいな?である。

 来月から、東大で「キャラビス講座」を始めるのだそうだ。対象は大学院生や業界関係者らしいが、「売れるキャラの作り方」などを実践的に教えるのだそうだ。キャラビス界の人材育成が目的だという。大学で漫画の描き方まで教える時代だから驚くには当たらないのかもしれないが、あの東大でねぇ…という思いがする。

 というのも、私はキャラ化する日本(「キャラ化するニッポン」という本もあるらしいし、キャラ研というのもあるらしいし、キャラクター・データバンクなどというのもあるらしい)をニガニガシク思っているからだ。キャラ化をとめる方向とはまったく逆のことを目指すという。その気が知れないと私は思うが、すべてはお金らしい。
 国内のキャラビスの市場規模は2兆円だそうだ。キャラ先進国として世界市場に乗り出せばどれだけの規模になるか…という皮算用をすれば、東大が身を乗り出すのも当然…?ということか。
2008年6月16日 8:43 | コメント (0) | トラックバック (0)

読みやすい文学書とは

 『赤と黒』の古典新訳文庫の人気と、それを甚だしい誤訳であるとする論争について、軽く感想(というか、もともと思っていたこと)を書いただけだったが、検索でそれにたどり着いて見にくる(読んだかどうかは知らない)人が意外に多いのに驚いた。どこでどのようにどの程度話題になっているのか全く知らないのだが、かなりの論争(どういう意味で?)になっているのだろうか?
 
 今朝の朝日新聞文化面に、「ロシア文学 ブーム再来」という記事があった。その中見出しは「読みやすい新訳、背景に」となっている。現状は確かにそうだろう。しかし、”その読みやすい”が問題なのだ。そもそも”読みやすい”とは”どういうこと”なのか?

 ゴーゴリ著「鼻/外套/査察官」(光文社古典新訳文庫)について、斉藤孝さんは「ロシア文学の重鎮をまるで落語のように軽く訳す。すごすぎる」と評したそうだ(この”すごすぎる”が、プラスの評価なのかマイナスの評価なのか、判断しかねるが)。”落語のように軽く訳す”ことが”読みやすい”ということなら、そもそも文学って何?ロシア文学って何?というところが完全に消滅している。

 佐藤優さんは、現状のロシア文学ブームには懐疑的で、「ドストエフスキーは世界大混乱を予兆する強烈なニヒリズムの文学であり、ひそかに読まれるべき書」だといっている。また「そこに肯定的な価値を付与している日本の読書界は、受け止め方が転倒している」ともいっている。なかなか鋭い指摘である。
 
 日曜の朝刊の文化面に「ロシア文学 ブーム再来」という記事を企画する朝日新聞の感覚もまた、いかにも軽い。
2008年6月15日 9:25 | コメント (0) | トラックバック (0)

覚書ふうに

 変わり身の早い梅雨である。昨日は雨、今日は晴れ。湿度も下がり思いのほか快適である。気候は快適でも、気分はすぐれない。新聞を開いてもすぐに閉じたくなるような記事ばかり。そんなことに影響されていてはいけないとは思うが、…もういい、という気になる。

 お昼のニュースを聞いていると、千代田区は秋葉原の歩行者天国を一時中止するよう、東京都公安委員会に申し入れたと言っていた。地元住民の中止を求める声が多いからだという。それに押されて区も中止を求める要望書を出したそうだ。そして、当面のあいだ休止することにきまったという。
 「すべての世代が楽しく過ごせる憩いの場として設けられた」歩行者天国だったのに、あのような事件が起きて「楽しく過ごせる憩いの場」ではなくなったから中止しよう…という発想は、一見論理的なように見えるが、別の見方をすれば何の意味もないことともいえる。今ここで考えなければならないことは、たぶんもっと別なことなのではないだろうか。

 忘れずに読みたい本、「見得切り政治のあとに」(野田正彰・著 みすず書房)。本当は買ってでもすぐ読みたいが、ちぃぃぃぃっと高い。図書館で借りよう…。
 これは、4月から始まった「みすず書房ニュースレター」で紹介されていた本だ。メルマガっぽいものはあまり好まないのだが、これは便利だし的確に本が紹介されているので配信してもらっている。「菊坂だより」と「編集室より」というふたつのコラムも、毎回楽しみにしている。
2008年6月13日 12:20 | コメント (0) | トラックバック (0)

やりきれない世の中に…

 やりきれない…思いがする。秋葉原通り魔事件の容疑者の両親が頭を下げている写真を、どれだけの人が見たいと思っているのだろうか。少なくとも私は見たくない。両親に頭を下げさせてさらし者にして、何がどうなるというのだろうか。
 容疑者の言い分も聞きたくない。もちろん容疑者にも言い分をいう権利はあるだろうが、何がどうであれしてはならないことはしてはならないのだ。

