これはヒドイ

 『「あ」とか「お」とか、小さな声を発して読み始めた方もおられよう』…で始まる今日の天声人語。私は、「なにぃ?これ…!」と発した。
 慣れ親しんできたがゆえに「それがいい」と思うだけかもしれないが、1面の下に『平たく寝そべっていた』天声人語が、ちょっぴり太めどころかぶっとになって情けない。ふくよかを通りこしてメタボ腹である。どんなにひどい内容でもあの形が体面を保っていたのに、こんなメタボ腹ではひどい内容は隠しようがない。何を思ってこんなふうに変えたのか知らないが、まったく良くない。

 新聞社のいうところの「読みやすく」とは、どういうこと?新聞は、背伸びして読んでもらうくらいがちょうどいいのに、「読みやすく」とはどういうこと?近頃の新聞は背伸びして読むものではなく、寝そべって暇つぶしに読むものに成り果てたのか…?
2008年3月31日 13:00 | コメント (0) | トラックバック (0)

いろいろなこと

 早いもので、3月ももう今日明日でおしまい。あっというまに4月である。新年度である。新聞は活字が大きくなりますと叫んでいる。FMラジオでは、アナウンサーが今日でこの番組を卒業しますと涙声で言う。NHK-FMの夕方6時からは、「サンセットパーク」という番組(東京だけかも)をやっている。先日の番組では、感極まったアナさんが突然嗚咽し話せなくなった挙句、今度は鼻をすすりつつ涙声で話し出した。テレビではなくてラジオである。何事か?と驚いた。番組を卒業という言い方も嫌だが、ラジオで泣かれるのはもっと嫌だ。

 さて…、新しいことが始まる4月になると「メタボ健診」も始まるらしい。嫌ぁネ…。毎日新聞の調査では、科学的根拠が十分と考える自治体は1割に満たないことがわかったという。メタボ健診を義務付けるなんて余計なお世話だ。「腹部を出すことへの抵抗感による受診拒否を避けるため」に、着衣のままの測定もOKだという。何が何でも「メタボ健診」を実施したい、というだけのことのようにしか思えない。私はメタボ健診自体を拒否したい。そういう人に対しては、どういった対応をとるのだろう。しつこく健診を受けなさいといってくるのだろうか?それでも拒否したら?縄をつけて引っ張っていかれるのだろうか?それとも…?あぁ嫌だ…!

 みんないっしょ、みんなでいっしょに、そういうのは私は苦手である。嫌いでもある。ところが世の中はそれを良しとする。そうすることがかえって自分を窮屈にするのに、人々はそれが安心であると勘違いしているようだ。
 先日、東京メトロ丸の内線に乗った。通勤通学の時間帯も過ぎて落ち着いた頃だ。声高の話し声にそちらを見ると、ベビーカーに幼児を乗せた若いママたち(4人とそれぞれの子)だ。幼児は寝ていたわけではないが、おとなしくベビーカーに乗っていた。ママたちはドア付近の通路の真ん中で円陣を組み、大きな声でおしゃべりに夢中だった。その場所にたむろすれば邪魔になることも、大きな話し声は迷惑になることもまったく気がつかないようだった。自分たちがいるところだけが自分たちの世界のようだった。

 宇宙の大きさと、地球の大きさと、世界の大きさと、社会の大きさと、そういったものに対比させて自己を考えるなどということは思いもよらないのだろうか…。そういうことをして見なければ自分を知ることも、人間を知ることもできないと思うのだが…。
 もしかしたら、もうあの人たちは人間ではないのかも…。キャノンのカメラのCM(EOS Kiss X2のCM)では、ライオンやブルドッグやペンギンが愛用のカメラ(もちろんキャノンのカメラ)を構えわが子の姿を追っている。あのようなCMを何の違和感も持たずに見ているとしたら、もはや同類なのだ。たぶん…
2008年3月30日 8:55 | コメント (0) | トラックバック (0)

