最後に残るのは?

 嘘の上塗りという言葉があるとおり、嘘のためには嘘をつき続けなければならない。そのいい例が、今回のイージス艦の事件だ。出るわ出るわと、嘘が出てくる。嘘と嘘は当然辻褄が合わない。それもとうとう行き着くところまでいったのか、ようやく事実らしきことがぽつぽつと出始めた。しかしそれはそれで、あきれるような内容ばかりだ。そのひとつは、時事通信の「あたご乗員、飲酒か」いう記事だ。いったい何を考えているのだろうか。
2008年2月29日 8:35 | コメント (0) | トラックバック (0)

歴史を学ぶって?

 今の若い人が歴史、特に日本史を勉強していないことの問題点はしばしば指摘されるが、歴史を勉強していないということに関しては私も同じである。学ぶ機会はあったが、その授業の仕方のあまりのつまらなさに嫌気がさしまじめに勉強しなかった。
 必修にすればそれでよしとはいかないと思うが、神奈川県では、「国際化が進む中、自国の歴史や文化を深く理解する学習が必要」であるとの考えから、高校の日本史を必修にすることにしたという。

 歴史の学習を、世界と日本に分けることの意味はどこにあるのだろうか。世界と自国、また各国は密接にかかわりを持っているのだから、歴史の科目はひとつになっているほうがいいのではないか。年代を追って知識として学ぶのではなく、テーマごとに視点を変えながら学ぶという方法もあるのではないか。日本史を必修にするかどうかよりも、歴史をどういう方法で学んでいくかの方がより重要だと思うのだが、どうなのだろう。
2008年2月28日 15:58 | コメント (0) | トラックバック (0)

読み返す1冊

 しばらく前のことになるが、電車で向かいの席に座ったいわゆる団塊の世代らしき男性が、バッグから取り出して読み始めたのは「武器よさらば」(いわずと知れたアーネスト・ヘミングウェイの作品)の文庫本だった。現代の流れそのもののような光景だった。

 先日NHK-BS2で、アカデミー受賞作品特集の「西部戦線異状なし 完全版」(原作はエリッヒ・マリア・レマルク)を観た。今も私の手元にある文庫本は昭和43年発行(定価170円)の25刷だ。すっかり黄ばんでいる。読み返してみたくなり本棚から取り出したが、昔の文庫本の活字はとても小さい。読めるだろうか…。

 その本だが、私にしては珍しくあちこちに傍線が引いてある。それは、映画の完全版で復活した”反戦的”といわれる部分だ。『憲兵のよ、警察のよ、税金のよ、それが貴様たちの言う国家だ』、『国家というものと故郷というものは、こりゃ同じもんじゃねぇ』、『戦争で得をする奴らがいるに違えねえな』、『戦争の裏にゃあ、確かに戦争で得をしようと思っている奴が隠れてるんだ』、『戦争なんてものは一種の熱病だと思うよ』、『誰も戦争をしたいって奴はねえ。それに急にぽっかり戦争になっちまうじゃねえか。おれたちは戦争なんて、ちっともやりてえと思っちゃいなかったんだ。ほかの奴らだってみんな同じことを言っている……それがどうだ、こうして世界の半分が、夢中になってかかっているじゃねえか』といった会話に傍線が引かれ、また、野戦病院の描写の部分では『今の世の中にこれほどのことがありうるものとすれば、一切の紙に書かれたこと、考えられたことは、すべて無意味だ。この世の中にこれだけの血がほとばしり、幾十万の人間のために苦悩の牢獄が存在することを、過去千年の文化といえども遂にこれを防ぐことができなかったとすれば、この世のすべては嘘であり、無価値であると言わなければならない、野戦病院の示すものこそ、まさに戦争そのものにほかならない』、そしてさらに『僕らはまず兵隊だ。それから後に、恥ずかしながら、辛うじて、ようやく一個の人間なのである』に傍線が引いてあった。

 今、私たちは、少なくとも私は、当然のことのように「私たちはなによりも前に一個の人間である」と言う。しかし、この本の中の”僕たち”は、まずは兵隊で、その後にやっと一個の人間だと言う。しかも、”恥ずかしながら”、”辛うじて”、”ようやく”である。戦争が、”僕たち”にそう言わしめる。戦争とは……。私たちは、何度同じことを繰り返したら学ぶことができるのだろうか。
 
