読み比べ

 「新s」という命名は、真面目なのかふざけてるのか粋がっているのかよくわからないが、もう少しマシな名にできなかったの?といいたくなる。名前やロゴは気にいらないが、内容についてみれば、私はこういうサイトができるのを待っていた。朝日、日本経済、読売の三紙だけでなく、毎日も産経も加わっていればもっといいのだが。

 今日の注目テーマは、中国産冷凍ギョウザによる中毒のニュースだ。細菌による中毒ではなく毒物による中毒だというから驚いた。いわゆる大袋入りの徳用ギョウザのようだ。国産なら安心、中国産は信用できないとは一概には言えないが、お徳用商品にはそれなりのわけがある。その「わけ」を承知で購入せよという言い方もできるだろうが、経済的観点からお徳用しか買えないという場合もあるだろう。
 今年に入ってからの食料品の値上げは凄まじい。あれもこれも大幅値上げである。それなりの理由があって仕方がないのだとはいっても、値上げは値上げである。生活に響く。お徳用商品のわけありリスクを承知で買わざるを得ない人は増えるかもしれない。
 消費者(世間)は万全を望むが、そんなものは存在しないから「万全を期する」という。そういう観点から無農薬の自給自足の食生活が一番という人がいるかもしれないが、それは現実的ではない。
 
 あらたにすの三紙を読み比べて、この中国産冷凍ギョウザ中毒の問題点は何か?が読みとれるだろうか。
2008年1月31日 8:46 | コメント (0) | トラックバック (0)

まもなく春が

 もう30日だ。あと1日で1月も終わる。つい先日、新年の挨拶をしたばかりだというのに。光陰矢のごとしなどという使い古されたことわざを持ち出すまでもなく、日々は飛んで行く。地球の回転が早くなったのではないか…などと、あらぬことを疑いたくもなる。
 2月になればすぐに節分があり、立春となる。雨あがりの、電線の水滴がキラキラ光る朝、チチチチと鳴く野鳥の声が「雨がやんだよ、雨がやんだよ!」と言っているように聞こえた。

 節分には、忘れずに節分豆ごはんを炊こう。年に1度の行事の、年に1度の豆ごはんだ。私は豆ごはんは食べるが、豆まきはしなし節分法会にも行ったことはない。しかし、各地の寺では節分法会が行われ人々で賑わう。賑わいすぎて、中止する寺がでてきた。横浜の弘明寺では60年の伝統を断つことに決めたという。
 600uの境内に、約千人もの人々が押しかけるらしい。一人あたり0.6u?ではまさに身動きならない混雑であるが、豆を目がけて人々は押し合いへし合い右往左往するわけだ。本来の意味を忘れた人々が節分法会に殺到し、また、本来の意味を忘れた寺がそれを中止してしまう。
2008年1月30日 12:08 | コメント (0) | トラックバック (0)

公とは?

 「裁判に間に合わない」と「特急列車を止めた」副検事がいたそうだ。「裁判に間に合わない」事態になったのは、降りるべき駅で降りず乗り過ごしたからだという。居眠りしていたのか何かに夢中になっていたのか勘違いしたのか、そこらの事情は不明だが、乗り過ごしたのはあくまでも本人が責任をとるべき本人のミスである。 ところが、その副検事さんは車掌に「何とか止めてもらえないか」と申し出たそうだ。
 一方、車掌さんは輸送指令室に相談したそうだ。その結果、次の駅で臨時停車して降ろしてよしとなったそうだ。そう判断した理由は、「裁判関係者への影響を考え、社会通念上、許されるケースである」と考えたからだという。
 これには私は異議がある。結果ではなく原因で判断すべきことを、結果から判断したのは間違いだと思う。次の停車駅で降りてタクシーを飛ばすなり、パトカーに泣きつくなり、あるいは裁判に遅れて周りに迷惑をかけて謝罪するなり、何なりとすべきことだし、そうすることが乗り過ごしたという自分自身のミスの責任をとるということではないか。
 公の仕事に携わっているのだから、それに支障をきたさないように便宜を図ることは社会通念上許されると判断したということだろうが、そんな”社会通念”は一体どこにあるのか。
 近々、裁判員制度が始まるといわれている。そのとき、裁判員に選ばれた人(一般人)が慣れない場所(裁判所)へ赴くとき、同じような状況になったら同じように便宜を図ってくれるのだろうか。
2008年1月29日 8:32 | コメント (0) | トラックバック (0)