今年の花見

 東京に桜の名所は数々あるが、今日訪れたのは練馬区にある牧野記念庭園だ。西武池袋線の大泉学園駅から、住宅街を歩いてすぐのところに牧野さんちはあった。入り口で迎えてくれたのはオオカンザクラだ。所狭しと植えられた木々は、どれも大きく大空に向かって伸びている。天を仰ぐと、仙台屋桜(センダイヤザクラ)が風に揺れていた。
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 足元に目を移せば、さまざまな野の草花が…。これは何?あっ、これは何々だ…と捜し歩くのも楽しい。そして、鞘堂には牧野富太郎の書斎がそのまま保存されている。
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 記念館にはさまざまな品が展示されていたが、?葉標本の美しさといったら例えようがない。牧野さんが使用した数々の印鑑も展示されていた。その中のひとつは牧野さん自身が作ったものだという。それは丸い印鑑で、渦巻きの中心が「の」の字になっているというものだ。巻き(マキ)+の(ノ)…というお遊びである。また、数百円也の借用証書もあった。生活費にも事欠く時期もあったらしい。それでも植物の研究をし続け、いまでは小学生でも知っている「植物図鑑の牧野さん」となった。そして後に残された庭は記念庭園となり、今日も人々が三々五々訪れる。
2008年3月28日 21:03 | コメント (0) | トラックバック (0)

生き難い社会に生まれて

 どんな人でも生きやすい社会の実現が、政治の第一の、最大の、究極の目的ではなかったかと思うのに、現実には誰もが生き難い社会となってしまっている。やりきれなくて…絶望感が漂う。
 小学校を卒業したばかりのたった12歳の少年に、「死んでお詫びします」と言わせ死に至らしめてしまう社会とは、いったい何なのだと思う。(卒業式での別れの言葉で大好きな学校と言うべきところを大嫌いな学校と言ったというが、「間違っえちゃたの?それとも、あるいは本音だったりして?」とかなんとか笑い飛ばせばいいものを、式の後に問い詰められたか叱られたかしたらしい。厳粛であるべき?卒業式で、一瞬シーンとしたからってそれが何だ?と、私は思う。笑い飛ばせばすむものを…。

 JR荒川沖駅構内などで通行人ら8人が死傷した事件の容疑者は、同居はしていても家族とは没交渉だったという。一方JR岡山駅でホームから男性が突き落とされ死亡した事件の容疑者は、仕事中の父親ともよく携帯電話で連絡を取り合っていたという。若者によるこういった犯罪が起きると、決まって家庭環境や家族関係が云々されるが、原因はたぶんそんな簡単なものではないのだろう。ある意味では、やはり誰もが生き難い社会になってしまっているということなのではないか。
 定職についていなかったとはいってもアルバイトはしていたらしい青年をなじる家族の意識は、たぶん時代にあっていなかったのだろうし、経済的な理由でいとも簡単に進学を諦めさせた家族には、奨学金などさまざまな手段があるということを知る状況になかったのだろうか。
 
 政治家は親子で過ごす時間を増やせとか何とかいうけれど、そういうことではないと思えてならない。若い人たちが、家族間だけの狭い世界ではなく、あんな大人もいればこんな大人もいるということを体験できる社会に身をおくことの方が、もっと重要だし有意義だと私には思えるのだが…。
 
 若い人たちだけではない。75才の男性が、「独り暮らしで寂しく、誰でもいいから傷つけて捕まりたかった」と刃物を持って交番に押し入ったという。老いも若きも、何故犯罪者になりたがる?なぜ刑務所に入りたがる?
2008年3月27日 8:42 | コメント (0) | トラックバック (0)

牛ちゃんのげっぷ

 人間にとっては、人前でゲップをすることはマナーに反するとされている。しかし、牛ちゃんのゲップはそうではない。そもそも牛とは(体の働きの構造上)そういうもの…と思っていた。ところが、現代では地球温暖化の原因として抑制すべきものとされているらしい。牛ちゃんも大変である。
 何が何でも地球温暖化は防止しなければならないと、出光興産と北海道大学大学院が共同研究して牛ちゃんのゲップを抑制する天然素材を発見したという。牛ちゃんも、のんびり草を食みつつゲップをする…なんてことはしてはいられなくなった。
 どんなにたくさん草を食んでもいつまでたってもゲップのひとつも出なくなったら、牛ちゃんはどんな気がするのだろう。おやっ?と思うのだろうか。私も地球温暖化防止に貢献していますと、胸を張るのだろうか。大変な時代になったものである。
2008年3月26日 8:55 | コメント (0) | トラックバック (0)