 「西部戦線異状なし」の舞台は、第一次世界大戦が始まったころのドイツである。しかし、テーマは戦争とは…であり、描かれていることは昔のことではない。真理は普遍であり、それを描いているものが文学だ。かつて読んだ人たちが読み返すだけでなく、現代の若い人たちにも薦めたい1冊である。
2008年2月27日 9:53 | コメント (0) | トラックバック (0)

数々の失敗にめげる

 用があって出かけた先の、駅近くの大型スーパーで買い物をした。商品を選びレジに行き商品を差し出すと、「お買い上げですか?」と聞かれた。買い物に来たのだからお買い上げに決まってるじゃないか…と思ったが素直に「はい」と答えると、「レジは向こうですので、ご案内します」と言う。私は、サービスカウンターをレジと間違えていたのだ。なんということだ。
 案内されたレジから振り返って見ると、ちゃんとサービスカウンターの看板があがっているではないか。仰向いて歩いているわけではないし、そんな天井に近いところのあるものは近くでは見えない。大きな駅でもそうだ。たいていの案内板は高いところにある。高いところにある案内板を見上げながら歩いていると、後ろから前から横から突き飛ばされる心配があるし、足元が不安な私は下を向きがちだ。
 こんな失敗をしたり困ったりしているのは、私だけなのだろうか…。支払いを済ませた後、レジの人は何故か「ありがとうございます。お気をつけて」と言った。私ってそんなに危なっかしい人に見えたのだろうか…。なんだか、めげそうだ。
2008年2月26日 18:42 | コメント (0) | トラックバック (0)

おつき合いを始める

 私のビスタ君、その後はご機嫌を損ねることもなく働いてくれている。そのビスタ君はなかなかぜいたくらしくて、古いディスプレイでは「僕に似合わない」と言う。私のディスプレイはLCM-T157A/Sで、2004年10月で生産終了だ。私のビスタ君に言わせれば、「おいおい、今は2008年だぜ」ということらしい。「せめてこれくらいのものは使ってもらいたいね」と言う。「そうそう散財するわけにはまいりませぬ」というと、「考えておいてくれたまえ」とどこまでも強気だ。

 そんなビスタ君だが、寝付きも目覚めもとてもよろしいようで…。電源ポチッであっという間もなく眠りにおちるし、よく寝ていると思っても電源ポチッで即座に目覚める。
 「Windows Vistaでは、シャットダウンよりもスリープを使ってほしい」と、マイクロソフトはいっているそうだ。ビスタ君のスリープは、これまでのスタンバイと休止状態を組み合わせたモードなのだそうだ。自信満々で気位も高いと思っていたら、それなりにお利口だったのだ。
2008年2月25日 10:05 | コメント (0) | トラックバック (0)

荒れる

 風のうなる音とともに、にわかに煙霧が立ち込めた。舞い上がる砂、砂、砂、砂、塵、塵、塵、そしてビニール袋…、野良猫さんも舞い上がるかと思うほどの強風だった。
 私のパソコンのWindows 2000からWindows Vistaへの移行も、荒れに荒れた。ちょいちょいちょいのちょいで済むかと思っていたのに、まる2日もかかってしまった。

P2230046.JPG 何が気に入らないのか、固まってばかりである。我がパソコンのセンセイは頭を抱え「何故だ?」を連発し、私は「だからVistaは嫌なのよ」を繰り返すこと数時間、しまいには声を発する気力もなくなった。あれもこれも買って新しくしたのに、使えないなんてどうしてくれよう…と思い始めたころ、固まることもなくどうにかこうにか作動し始めた。我がパソコンのセンセイは、少々無責任気味に「これでもうお引渡しできるかも…」などという。そして明けて今、一応問題なく動いている。

 そんなこんなであまりぱっとしない日々だったが、そんな中でうれしかったのはデンマークカクタス(品種:ホワイトベル)が咲いたこと。開いたのは一つだけだが、蕾はまだまだたくさんついている。
2008年2月24日 10:00 | コメント (0) | トラックバック (0)

ビスタになる

 最後の抵抗もむなしく、ついに私のパソコンもビスタとなる。注文した品が今朝届いた。あとは中身を入れ替えて、その後の厄介な一連のことをちょいちょいちょいとやってもらって、夜には新しいパソコンに変身する予定だ。
 問題は、ノートパソコンのXPも最初は嫌だった私が、すんなりビスタを使いこなせるようになるかどうかだ。Windows窓職人は「Windows Vistaの使いこなしを学ぶ人のためのサイトです」というけど、私でもわかるかしら…ね?
2008年2月22日 10:19 | コメント (0) | トラックバック (0)