イチゴ

 イチゴを一粒手にとって、ふと思った。こんなにたくさんついている種ごと食べてしまうなんて、私も残酷なことをするもんだ…と。手にとったイチゴをじっくり眺めて、さらに思った。こんな所に種をつけるからだ、もしリンゴのように中心にまとまって種があれば食べ残し、気まぐれに土にうめてみるかもしれないのに…と。口に運びかけたイチゴをもう一度見つめて、尚も思った。イチゴの表面がつるんとのっぺらぼうだったら、誰もおいしそうと思わずパクリと口に入れたりしないかも…と。
 赤一色ののっぺらぼうのイチゴを想像したら、オカシナ気分になった。きっと可愛くもなければ、おいしそうでもなくなるだろう。華やかにケーキを飾ることもないだろう。イチゴはどう思っているか知らないが、ツブツブと種がびっしりついていてこそイチゴの美しさだ。おいしさだ。
 …なぁんていろいろ思い巡らしていては食べられない。妄想を追い払いパクリと食べた。ichi1-1-1.gif
2008年1月28日 8:36 | コメント (0) | トラックバック (0)

 小学校では爪の検査があった。机の上にそろえてのせた私の手を見て、担任は「きれいな手をしている」とそっと言った。問題児扱いされていた私が、ただ一度だけ褒められた。きちんと爪の手入れがしてあることではなく、それは姿かたちのことだと幼いながらも直観した。無口な私に代わって手はしっかり自己主張をしていたのかもしれない。
 すっかり大人になった頃、男性から「きれいな手をしていますねぇ」と感に堪えないというふうに言われた。こういうときわどい状況を想像するかもしれないが、PTA行事の準備中、何かを手渡すために差し出した私の手を見てのひと言だった。
 そんな思い出を残しつつ今ではヘバーデン結節で指が曲がってしまった手が、ちょっと悲しい。



 「”手”をめぐる四百字 文学は人なり、手は人生なり」(季刊「銀花」編集部編 文化出版局)を読みながら、ふと私なら何をどんなふうに書くかなぁ?と思った。そして試してみたのが上の文である。活字の本なら思いもしないことを大胆にも思い、思っただけでなく書いてしまったのも、手書きの原稿そのものを集めた本のせいだ。この本を読めばきっと、誰でもそう思うに違いない。試しに読んで見ませんか?
2008年1月26日 13:54 | コメント (0) | トラックバック (0)

リサイクルクルクル∞エコクルクル∞

 近頃の紙問題をみていると、エコとは何ぞや?と改めて思う。もともと、エコエコというのは嫌な私である。さまざまな紙製品を買うときも、再生紙だからどうの、再生紙でないからどうのとは考えない。商品を見て、使用目的にふさわしいか価格は適性か…その程度を考えるくらいである。

 しかし世の中には、紙にこだわる人は多いし、エコにこだわる人もまた多い。再生紙でなくちゃいけませんとか、古紙の割合が多ければ多いほどエコであるとか、訳のなからないことを訳のわからないままいう人々だ。日本郵政は、再生紙はがきの再生紙の表示をやめるという。古紙配合率が低すぎたり、全く配合されていなかったり、ということが判明したからだという。

 ところが、そもそも再生紙の定義などないという。定義はないが、再生紙の品質を表すマークはある。変な話だ。リサイクルは万能ではないし、”リサイクル=エコ”とは限らないのに、エコは絶対善でリサイクルはそのための究極の目的であるかのように思われているのではないか。私には、そんな気がしてならない。
2008年1月25日 10:34 | コメント (0) | トラックバック (0)