本を読む、文章を書く

 本を読む熱意を失ったらオシマイダという思いがあって、今日もがんばって図書館に出かけた。借りてきた本は次の3冊。

「ネコを撮る」(岩合光昭・著 朝日新書)…朝日新書は読まないと宣言していた私だが、岩合さんは別。
「中年記」(外山滋比古・著 みすず書房)
「へんな立体」(杉原厚吉・著 誠文堂新光社)…ひとつ作ってみようか。

 文章を書くことは自分を整えることであると、いつかどこかで読んだ。朝起きたら身支度を整えるように、日々人間として自分自身を整えることは大事なこと。しかし、それがなかなか難しい日々もある。そんなときは、どうすればいいのかなぁ…
2008年3月25日 18:39 | コメント (0) | トラックバック (0)

理不尽

 裁判員制度が始まるという宣伝はよく見聞きするが、なかなか身近なこととは捉えにくい。たとえば、今回の茨城県で起きた、通行人ら8人が男に次々と刃物で刺された事件などもその対象となるのだろうか。容疑者は別の殺人事件の容疑者だという。警察を挑発した上で、「誰でもよかった。人を殺してみたかった」と8人もの通行人を刺したという。
 このような事件でも、死刑制度に反対する人たちは死刑はやめろというのだろうか。「人を殺してみたかった」というだけの動機に対して、どんな議論ができるというのだろうか。
2008年3月24日 12:45 | コメント (0) | トラックバック (0)

国を憂い、世界を憂う

 中国には「国家安全危害罪」というものがあるらしい。それの最高刑は死刑だという。チベットのラサ市で起きた騒乱では、多数の人がその容疑で囚われの身となっているそうだ。「政治的公平さ」どころか「政治的自由さ」からしてない国もあるのだ。国家が、それは国家の安全に危害を加える行為であるとみなしたものはすべてその罪に問えるということだとすれば、なかなか恐ろしいものではある。人々はどんな思いで暮らしているのだろうか。
 
 新宿の映画館では、靖国神社を題材にしたドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」の上映を取りやめることになったという。そこに政治的な圧力があったのかなかったのかは定かではないが、あったかもしれない、あったのではないか、と思われても仕方のない状況がある。
 
 言うことをきかない若者たちに銃を向けて脅した警官を、擁護したり激励したり処罰の減刑を望む嘆願書を出す人たちが、数多くいるということを憂えるのは、日本に「国家安全危害罪」などというものが出来ては嫌だからだ。共謀罪を作りたいと思っている人たちが現にいるのだから、私たちはこころしておかねばならない。自由とは何か、公平とは何か…、よく考えねばならない時がきたようだ。
2008年3月21日 9:29 | コメント (0) | トラックバック (0)

こどもはじける春三月

 ご卒園・ご卒業からご入園・ご入学の季節がやって来た。街中にこどもがはじける。どの子の顔も晴れやかだ。あれも別れの惜しみ方の1種なのか、どの年代の子どもも群れている。横1列になって手に手にファーストフード持って食べながらじゃべりながら歩いている。普段ならを眉をひそめるような行動だが、まぁいいかと許してしまいそうな春三月だ。

 卒業旅行に行くのだろうか、旅行かばんを引く女の子たちのグループも多い。大学卒業なら海外旅行?高校卒業なら?中学卒業なら…?

 そういえば、もうかなり以前から小学生の卒業旅行というのもあった。もっともそれは日帰りの遠出にすぎないが。卒業旅行と称してディズニーランドに遊びに行った小学生たちがいた。「10時には帰る」と家族に言い残し出かけたそうだ。ところが、10時になっても10時過ぎても帰ってこなかったそうだ。当然親たちは心配して、友達の家々に電話をかけまくったそうだ。夜も更けて、子どもたちは意気揚々と帰ってきたという。「10時には帰る」とは、「10時にはディズニーランドを出る」という意味だったそうだ。14〜15年前の話である。今も昔も、こどもはじける春三月である。
2008年3月18日 18:50 | コメント (0) | トラックバック (0)