日常の中の”戦時”区域

 海上自衛隊のイージス艦が漁船を真っ二つにした事件(事故とはいわずあえて事件という)で、防衛相への連絡が大幅に遅れたことに関して、政府の危機管理体制強化のため、「事件・事故の場合も防衛相や首相官邸に即座に情報が伝達されるよう規則を定める」ことにしたという。

 これまでは、ミサイル発射の兆候時など”国”の安全を脅かす事態が起きそうな場合だけしか考えていなかったということだ。漁船の一つや二つがぶっ壊れようが問題ではない、より重要なことがある…ということなのだろう。ひどい話である。誰もがひどい話だと憤慨するが、所詮”防衛”などというものはそういうものなのだろう。たぶん、どちらがより重要か、という問題なのだろう。

 それを承知で、私たちは自衛隊の存在を認めているのか?ということだ。かつて自衛隊が派遣された地域はすなわち非戦闘区域だという呆れた論理があったが、自衛隊のイージス艦が航行している区域はすなわち”戦時”区域なのだと、私たちは思い知らなければならないようだ。
2008年2月21日 9:11 | コメント (0) | トラックバック (0)

春よ来い

 春も近いと気付くのは…
雨水も過ぎて霜もとけたとき
今日のように突然暖かくなったとき
桜の開花予報が出始めたとき
粗大ゴミに学習机が出ているのを見たとき
タラの芽や菜の花が店先に並んだとき
わけもなく気持ちが浮き立つとき
2008年2月20日 9:12 | コメント (0) | トラックバック (0)

対談と鼎談と座談の違いは

 ”あらたにす”の「あらたにす便り」をそっとのぞいてみると…
サイトオープンから1週間で多くの問い合わせがあったそうだ。その主なものというのが載っているのだが、こういう問い合わせが多いということらしい。その中のひとつが、『「鼎談」のような難しい言葉を使うのは避けるべきでは』というものだ。それに対する回答は、『ふりがなをふりました』だった。

 何度も言うようだけれど、難しい言葉にも、出会わなければ知ることもできないし覚えることもできないのだ。人は言葉で思考するのだとすれば、言葉は豊富であるにこしたことはない。読めねぇじゃん…と思ったら、そっと辞書を引けばいい。辞書が手元になければgooにもinforseekにも辞書があるのだから、ちょいちょいとコピー&ペーストして調べればいい。それだけのことだ。
2008年2月18日 13:56 | コメント (0) | トラックバック (0)

開花待ち

hana27.gif
 雨の日に傘をさして”デンマークカクタス”買いに行ったのは2004年10月5日だった。
その年の冬にはそれをすっかりダメにしてしまった。
しかし、1年後には見事に復活させた。
それから丸2年が経ち蕾がついた。
それもひとつふたつではなく、たくさんついた。
蕾は日に日に成長し、開花もまもなくだ。毎日、気にしていないふりをして見せながら、まだかまだかと待っている。
花が咲いたら、久しぶりにデジカメを取り出して写真をとろう。
2008年2月17日 9:45 | コメント (0) | トラックバック (0)

本が呼ぶ

 図書館で借りた本、2冊。そのひとつは、「始まりの言葉」(古井由吉 著 岩波書店 双書・時代のカルテ)。もうひとつは、「ウォーク・ドント・ラン」(村上龍VS村上春樹 著 講談社)。

 「始まりの言葉」は、出たときから読んでみたいと思っていた本だ。偶然目についたので迷わず借りた。「ウォーク・ドント・ラン」は、あるところで「是非ご一読をおすすめする。蒙が啓かれるかもしれない」と紹介されていた本だが、読んでみようとは思っていなかった。図書館で、普段は熱心に眺めない棚を珍しく熱心に眺めていたらこの本が目についた。素通りしてもよかったのだが、手にとった。パラパラと眺め、最後のページの2人の村上さんの経歴を見ると1952年と1949年の生まれとあった。お二人の作品は何も読んだことがないしこの先も読まないと思うが、1952年生まれと1949年生まれというだけで読んでみようと思った。ほぼ同世代の人たちが、その頃(1981年出版)何を思い何を考えていたかを知るためにだけ、読んでみる気になった。
2008年2月16日 9:45 | コメント (0) | トラックバック (0)