生チョコもち

 我が国は和洋折衷の文化で成り立っている。多くの人が和室と洋室の混在した家に住んでいるし、パンも食べればご飯も食べる。近頃ではライスバーガーなるものも存在する。だから不思議でもなんでもないのかもしれないが、どうしても好きになれないのが「生チョコもち」だ。これは果たして和菓子なのか洋菓子なのか?そんなことを考えちゃいけないのか?洋風和菓子なのか?和風洋菓子なのか?フォークで食べるのかお箸でたべるのか?生チョコを餅が包み、その餅にはココアパウダーがまぶしてある。”まぶしてある”といえば和菓子風だが、もちにはバターを練りこんでココアパウダーで”コーティング”といえば洋菓子風である。どこまでいってもどっちつかずである。そうか…今になって気づいたが、バレンタインデーに乗っかりたい和菓子業界苦肉の作だったのか。チョコのようでチョコでない、餅のようで餅でない、それは何かと尋ねればベンベン♪ナマチョコモチナマチョコモチナマチョコモチ(早口言葉ふうに言ってみてください)…。
2008年1月24日 11:06 | コメント (0) | トラックバック (0)

寒い日の必需品は本とひざ掛けと猫と、紅茶

 寒い。午後になって夜中よりも未明よりも気温が下、今は2〜3℃しかない。冷たい風も吹いている。家でぬくぬくしていてもよかったが、電車に乗って図書館へ。借りてきたのは次の3冊。
「博物誌 上」「博物誌 下」(串田孫一著 平凡社ライブラリー)
「”手”をめぐる四百字 文学は人なり、手は人生なり」(季刊「銀花」編集部編 文化出版局)

 「博物誌 上」の猫のページを見ると、おやおや?絵が違ってる。写実的な子猫の絵になっている。「アルプ」で見た猫の絵の方が、私はずっと好きだ。
 「”手”をめぐる四百字」は、すべて著者の手書き原稿でできている本だ。原稿用紙も市販のごく一般的なものから名入りのものまでさまざまだ。マス目も大きなものから小さなものまでさまざま、当然字も個性的。推敲のあとがあるものとないものと。大きな字小さな字、流れるような字几帳面な字、判読困難な字と達筆といわれる字…おもしろい。

 先日芥川賞を受賞した作家が、朝日新聞の文化面に「芥川賞を受賞して」という文を書いている。題は「作家は物語のためにいる」。のっけからこういう文章は嫌いである。生理的に受け付けない。それは脇に置いておくとしても、この人の言うところの「物語」とは何なんだろう?小説の中には「物語」があるということなのだろうか?うーむ、む、む、む…よくわからない。

 もはや芥川賞受賞作といっても読む気はおこらず、したがって読むことはないと思うが、コチラのブログの先生は文芸評論家であるから読まれたようだが、『現在の芥川賞受賞作に象徴される文学現象は、あくまでも「ミーイズム(Meism)」であって、「社会」や「世界」の在り方や現実と全く関係ないところで成立している』と書かれている。また、『小川洋子を始めとする比較的若い作家が選者になった現今の芥川賞には、当分このような受賞作が続くと思うと、いささかうんざりしないではない』ともおっしゃっている。

 芥川賞の選者もそうだが、新聞の書評欄の選者も最近とみに若返った。重鎮ばかりがいいとはいわないが、とても読む気になれない作家が選んだ本など尚更読めない。そうして私の読書世界が狭まるかといえば、そんなことはない。発掘する楽しみがある。時代が合わず読む機会がなかったものを発掘して読む楽しみがある。孫一さんの博物誌もそう。
2008年1月23日 14:01 | コメント (0) | トラックバック (0)

今日の雑感

 ここまで下落するとは…と口もあんぐりなのが連日の株価である。日経平均株価も1万2000円台だ。いったいどこまで下がるのか。日本だけでなく世界同時株安だという。それもこれもブッシュさんのせい。経済財政相も経済産業相も外相もそろって、アメリカが何とかしてくれないことには日本にできることはなにもないとお手上げ状態である。さぁ、どうする?ブッシュさん、さぁ、さぁ、さぁ…!である。

 「食料の未来を描く戦略会議」という農水省の会議があるらしい。そこでは、「主要穀物で唯一自給できていながら、需要減と価格下落が目立つコメの消費をどう増やすか」が話し合われたらしい。「学校給食すべてをコメにすべきだ」と主張した人がいるらしい。一方、「食べ物を強制的に押しつけるようなメッセージはよくない」という人もいたらしい。自給できているのだから輸入ものではなくコメを食べよという論理は少々筋違いだ。コメをもっと海外へ売り込めばいいではないか。

 年金記録問題対策に関する大臣直属の諮問会議(年金の専門家を5人程度)を設ける予定だという。「特別便だけでなく、今後の2次名寄せや、名寄せに引っかからなかった方への通知などでも、国民の目線で一回一回チェックしてもらう」そうだが、政治家の言うところの”国民の目線”って何?