執念か、性分か、習性か

 ゴミ置き場を荒らす嫌われ者のカラス、その執念はすごい。車道の真ん中に、轢かれてペチャンコになったお菓子の箱があった。そばにはひとかけらのお菓子が…。それを見つけたカラス君、ヨチヨチと車道へ出て行った。そこへ車がどど〜っと走ってきた。さすがにカラス君も、おっと、危ない!と逆戻り。しばらくして、車列が途切れたと見るや一目散に車道の真ん中へ。急ぐなら飛べばいいものを、なぜかよっちらよっちら歩くカラス君。ついにありついたお菓子のかけらをくわえると一気に飛び立つかと思いきや、そこで食べようとする。今度はバスがやって来た。おいおいカラス君、危ないよ…といっても平気、平気とその場にとどまる。バスはカラスといえども轢くわけにはいかず、クラクションを短く鳴らす。カラス君、やっと飛び去った。

 嫌われ者のカラスでも、生きていくためにはそのくらいのことをしなければならないのか、それともちょっとしたスリルを味わう遊びか、あるいはただ単にイジキタナイだけか…どうなのかはよくわからないが、どの行動も可愛げがないという損な性分だ。桜の花をパクリと食べるメジロは可愛げがあるのに、カラスはねぇ…。カラスはカァカァ鳴くとは限らない。アハァアハァと鳴くヤツや、アホゥアホゥと鳴くヤツや、ハロゥハロゥと鳴くヤツまでいる。可愛くないねぇ。
2008年3月17日 13:52 | コメント (0) | トラックバック (0)

謎の言葉

 なんだかねぇ〜なんだかねぇ〜ということがあまりにも多すぎる。「政治的公平さ」とは、いったい何を指すのだろうか?どういう状態をいうのだろうか?もしそのようなものがあるとすれば、それは、どのような政治的立場・主張も同様に認められることではないかと思うのだが…。
 またしても自民党が、わけのわからないことを言っている。2月26日放送の「スーパーモーニング」(テレビ朝日の道路特定財源をめぐる問題を扱った番組)は「編集が政治的な公平さに欠ける」として、放送倫理・番組向上機構の放送倫理検証委員会に審査を申し立てたという。しかし、放送倫理検証委員会は審議・審理の対象にしないと決めたという。「放送倫理基準に照らし、明らかに問題があるレベルではない」というのがその理由だ。
 先日の中国人監督の映画についてもそうだが、自民党の言うところの「政治的公平さ」とは何なのだろうか。自民党=日本国(国家)ではないのにね?
2008年3月16日 8:29 | コメント (0) | トラックバック (0)

声のあげ時

 「東京都北区の滝野川署の警官が、路上で騒ぐ少年たちを拳銃で威嚇して騒ぐのをやめさせたらしい」ということに関して書いたのが3月6日。この警官のとった行為を擁護する手紙やメールがいくつも寄せられているうえ、処分の軽減を求める地元住民の嘆願書まで提出されているそうだがそれは間違っている、と私は書いた。

 その後の調べで、その警官は拳銃を向けただけでなく「殺すぞ」と脅していたことも判明したという。なにをかいわんやである。処分の軽減を求める嘆願書を出したり、電話やメールで擁護したり激励したりした人たちは、声のあげ方を間違っている。あまりにも情緒的でありすぎるがゆえに、ものごとの本質が見えていない。そして道を誤る。
2008年3月15日 8:56 | コメント (0) | トラックバック (0)

イチャモン

 いや〜ぁな空気が立ちこめてきた。全国会議員を対象に上映会が開かれた、ドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」の案内状に「協力 文化庁」とあったことに関して、文部科学相は「誤解を与えかねない表現だ」と文化庁を厳重注意したという。その上映会は、文化庁が配給・宣伝会社に働きかけたことで実現したのであれば、上映会開催に協力したのだから「協力 文化庁」とするのは当然ではないか。それを、「文化庁がこの映画を推薦しているという誤解を与えかねない」などというのは言いがかりも甚だしい。

 自分たちの気に入らない映画だからとあちこちつつきまわしてイチャモンをつけているといえば、”たいしたこと”でないようにも見えるが、これは本当に恐ろしく”たいしたこと”なのだ。おかしいことはそれはおかしいと声をあげなければ、やがて私たちは何もものが言えなくなる時が来るだろう。そうなってからでは遅いのよ…
2008年3月14日 18:55 | コメント (0) | トラックバック (0)

時代を逆行する日本

 靖国神社を題材にした中国人監督(日本在住だという)のドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」の国会議員向け試写会が開かれたというニュースには驚いたが、それに約80人もの議員らが出席したということにはもっと驚いた。