 裁判員制度の開始にあわせて「終身刑」をつくるのがよいという意見や、そもそも死刑制度に反対(法による殺人であるとして?)だから終身刑をつくれという意見があるらしい。めったやたらと死刑にするのがいいとは思わないし、死刑が確定してもその執行日が未定(あるいは、直前まで知らされない?)というのは問題だと思うが、刑というのはさまざまな契約によって成り立っている社会によってなされる制裁なのだから、そのもっとも重いものはその社会からの抹殺(すなわち死刑)である。そして、社会からの抹殺という、それ以上重いものはない制裁をしなければ釣り合わない犯罪が、無差別殺人である(それ以外の殺人罪の場合は死刑である必要はないと思うが)。
 容疑者の両親が頭を下げても土下座をしても何がどうなるわけでもないのと同様に、犯罪者を死刑にしても何がどうなるわけでもない。何かをどうにかするために刑があるのではない。してはならないことをしでかしたことに対する制裁として刑がある…、と私は思う。
 
 もちろん、その制裁が犯罪の抑制に繋がるわけではない。たんなる制裁である。容疑者の言い分を聞き、その背景や心理を解き明かすことは、そういった犯罪を抑制することに役立てなければならない。現実には、どれだけできているか心もとないが。
2008年6月11日 9:21 | コメント (0) | トラックバック (0)

ホルトの木

 今日は朝から晴天。こんな日は、出かけなければもったいない。図書館へ、美術館へ、ショッピングへとはしごである。今回借りたのは、次の2冊。
「ホルトの木の下で」(堀文子・著 幻戯書房)…この書評を読んだときから読んでみたいと思っていた本、やっと私の手元に。
「家庭画報 特別編集 日本の旧家を旅する」(萬眞智子・文 世界文化社)…以前、人から薦められた本、これもやっと私の手元に。家庭画報はいつも美容室で読むのだが、この本はとにかく重い。
*

 毎日、大なり小なり、あるいは大から小まで、いろいろと失敗をするのは仕方がないが、今日私がしでかしたのはとても痛かった。引き出しに物をしまったついでに、左手の中指もいっしょにしまってしまった。思い切りよく閉めたので、指の肉がえぐれた。ひえぇぇぇぇぇっ…と無言で悲鳴をあげた。痛いじゃないか、痛いじゃないか…と絆創膏をはった。今日はあとひとつふたつ、何かしでかしそうな予感がする。くわばらくわばら…
2008年6月10日 14:11 | コメント (0) | トラックバック (0)

古典は古典として

 光文社古典新訳文庫の『赤と黒』(スタンダール著)について、日本スタンダール研究会の立命館大学教授の下川茂氏は、「前代未聞の欠陥翻訳で、日本におけるスタンダール受容史・研究史に載せることも憚られる駄本」であるといたくお怒りだという。そのお怒りはもっともなことではあるが、その新訳文庫本はそもそも本気で批評できる対象ではなかったのだ。

 偏見でいうのではないが、光文社である。光文社に文学書を求めるのがそもそも筋違いなのだ。原書は文学書であっても、光文社の出版物になった時点でそれはエンターテイメント本になったのである。その結果、「訳し忘れ、改行の無視、原文にない改行、簡単な名詞の誤りといった、不注意による単純なミスから、単語・成句の意味の誤解、時制の理解不足によるものまで誤訳の種類も多種多様」という代物になりはてたのだ。
 今はどうか知らないが、小学館の児童書は、漱石や鴎外の作品などを子供向けと称して作り変えてあった。それと同じである。「今の若者向け本(若者受けする本)」に作り変えてある(時代背景も文化も何もかも無視して)のだと思えば、批評するにも値しないことがわかるだろう。

 しかし、毎日新聞の「今週の本棚」で辻原登氏は、これでもかぁというほどに誉めそやしているのだ。それによれば、これまでの訳では『丶まあ、丶なんてこと!』であったり『 丶まあ、丶なんてことを』であったりした部分が、光文社古典新訳では『何よ、まったく』となっているそうだ。この書評氏は、それを最高に褒め上げている。

 人それぞれといってしまえばそれまでだが、「古典新訳文庫」という名称そのものがそもそも胡散臭い(文学書とは程遠い)…と私は思っている。源氏物語の現代語訳というのも盛んらしいが、たとえばいまどきの「ケータイ小説版源氏物語」なんていうのがあったとしたら、きっとみもふたもない恋愛小説になってしまうだろう。それも、人それぞれ好き好きだといってしまえば、それまで。
2008年6月 9日 9:03 | コメント (0) | トラックバック (0)

エルマー

 「エルマーの冒険」(ルース・スタイルス・ガネット作 /ルース・クリスマン・ガネット絵 )の原書が刊行されて今年で60年だという。日本での初版は、1963年に福音館書店から。「エルマーの冒険」は、幼い息子が、たぶん最初に自分で活字を読んだ本だったと思う。