軽率だったで済ませる軽率さ

 軽率に自己の無知をさらけ出すような発言をしたあげく、いとも簡単に謝罪するということが続いている。まずは、法務大臣。冤罪の意味を理解していなかった。次に、報道番組のニュースキャスター。アダルトチルドレンという言葉の意味を捻じ曲げて使用した。

 言葉はよく咀嚼して初めて使えるものだ。しかし近頃は、流行の言葉を繋ぎ合わせているだけのような発言をする人は多い。一般人なら無知をさらけ出すだけで済むが、大臣ともなればそれでは済まないし、ニュースキャスターがい加減なことを言っていては影響が大きい。
 どんなに年を重ねても、わからない言葉や使い方が難しい言葉や、もしかしたら思い違いをしているかも知れない言葉はいくらでもある。そんな時は、そっと隠れて辞書を引くものだ。辞書を引いて確認し、それから、さもよく知っていたかのような顔をして使えばいいのだ。

 大臣の言葉は重いし、ニュースキャスターの言葉は正確でなければならないし、作家の言葉は選り抜かれていなければならない。そう思うのだが、そうではない作家がいるらしい。しかも芥川賞作家だという。公式サイトと称したページの日記だからと鬱憤を晴らすかのような内容では、芥川賞作家の肩書きが泣くかも。

 選挙の候補者の公約もまた重い言葉のはずだった。しかし、それをいかにも軽いものにしてしまったのが今度の大阪府知事。教育に関する持論は「机上の空論だった」と、定例会見で発言したらしい。そのあまりの軽さに言葉もない。

▽△▽


 ご機嫌斜めの私のパソコンを、ご機嫌をとりながら使っている。電源を入れても、一旦はランプが付くが起動しない。リセットボタンを押すとやおら目を覚まし起動する。終了するときは、スタンバイお願いねと言うのだが、いきなりブチキレる。やれやれ。それ以外はこれといった問題もなく使えるのにねぇ…。
2008年2月15日 8:47 | コメント (0) | トラックバック (0)

電源 壊れる

 パソコンの電源不調は本物だった。その後、事態はどんどん悪化した。スタンバイで終わろうとしても、シャットダウンして終わろうとしても、勝手に再起動を繰り返す。いつまでたっても終われないではないか。いいかげんにしなさいよッ!と睨みつけたら、いきなり電源がプチンとキレた。困ったものである。

 手におえず、我がパソコンのセンセイにお伺いをたてた。完全に壊れる前に買い替えを…というので、見積もりを頼んだ。電源ユニットを新しくすると、マザーボードもそれに合わせた方がよいという。マザーボードを取り替えるならそれに見合ったCPU、メモリを取り付けたほうがいいともいう。HDD(いつ壊れてもおかしくないほどに年数はすでに経っている)は壊れる前に買い替えをという。

 私は今、ウインドウズ2000が気に入っていて使っているのだが、新しいマザーボードでは2000は使えないらしい。ビスタを買いなさいという。ビスタは嫌だといっても、今さらXPを買うんですかぁ?と言われる。好き嫌いが言えるものではないらしい。”今は”ビスタの時代ということらしい。
 〆て予算は4万5千円。さて、どうする?さぁ、どうする?ほれ、どうする?

 デスクトップパソコンはおしまいにしてノートパソコンのみにするという選択肢もあるが、お気に入りのケースにお気に入りのキーボードにお気に入りのディスプレイである。未練もあれば愛着もある。4万5千円ははした金ではないが清水の舞台にあがるほどではない。さて、どうする?さぁ、どうする?ほれ、どうする?
 うぅぅぅぅぅぅむと悩んで、えぇぇぇぇぇぇいと決断した。4万5千円でもうしばらく使うことに決めた。
2008年2月14日 10:20 | コメント (0) | トラックバック (0)

はやまってはいけない

 携帯電話が壊れたか!?と慌てた。電池の残量かないから充電して下さいと、いきなり警告音とともにメッセージが出た。慌てて充電器にのせた。充電中のランプが点いたり消えたり…。どうなっているのかわからない。充電できた頃かと電源を入れてみるが反応がない。どうなってしまったのかわからない。