 最初は自民党議員を対象にした「検閲のような試写には応じられない」といっていたが、結局は全議員を対象にした試写会を開いたらしいが、これはあくまでも異例中の異例だという。見終えての感想は、当然ながらさまざまだったようだ。「偏ったメッセージがある」という議員もいれば、危惧したような「自虐的な歴史観に観客を無理やり引っ張り込むものではなかった」という議員もいるし、「靖国賛美6割、批判4割」と感じた議員もいたようだ(朝日コムの記事によると)。映画であるから人それぞれに違った受け取り方をして当然だし、それでいいと思うが、自民党議員の一部の人はそうは思わないらしい。

 この映画は、文化庁所管の独立行政法人「日本芸術文化振興会」が管理する芸術文化振興基金から2006年度に助成金750万円を受け制作された、故に「政治的に中立な映画」でなければならない…ということらしい。驚いた、心底驚いた。いつから日本は(また)そんなことをいう国になった(逆戻りした)のだろ。助成金を出すときの条件がどのようなものであったのかは知らないが、本気でまじめにそんなことを思っている自民党議員が多数いるとは…恐ろしい。人々がそれぞれに感じ取ったものを議論し合えばそれでいい。それが映画だし、それが芸術だ。
2008年3月13日 10:22 | コメント (0) | トラックバック (0)

○○も風邪をひく

 ○○は風邪をひかないなどという俗説があるくらいだから自慢にはならないが、私はめったなことでは風邪などひかないタチだった。そんな私が風邪をひいたようだ。外から持ち込んだ家族から、あっという間に感染した。家族のものが3日ぶりに九州から戻ったのは昨夜遅く、朝も顔を合わせてそれっきりだったのに、昼頃からなにやら様子がおかしい。鼻水がぐずぐずいいだした。これはもしかしたら…と思っていると、すぐに鼻をかまずにはいられないほどになった。私は風邪なんかひかないんだもん!と過信していたのがよくなかった。マスクをしろぉ〜、近づくなぁ〜と言えばよかった。

 鼻が変だなぁ…と思いながらも、春が来た春が来たここに来たぁ♪と押入れの片付けなどしていたのだ。この後は、セキが出て熱が出て…?  困ったことになったものだ。
2008年3月12日 14:35 | コメント (0) | トラックバック (0)

本を

 突然季節が飛んだかのような陽気に、幸い私は大丈夫だが、花粉マスクをした人の多いこと多いこと。あまりうれしくないが、春の風物詩になりそうだ。
 陽気に誘われて図書館へ出かけたが、あまりの陽気に上着が暑く早々に帰宅した。借りてきたのは次の3冊、図書館の作家研究の棚から。
「作家の食卓」(平凡社 コロナブックス)
「書斎曼荼羅 本と闘う人々1」(磯田和一 絵と文 東京創元社)
「怪人タネラムネラ 種村季弘の箱」(別冊幻想文学)
 …ボチボチ読むとしよう。
2008年3月11日 15:38 | コメント (0) | トラックバック (0)

負担の大小ではなく

 さもありなんと思われるのが、開業から3年間で役員17人が辞任していたという新銀行東京の実態だ。まともな意見を言った人ばかりが辞任に追い込まれたらしい。残ったのは、「都などが作った当初計画に沿った事業をしただけ」といって憚らないような輩ばかりということか…。

 もう存在意義がないのは明らかなのだから、店じまいするのか最善策なはず。廃屋を取り壊すのにも何百万円もお金がかかるように、ごみを焼却するのにもお金がかかるように、銀行の店じまいにお金がかかるのは当たり前。それをケチってどうなるというのだろう。失敗しました、すみません、申し訳ないが店じまいにこれだけのお金が要ります、税金を使わせて下さい…と、都民に頭を下げてみてはどうなの?…と思う。

 都知事は「発案者として責任を痛感している」と言っているらしいが(経営者の責任のほうが大だと言いたげ)、経営状態の報告を受ける立場だ。それを考えれば、どちらがより上の立場の責任者かは明らかだ。「400億円の追加出資は清算より負担が小さい」という主張だが、清算すればその後赤字は発生しないが、400億円の追加出資しても開業時に戻るだけで、その後はまた累積赤字が雪ダルマになることは目に見えている。なぜ、潔く失敗を認めないのだろうか…、愚かなことだ。