 はじめは、夕暮れ時の子どもが退屈しぐずり始める時間に読んでやっていた。そのうち、「」の部分を子どもが、その他の部分を私が読むというふうにして楽しみながら読んだ。やがて、読んでもらうのが待ちきれなくなった息子は、自分でどんどん読む進むようになった。当然、「エルマーとりゅう」「エルマーと16ぴきのりゅう」も続けて、一気に。

 この本は本屋さんで見つけて、楽しそうな本だと気に入って買った。それに、簡単な漢字はきちんと使ってあり、読み仮名がふってあったところも気に入った。息子に文字の読み書きを教えた記憶はないが、自然と覚えたようだ。そんな思い出深い本である。目安として、「読んであげるなら 5・6才から、自分で読むなら小学低学年から 」と書いてあるが、それにはこだわらなくてもいい。読みたい時が読み時である。久しぶりに本棚から取り出して読んでみようかな…このトシで!?
2008年6月 8日 9:40 | コメント (0) | トラックバック (0)

犬猫の里親って?

 このブログの右下には、「いつでも里親募集中」のリンクをはってある。私自身は、ペット屋さんで犬猫を買う気が全くなく、ふとしたきっかけで出会ったネコさんと、それじゃぁいっしょに暮らそうか?と意気投合し生涯を共にするというのを理想としている。そんなわけで、里親募集中のリンクをはったのだが…。

 近頃、少し違うぞ…と思うことがある。10歳前後の犬猫の里親募集の件数が増えているように思う。事情はさまざまあるだろうが、安易に里親募集に頼ってはいないだろうか。飼い主が高齢である場合、犬猫を残してなくなることもあるだろうし、病気になって飼い続けられなくなることもあるだろう。それらも見越した飼い方(場合によっては安楽死も含めて)をすることが、飼い主の責任ではないのだろうか。

 捨て犬捨て猫の保護も、保護といえば聞こえがいいが、むやみに保護すればいいというものでもないように思う。代々野良の猫は、野良でやっていける環境にあれば保護する必要はないと、私は思う。保護する人たちがいるから捨てる人が後を立たない…、ということはないだろうか。飼い猫が子を5匹も産んだが、全部は飼えないので3匹は里子に…というような里親募集ならわかるのだが。
2008年6月 7日 12:49 | コメント (0) | トラックバック (0)

いらないものとほしいもの

 いらないもの<その1>
「天皇陛下御即位二十年奉祝委員会」及び「同国会議員連盟」と来年11月12日を臨時休日とする法律の制定の要請
 いらないもの<その2>
オリンピックの東京招致と「2016年夏季五輪の東京招致を目指す議員連盟」
 いらないもの<その3>
奈良県の「平城遷都1300年祭」のマスコット”せんとくん”と”まんとくん”

 ほしいもの<その1>
ラジオチューナー「LRT-FMAM100U
 ほしいもの<その2>
あなたの笑顔と私の笑顔…?
2008年6月 6日 9:49 | コメント (0) | トラックバック (0)

物騒

 私の住むマンションでは、このところ急激に監視カメラが増えた。エレベーター内はもちろんのこと、駐車場、出入り口…と、これでどうだっ!とばかりに設置されている。しかし、近頃身辺がやけに物騒なのである。どんなに監視カメラを設置しても、駐車場では盗難が起きるし、暗がりでは痴漢が出没するし、施錠していないでいると玄関から堂々と不審者が侵入するし、高層階のベランダにも侵入者の足跡が残っていたりするという。管理事務所からの、注意を喚起するお知らせがひっきりなしにくる。窃盗ならまだ目的がわかるが、何が目的がわからない侵入者は怖い。

 家族が出払ってひとりになると、気配を感じにくい部屋は締め切ることにした。部屋中の窓を開け放って空気の流れを良くするのは、掃除中だけである。私も出かけるときは、戸締りを3回は確認する。しかも、指差し確認である。ついでに「ここも閉めた、鍵もかけた、よし!」と口に出して言いつつである。
 こういう日常は、知らず知らずのうちにストレスになっている。常に緊張感と不安感がつきまとう。そこまで過敏にならなくても…と思うが、エレベーターで男性といっしょになると神経が逆立つ。

 350世帯ほどが住む、そんなに小さくはないマンションである。マンションをまるごと塀で囲って、ぐるりと監視カメラを取り付け、ついでに有刺鉄線でも張り巡らせて、獰猛犬でも放しておく?
 人として人間らしい生活を落着いて安全に安心して出来なくなった社会って、何なんだろう?と思う。
2008年6月 4日 9:18 | コメント (0) | トラックバック (0)