 頭のなかでは事態はどんどん悪化し、最悪のシナリオが出来上がる。auショップに駆け込まなきゃならないか…と覚悟を決めかけたが、その前にすることがあると思い出した。
 auのサイトでそれらしい項目を探し読んでみると、電源が入らないと思ったら長押しするようにと書いてある。改めて電源を長押しした。1秒、2秒、3秒…チャンチャラチャンチャンチャァ〜ン!と音がして電源が入った。充電も完了していた。やれやれやれ…、一気に緊張がほぐれた。
 
 今朝はパソコンの電源も入らなかった(いつもはスタンバイ状態)。仕方なしに再起動のボタンを押した。なにやら知らないが、あれもこれも普段どおりにはいかない日だ。今日はもしかしたら要注意日か?月齢カレンダーによれば今日は「危険予測日」だという。何事もはやまってはいけない。落ち着いて、落ち着いて、深呼吸して、もう一度見直して、落ち着いて、慎重に、慎重に、慎重に…
2008年2月13日 9:01 | コメント (0) | トラックバック (0)

今日は何の日?

 外務大臣はミュンヘン安全保障会議での演説で、自衛隊の海外派遣を積極的に行ない、国際社会において、『平和協力国家』としての役割を果たしたいと述べたらしい。自民党の議員(前副総裁)は韓国を訪問し、同行記者団と懇談で、自衛隊の武器使用基準の緩和を検討する考えを表明したらしい。日本をどういう国にしたいのか、国民と政治家とでは目指すものがかなり違うようだ。
 
 今日は建国記念の日。しかし、新聞にはその記事はない(産経の”主張”にはある)。ただの祝日である。建国記念を祝う気はないし、産経の主張に共感もしないが、日本という国がどうであればいいのかということは気にかかる。

 暫定税率がどうのとか、道路はやっぱり造らなくちゃとか、ごちゃらごちゃらしているけれど、この国は道路造りは絶対に止めないのだろうなぁと思う。いわゆる地方といわれる地域に、不似合いなほどのりっぱすぎる道路を造るのも、いずれはそこに戦車を走らせるためじゃないかと私は勘ぐっている。今日の生活、明日の生活を気にしている国民も多数いるだろうに、そんなことよりも将来の戦車のための道路造りのほうが大事だとでも思っているのだろう。
2008年2月11日 9:23 | コメント (0) | トラックバック (0)

大切な1冊―その後

 中央公論2月号の特集『戦後の青春小説を読み直す』で、「柴田翔インタビュー『されど われらが日々―――』とその時代」を読んだ。そこには、少しふくよかになり髪も白くなったが、あの頃のいかにも”文学青年”といった風情を今も変わらず持ち続けている柴田翔さんがいた。
 「されど われらが日々―――」「われら戦友たち」「鳥の影」「記憶の街かど 遭った人々」と揃えて持っているが、作者については芥川賞を受賞してもそうそうに大学の先生になってしまったことくらいしか知らなかった。

 この特集の意図は「読み直す」ということだが、かつて読んだ人たちが読み直すという意味か、あるいは現代の若い人たちに読み直されるという意味か、両方の意味なのか、どちらにしても作者へのインタビューは作品の時代背景の確認と解説になっているようだ。
 インタビューのなかで一番印象に残ったのは最後の部分だった。「『されど 』から43年を経た作者の現在の心境は」と聞かれて答えている部分だ。少し長くなるが引用する。 
 
 現在の心境は、と言われれば、何かを語りつつも、やはり語り手・書き手の姿は消したいという気分は常にあるんです。(後略)
 けれども、いまわれわれはたまたまこの国のこの時代に生きているわけですが、それはたまたまのことで、例えば仮に、僕が明治時代に生まれたとか、あるいは50年後に別の国に生まれるとなれば、そこには当然まったく別の人生があったはずです。
 しかし同時に、いつの時代のどの土地に生まれようとも、人生の基本的な形は同じではないのだろうかという感じがあります。その基本的な形がどういうものか、それをしっかりわかったうえで消えていきたい。


 私が柴田翔さんの本を大切な1冊にしているのは、たぶんそういうところに強く共感するからだろう。50年代半ばが舞台になっている「されど 」が、60年代後半から70年代初めに強く支持され読まれたのは、それが「人生の基本的な形は同じ」という視点で書かれているからではないか。本来文学というのはそういうものではなかったか。
 