 それでも都民はあのお人に知事をしてもらいたいの? もっとも、私は都民ではないので関係ないといえば関係ないのだが、東京は日本の首都だ!すべては東京から!などといっているので、無視はできないだけのハナシ。
2008年3月10日 8:34 | コメント (0) | トラックバック (0)

最後の授業

 ありのままを話すことの大切さは誰もが知っている。しかし、実際にありのままを話せるかというと、それは簡単なことではなく、ましてや子どもに対してありのままを話せるかというともっと難しくなる。
 吹田市の市立竹見台中学校で、元校長の女性が卒業を控えた3年生に「最後の授業」をしたという。病気のため余命半年の元校長は、自分の人生を教材に生きることの貴さを説き、「人生はしんどいことがいっぱいだけど、しっかりと生きてほしい」と語りかけたそうだ。

 道徳を教科にしようとか、感動できる道徳の教科書を作ろうとか、わけのわからないことを推し進めようとする人たちもいるが、この元校長先生のように、「自分の人生を教材に生きることの貴さを説く」ことは可能だし、それができてこそ教育者だ。
 「自分たちに全部話してくれてうれしかった」と言った生徒や、「今はすぐ理解できないかも知れないけど、託されたんだなと感じた」と話す生徒がいたという。『私の命がなくなったとき、話を聞いてくれた人の中に火種が残ってくれたら、私は第二の人生を生きられる』という元校長先生の言葉が、子どもに対してでもありのままを話すことの大切さを私たちに気づかせる。

 私の親は、子どもだからというだけで、何かにつけありのままを話してはくれなかった。子どもだから何もできないのは確かだが、だから知らなくてもいいとか、知らなければ幸せだとかいうことはないのである。人生の、人間の命の、一番重要な部分のことのありのままを大人から聞かせてもらえない子どもは、どう生きていけばいいのかを学ぶことができないのだから不幸だ。
 では自分自身が親になって、子どもに対して何事もありのままを話しているか…というと、それはなかなか難しいことだとわかる。難しいが大切なことなのだ。
2008年3月 9日 9:40 | コメント (0) | トラックバック (0)

春、3月、週末、

 1.「都などが作った当初計画に沿った事業をしただけ」…新銀行東京の旧経営陣最高幹部の言い草
 2.「都民の方々は詳細を知らない」…新銀行東京への追加出資に都民の8割が反対していることについての都知事の言い草
 3.「窓口を極力絞っていくことは考えていかないといけない」…イージス艦衝突事故で防衛省幹部の説明が二転三転した問題に関しての防衛相の言い草

 1.いかに経営陣最高幹部といえども、そもそもの計画から外れた事業をするわけにはいかないだろうが、それにしても子どもじみた発言だ。言われたとおりにしたのだから自分には責任がないといいたいのだろうが、それではただの手足だ。最高幹部とは頭を指すのに。

 2.公表しないかぎり、都民が詳細を知らないのは当然だ。都民に対して失礼な言い方だ。

 3.窓口を絞れば確かに「対外発信がばらばら」という事態は避けられるかもしれないが、本当の問題点はそんなところにはない。情報の共有、共通の認識を持つためにはどうあればいいかということだ。しかし、そんなものは内部では誰も望んでいないということなのだろう。

 右を向いても左を見ても、こんな話ばかりで少々嫌になる。気分を変えて朝刊(3月8日付朝日新聞)の4コマまんが「ののちゃん」(いしいひさいち作)を見ると、これがまた訳がわからない。いつもとまったく異なるまんがである。ののちゃんもポチも出てこない。春三月のよく晴れた週末である。もう少しスカッとするものはないのかなぁ…、どこを探せばいいのだろう。
2008年3月 8日 8:57 | コメント (0) | トラックバック (0)

正義とは

 東京都北区の滝野川署の警官が、路上で騒ぐ少年たちを拳銃で威嚇して騒ぐのをやめさせたらしい。話しても言うことを聞かなかったから…ということらしいが、だからといって許されることではない。ところが、この警官のとった行為を擁護する手紙やメールがいくつも寄せられているうえ、処分の軽減を求める地元住民の嘆願書まで提出されているという。手のつけられない悪ガキどもに業を煮やしている大人たちが多いということがあるにしても、それにしてもやはり間違っている。
  