落とす

 火曜日というと台風がやって来る。4号が関東地方に接近したのも火曜日だった。そして今日は5号が…。大雨が心配だったが思ったほどには降らなかった。用があり外出したが、風が強くカサをさすのが大変だった。カサに気をとられ、セーターの襟元に付けていたピンバッジを落としたのにも気がつかなかった。気がついたのは、帰宅して着替えようとした時だ。川村記念美術館のミュージアムショップで買ったフランク・ステラのピンバッジ(同心正方形の方を落とした)だ。気に入っていたのに…。こ・の・わ・た・し・が・お・と・し・も・の・を・し・た…!
2008年6月 3日 18:40 | コメント (0) | トラックバック (0)

読む、書く、そしてまた読む

 杉本秀太郎・著「パリの電球」を、チビリチビリと読んでいる。一気に読むのはもったいない。チビリチビリとお酒をひとくちごと味わうがごとく、ひとことひとこと、1ページ1ページ、体に沁みこませようとチビリチビリと読む。

 「パリの電球」は、1980年代にいろいろなところで発表したエッセイを集めたものだ。『九月末から三月末まで、ちょうど六個月のあいだ、パリでホテル暮らしをした。』で始まる「ホテル暮らし」というエッセイ、『電球が切れた。』で始まる「パリの電球」、『都市のなかの坂道というものが、私には物珍しく、そして楽しいのだった。』で始まる「坂道」、『ある日の夕食の膳に鱈の子が出ていた。』で始まる「目で食べる」等々、エッセイだ、随筆だ、といったところで、読んでみると”ちょっと奥の深い”身辺雑記である。身辺雑記ではあるが、ただの人ではない文学者であり文芸評論家でもありエッセイストでもある著者の文章は、惚れ惚れするほど上手だなぁと思う。そのセンスのよさのかけらでも拾えたら…と、チビリチビリと読む。

 日本のブログは日記(どうでもいいような、個人的な身辺雑記)ばかりだというのは、あちらこちらで言われていることのようで、私も何度かどこかで読んだ記憶がある。私は海外のネット事情には詳しくないが、本来ブログとはもっと社会的な役割を担えるツールであるということもどこかで読んだことがある。
 ツールであるからには、こう使わなければならないと決めつけることもないように思う。さまざまな使い方があっていいし、新しい使い方を開発するのもいい。嫌なら使わなければいい。それだけだ。

 巷に溢れる日本的ブログを書いている人のことまでは知らないが、私がこれを書いているのは、前にも書いたとおり、日々文章を書くことは、朝起きたら身支度を整えるのと同じことだと知ったからだ。そして、惚れ惚れするほど上手だなぁと思う人の文章を読むこともまた同じ、よりきちんと身支度を整えたいから。
2008年6月 2日 10:06 | コメント (0) | トラックバック (0)

月初め

 6月1日、よく晴れた日曜日。改正道路交通法が今日から施行。改正点の内容はけっこう細かい。車の運転をしない私が気をつけなければならないのは、後部座席でもシートベルト着用が義務付けられたことだ。タクシーに乗ったときもシートベルト着用しなければならない。これはまぁいいとして、ちょっとねと思うのがもみじマークの表示義務だ。
 わかばマークは年齢に関係なく初心者(免許とりたての運転技術が未熟な人)が付けるが、もみじマークは75歳以上は有無を言わず付けよという法律だ。そして、それ以外の人には「もみじマークを表示した車への保護義務(幅寄せをしちゃいけないなど)が課せられる」という。もみじマーク専用車線を設けるというならわかるが、これでは道路は常に渋滞するのではないだろうか。
 車を運転するときまで、わたしゃ75歳以上の高齢者でござぁ〜いと名乗らなきゃいけないなんて、私は免許は持っていないから関係ないといえば関係ないが、嫌な感じ。ユダヤの星を連想する私は考えすぎだろうか。

 「聴覚障碍者は後方確認用の大型ミラーを車内装着すれば、聴力の有無は問わず免許取得可能」というのはいいとして、「自転車の歩道通行は13歳未満と70歳以上は標識にかかわらず可能」というのはちょっと問題ありかも。スピードを出して突っ走る人は、年齢に関係なくいるものだ。車道を、怖い思いをしながら注意深く走るほうが、自他ともに安全かもしれないではないか。70歳代の人が歩道を自転車で突っ走り、80歳代の人をはねて大怪我をさせたという事故が現実にあったではないか。判断力の十分でない子どももまた歩道を猛スピードで突っ走る。これもかなり危険である。車道の端に自転車専用車線を作るのがより安全だとおもうが、そういったものはいつまでたってもできない。

 懲りもせずまた買ってしまった…080601.jpgニューギニヤインパチェンス(写真左)と、右のは名前を忘れた…
2008年6月 1日 8:56 | コメント (0) | トラックバック (0)