 ”新訳”流行(ばやり)の昨今だが、「人生の基本的な形は同じ」という視点で書かれている文学はいつの時代になっても古びるということはないはず。新訳にすれば読まれるというのは、国語力の問題に過ぎないのではないか。
 『されど われらが日々―――』は復刊とともに再び脚光を浴びているそうだが、現代ではどのように読まれているのだろう。若い人の感想を聞いてみたい気がする。
2008年2月10日 9:04 | コメント (0) | トラックバック (0)

卵とご飯

 子どもの頃著しく偏食をしていた私は、いってみれば卵育ちだ。そんなわけで、卵かけご飯は定番であった。今では、たまにしか食べないが好きである。岡山県美咲町に卵料理専門の店ができたそうだ。卵とご飯に、みそ汁、しょうゆ、漬物が付いて300円の「卵かけご飯」がメインメニューだそうだ。しかも卵とご飯は食べ放題らしい。すごい店ができたものだ。ひたすら卵とご飯である。

 卵とご飯といえば、チャーハンである。卵を先に炒めてからご飯を炒めるか、卵とご飯を別々に炒めるか、卵かけご飯状態にしておいてから炒めるか、それぞれの方法によってCO2の排出量が違うという話をどこかで読んだ。結論としてはエコのためには卵かけご飯状態にして炒めるのが一番よいということだった。

 そこまで言うならさらに言ってしまえば、チャーハンなどにせず卵かけご飯で食べれば、もっとエコじゃないか…。鉄の中華鍋なら卵を炒めてからご飯を炒めるし、表面を加工したフライパン(油が少しですむ)ならご飯を炒めてから卵を回し入れて炒める。卵かけご飯を炒めてチャーハンにするなんて、いくらエコのためといっても邪道である。ものごとはトータルで考えた方がいいこともある。昼食を食べ過ぎたから夕食は軽くしておこうとか。それと同じで、チャーハンの卵が先かご飯が先かなんて、クダラナイと言っては言いすぎだろうか。塵も積もればなんとやらぁ〜という声が聞こえないでもないが…。
2008年2月 9日 9:09 | コメント (0) | トラックバック (0)

ときには愚痴る

 1年半ほど前にケータイ購入に付き合ってあげたいつもの連れさんは、今では私を追い越しほぼ完璧にケータイを使いこなしている。ケータイのカメラでヒョイヒョイ写真を写しては、あちこちにいわゆる写メールを送ったりしている。ケータイ購入に付き合い、ケータイの使い方を教えてあげたのは私だ。その私をとっくに追い越した。
 「そこまで写真が上手に写せるなら、次はデジタルカメラですね」というわけで、先日デジタルカメラ購入に付き合った。私は自信がないので我がデジカメのセンセイに知識を授けてもらい、メモを持って有楽町のビックリ?カメラへ繰り出した。

 我がデジカメのセンセイお薦めの2機種のうちの1つがお気に召してお買い上げ。とりあえず最初にすることを説明してその日は別れた。翌日、充電するところまでできたとメールが来た(充電台に載せてバッテリーに充電するタイプのデジカメを選んだ)。さらに翌日、メモリーカードの初期化、日付、時間の設定も済み写し始めているとメールが来た。写真屋さんでプリントした写真が送られてくるのもすぐだろう。

 私はといえば、ちっとも上達しないことに嫌気がさし、連れさんの方がすっと上手なことにいじけきって、めったにデジタルカメラを手にしなくなった。電池の充電が面倒なことも大きな要因ではあるのだが…それは言い訳かも。言い訳しながら、使いやすいカメラにすれば私だって…なんて気がもやもやと渦巻いたりして…。連れさんが選ばなかった方の機種を買おうかなぁ…などとちょっと思ってみたりする。でも、株が恐ろしく下がりっぱなしで投資信託は大きく損をしている今、散財はできないし…。ロト6で4億円を当てる人もいるというのに、私の買った番号では当たらないし…。あぁ、ぐちぐちぐちとぐちが多すぎる!
2008年2月 8日 8:43 | コメント (0) | トラックバック (0)

みんなの図書館

 私の手元にある間に、図書館で借りた本に予約が入ることは珍しい。その珍しいことがあったのが、「”手”をめぐる四百字 文学は人なり、手は人生なり」(季刊「銀花」編集部編 文化出版局)という本。今日が返却日だったので、雪がちらつくなかを急いで返しに行った。
 次に借りる「バベットの晩餐会」を閉架書庫から出してもらうのを待つ間に、聞くともなしに聞こえてきたのが予約図書に付いて問い合わせている人の声だった。どうやら予約したのは半年も前なのに未だに連絡がないと訴えているようだった。係りの人は、予約の順番が79番目ですから…とか何とか言っている。