 拳銃で威嚇して言うことを聞かせた行為を支持するということは、自分もまたそうされてもかまわないと思っているということだが、その認識はあるのだろうか。犯罪を犯したわけではないのに、非常識な行為を改めなかったというだけで拳銃で威嚇される社会、そしてそれを許す社会は恐ろしい、と私は思う。
2008年3月 6日 8:55 | コメント (0) | トラックバック (0)

変な話

 何だかねぇ…としかいいようがないのが、福井県小浜市のオバマ候補応援だ。アメリカ大統領選は、遊びでもなければスポーツのゲームでもないしお祭りでもない。非常に政治的な事柄だ。しかも、アメリカの…だ。それに対して、音が似ているからというだけの理由で、赤の他人であり、しかも無関係であるはずの日本の1都市が特定の候補者を市を挙げて応援するとは、どういう考えをしているのだろう。この軽薄さがCNNで全米中継されるなんて恥ずかしい…と、私は思うのだけれど。
2008年3月 5日 18:40 | コメント (0) | トラックバック (0)

今日は3月4日です

 カルチャーセンタからの帰りは(疲れて)、大抵甘いものが食べたくなるのでパン屋に立ち寄る。そのパン屋はケーキも売っている。ちょっと甘いデニッシュなどをトレーにのせて、ケーキのショウケースのほうを見ると、雛祭りケーキが半額になって売られていた。半額というのも哀れだが、雛祭りの翌日の夕方になっても売れ残っているのはもっと侘しい。たぶん、叩き売りになっても売れないだろう。
 
 半額の雛祭りケーキに何故そんなにショックを受けたのか、自分でもよくわからない。売る側からすれば無駄にしたくないのだろうが、どういう人が買ってくれると期待しているのだろう。ケーキなら何でもいいという人?安くて量があればいいという人?雛祭りケーキを食べ損ねた人?雛祭りは今日だと勘違いしている人?…閉店までに売れるだろうか。その行方が気になる雛祭りケーキである。
2008年3月 4日 18:32 | コメント (0) | トラックバック (0)

耳痛

 耳が痛む…、こんなことは子どもの頃以来だ。右の耳だけだが、今朝からチクリチクリと痛む。子どもの頃は中耳炎と結膜炎はいつものことだったが、今の子どももそうなのだろうか…。

 中耳炎になれば耳鼻科に行くわけだが、子どもの頃によく行った耳鼻科の先生は、白衣のポケットにキャンディを忍ばせていた。次から次へと訪れる子どもを手際よく治療し、終わると手にそっとキャンディを1つ握らせるのだった。
 幼いわが子を連れて行った耳鼻科の先生は、それはそれは怖い人だった。怖い人といって語弊があれば厳しい人といってもいいのだが。診察券を持っていても、保険証を持ってこなかったといって取りに帰らされたことがある。耳が痛くて泣く子を抱いて、徒歩20分の往復である。診察室でも、指示通りに並んでいなければ叱責される。
 
 今も待合室には幼児がいっぱい…というのは変わらないが、いまどきの耳鼻科の先生はどうなのだろう。痛みが続くようなら、耳鼻科へ行かねばならないかも?憂鬱である。
2008年3月 3日 11:49 | コメント (0) | トラックバック (0)

ヒューマニティ

 なんでもかんでもすぐに外国と比較して云々するのは好きではないが、外国では当たり前のことが日本では当たり前にならないのは何故だろうと思うことがある。朝日新聞社のPR誌「1冊の本」に、「ロンドンから」(筆者は森嶋瑶子さん)というコラムがある。3月号は『「ヒューマニティ」早期教育』というタイトル。

 イギリスのティーンエイジャーは、学校でなく日常生活の中でボランティア活動を体験できるという。そうして、ヒューマニティ育成が可能になるという。そして、筆者は、「自分たちのできることを、できる場所で、できる時間に―できれば楽しみながら―することが、社会に対しての何らかの貢献につながっているという気持ちを子ども時代に経験するのは、その第一歩ではないだろうか」という。

 翻って日本では…?、いまさら言うまでもないだろう。ボランティアやヒューマニティの意味の捉え方以前のところに、違いというか問題があるのかも知れないという気がする。そもそも日本の学校教育には、ヒューマニティ育成などという概念はないのではないだろうか。
2008年3月 2日 10:15 | コメント (0) | トラックバック (0)