 巷のベストセラーには関心がないので知らなかったのだが、すごいことになっているようだ。我が市の図書館のサイトには、「予約ベスト50」の一覧がある。当然、1位は「ホームレス中学生」だ。その予約件数は?と見ると、なんと1219件だ。2週間ずつ貸し出されるとすると、最後の人の手に届くのはいつになるのだろうか、気が遠くなりそうだ。気が遠くなっていたら、そういう本は市内の図書館で合計38冊も所蔵しているらしい。ちなみに、「女性の品格」は45冊。それでも1年から1年半は待つことになる。1年も1年半も経っても読みたいと思うのだろうか。

 巷のベストセラーであるというだけで、同じ本を38冊も常備しておくことが、充実した図書館といえるのだろうか…と、少々疑問に思う。こういった本はBOOK・OFFで買って読み、即、売ればいい。そのためのBOOK・OFFではないか…とも思うのだが、市民の皆さまのための図書館なのだからと図書館に求めるのだろうか。
2008年2月 6日 19:54 | コメント (0) | トラックバック (0)

何故だ!?

 スキー合宿に参加していた大学生が、2人も雪崩に巻き込まれて亡くなったという。なんとも気の毒に…と思っていたが、事情が明らかになるにつれやりきれない思いが募る。立ち入る禁止の看板を承知しながら、ロープをくぐり立ち入り禁止区域内に入ったのみならず、指導すべき学生をも導き入れたという。この講師は何を考えているのだろう、いや何も考えていないのだろうか。指導する方が非常識以下なのに、それに異議を唱えず従う学生もどうかしている。先生が大丈夫と言えば大丈夫と思うのだろうか。自分で危険を判断したりはしないのだろうか。
 「自分が大丈夫と思えばそこは危険区域ではない」というのは、かつて政治家が「自衛隊の行くところ、すなわち非戦闘地域である」と言ったのと同じ論理であるが、大きな間違いである。指導する立場の人がこんな状態なのに、若い人たちは何事にも異議を唱えず「そういうもんだ」で済まそうとするが、これも大きな間違いだ。間違いと間違いが掛け合わさって2人の若い学生が大切な命を落とした。
 普通のことを普通に判断することをしなくなった人々が、何故こうも増えたのか…その原因は何なのか…、誰か教えてください。
2008年2月 5日 9:08 | コメント (0) | トラックバック (0)

奇奇怪怪な事件

 雪が降って、降って、降って、降り続いて、積もって、積雪6cmにもなった。雪の知識のある奇特な人が雪掻きをして道を作っておいてくれたが、ゴミステーションまでゴミ出しに行くのもひと苦労だった。歩けないのだもの。
 首都圏では、転倒したりして怪我をした人が200人もいたそうだ。そうでしょうとも、そうでしょうとも。歩けないのだもの。スッテンコロリンなのだもの。今日は、明後日のためのお土産を買っておきたいのだけれど、困ったなぁ…歩けないのだもの。昼頃にはとけるだろうか…。

 「中国産冷凍ギョウザ中毒事件」でメディアは今日も騒がしい。次々と問題が波及していくのだから奇々怪々である。暫定税率問題を隠蔽するために今頃になって騒いでいるのではという人もいれば、中毒事件が公表される前にJT株の売りが殺到し、株価が急落したとしてインサイダー取引が疑われたりと、なにやら非常にヘンである。事実関係が不明な時点であるにもかかわらず、中国を敵視するどこぞの知事さんなどは「それみたことか、だから中国は…」的な発言をしたりしている。気をつけないと、そもそもの問題点がわからなくなりそうだ。
2008年2月 4日 9:02 | コメント (0) | トラックバック (0)

心騒ぐ本の紹介

 この冬2度目の雪が降っている。どうやら積もりそうな気配。明日は立春、駆け込み降雪。少しゆっくり起きた日曜の朝、恒例の新聞の読書欄に目を通す。気になったのは、柴田翔という名。「たいせつな本」というコーナーで、イサク・ディーネセン著「バベットの晩餐会」について書いている。この本については何も知らなかったが、読んでみたいと思わせる。
 柴田翔さんの「たいせつな本」のなかから「バベットの晩餐会」を紹介しているわけだが、読んだ人に思わず読んでみたいと言わせる紹介の術はさすがだなと思う。今度図書館でさがしてみよう。

 「話題の本棚」のコーナーでは、大相撲関係の本が紹介されていた。その1つが、内館牧子著「お帰りなさい朝青龍」。数年間の週刊誌連載コラムの抜粋らしいが、この時期だからこそ出た本のようだ。新聞の読書欄では扱われていないが、本田昌毅著「朝青龍から笑顔が消えた本当の理由」などはどう見ても便乗出版としか思えない。朝青龍とこの医師は、たぶん持ちつ持たれつの関係なのだろう。

 今日は、雪の節分。この雪の中で豆まきをするのだろうか…。スーパーのチラシを見ていたら、この恵方巻の海苔は○○稲荷神社でご祈祷したものを使用していますと但し書きがあった。やれやれと思う。
2008年2月 3日 9:19 | コメント (0) | トラックバック (0)

不毛地帯

 朝日コムに、『「岩国の住民投票には反対」橋下氏が発言』という見出しの記事があった。はっきり言って意味がよく理解できなかった。「国の防衛政策に地方自治体が異議を差し挟むべきでない」と岩国市のやり方(「主権者である市民、国民が国政にものを言うのは当然だ」というのが前岩国市長の言い分)を批判したらしいのだが、それは岩国市市長選挙で米軍空母艦載機の岩国基地への移転容認派側の候補者を支援するため…ということらしい。ややこしい話である。
 先輩を批判してはいけないなどという気はないが、橋下氏の発言に反論した前岩国市長(いろいろな意味で先輩である)に対して「もう少し憲法を勉強していただきたい」とも言ったらしいのだ。ふ〜んとしかいえない感じだ。
 
 同じような対立というか隔たりというか不毛な議論というか…、ふ〜んとしかいいようがないのが他にもあった。このブログの文芸評論家とコメントを寄せている人との議論(「ズレ」について考える)だ。
 先の次期大阪府知事は、弁護士である自分は憲法についてよく知っているのだから自分は正しいという態度のようだ。後のコメントさんは、自分がこう思っているのだから事実はこうなのだという態度のようだ。そういう立場で議論に挑むのだから、どうにもならない。ふ〜んとしか言いようがない。

 先の前岩国市長さんは、相手が国であろうが何であろうが異議ありの声をあげて当然だしあげるべきだという姿勢だと思うが、後の文芸評論家さんも、何事につけ異議申し立てをすることの必要性、大切さを繰返し説いている人だ。ある年齢以上の人にとっては当然のことが、ある年齢以下の人にとっては「間違っている」ということになるらしい。これって、何なんだろう…?
2008年2月 2日 12:29 | コメント (0) | トラックバック (0)

脳科学的

 法務大臣は、3人の死刑囚の刑を執行したとその氏名とともに発表した。氏名や執行したことを公表することには異論もあるようだが、死刑制度がある限りこうした発表をすることは筋が通っている、と私は思っている。
 朝日新聞社のPR誌「1冊の本」2月号の「巻頭随筆―1冊の本」は、「決断と正義―裁判員制度と感情 伊東乾」だった。伊東乾という人については何も知らなかったのだが、作曲家=指揮者、大学教師?という肩書きの、わけのわからない人らしい。この「決断と正義―裁判員制度と感情」は、朝日新書『反骨のコツ』(團藤 重光/伊東 乾 著)の宣伝である。朝日新書だからたいした本ではないというのは私の偏見だが、それしても何が言いたいのか、言いたいらしいことははっきりしているようだが、何だが突拍子もない論理を展開する人だ。
 「裁判員制度を実施するなら、死刑制度は停止しなくてはならない」と言いたいらしい。問題は、何故か?という部分だ。筆者は、今流行りの脳科学からそれを論じるというのだ。ここですでに眉唾である。裁判官は感情のトレーニングにより正義感を身につけているが、一般人の裁判員が量刑の決定をするときには、脳科学的にはその意思決定は理屈(理性?)ではなく情動(感情?)によってなされる…というのだ。一般人の裁判員に量刑の判断までさせることは、被告人への殺意(感情?)を持つことを求めることになるから、「裁判員制度を実施するなら、死刑制度は停止しなくてはならない」という。なんという論理の展開をする人なのだろう…と驚き呆れ戸惑った。
2008年2月 1日 18:53 | コメント (0) | トラックバック (0)