 縁起担ぎの「合格グッズ」が花盛りである。なかでもお菓子類はほとんどが語呂合わせだ。それをまた喜んで買う受験生って何?受験は人生に於ける個人的な1地点に過ぎないと思っていたが、いまや通過儀礼と化したようだ。

 今日は久しぶりに朝から太陽が顔を見せた。この日を逃しては…とたくさん洗濯をした。明日はまたみぞれか雨か…、寒くなりそうだ。
2008年1月22日 14:32 | コメント (0) | トラックバック (0)

串田さんの猫

 「アルプ 特集 串田孫一」(山と渓谷社)を読み終えた。山の文芸誌「アルプ」そのものは知らないが、この本の装丁は当時のままだという。そして「0」の通し番号の、串田孫一追悼(番外)特集号となっている。

 そのなかで「自然の章 季節の手帳」の<『博物誌』1956より>に猫の話が載っている。串田さんが猫好きだったかというとそうではなかったらしい。
 突然舞い込んだ小猫が当然という顔で串田さんの肩に飛び乗って、それ以来「串田さんの猫」になってしまったという。それで可愛がったかというとそうでもないようだ。「腹の立つほどの多量の魚を食べ」、「驚くほどの魚の頭を喰い残し」、「19匹のボーイフレンドを作り」、「見てしまった僕もぞっとするような享楽に耽り」…あげくに3匹のチビを生んだ、と串田さんに言わしめるような猫だったらしい。
 そのチビのうちの1匹は、部屋の戸をあけることができたそうだ。当然あけたらあけっぱないである。そんな猫に対して串田さんは、『お前、ついでに、もう少しお悧口にならない?自分で戸をあけてここへ入って来たんだろう?そうしたら忘れずに閉めるんだよ。後足で閉めたって、そりゃぁいいさ。それが出来たら僕は新聞社へかけつけるんだが…』と猫撫声で言ったらしい。「猫はそれが分かったような顔をするからいやになる」と言いつつも、”猫に好かれた”串田さんである。「猫に好かれた串田さんの猫」の絵も添えられている。多くの人に愛され猫にも好かれた串田さんだったのだ。

 また「芸術の章 青く澄む憧れ」では、元東京エフエム「音楽の絵本」製作担当だった池田宏さんが<音楽の絵本串田先生と共に三十年>という文を寄せている。それによると、衛星デジタルラジオ局ミュージックバードの7チャンネル「ザ・クラシック」で、日曜朝6時から「音楽の絵本」を再放送しているそうだ。
 「音楽の絵本」は「不死鳥の絵本」に化けたみたいだ、と池田さんは言う。平凡社刊の「音楽の絵本」についていたCD(1500回記念放送「冬の記憶」を収録)を聴くと、私は涙が出る。すべてをもう一度聴きたいと私の心は熱望する。(衛星デジタルラジオってどうやったら聴けるのだろう?そもそもここには電波が届いているのだろうか?)
2008年1月21日 9:04 | コメント (0) | トラックバック (0)

蔵出し

 昔はこんなものも作って遊んでいたけれど…
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 私のパソコンの中には「蔵」というフォルダがあり、その中にしまってある。思い出して取り出してみたが、今見るととても素朴。でも私は気に入っている。
2008年1月20日 9:37 | コメント (0) | トラックバック (0)

はぁ?

 生まれ育った土地を離れ、関東地方に住み着いてはや30年。住めば都というが、いつまでたっても好きにはなれない土地である。かといって、生まれ故郷が恋しいというわけでもない。どちらも自分の気持ちや意思とは無関係に選ばれた土地だ。好き嫌いの対象にはなりえない。
 関西には関西ならではの文化があるというが、asahi.com関西には「勝手に関西世界遺産」というおもしろいコラムがある。その151番目は、なんとも懐かしいあのモロゾフのプリンカップだった。私も、初代のぶあつい陶器の「モロゾフのプリンカップ」をいくつも持っていた。モロゾフ・カフェのホットチョコレートは、ドンクのレモンパイとともに私にとっては忘れられない味だ。あっ、もうひとつ本高砂屋のきんつばがあった。思い出すのがおいしいものばかり…というのも関西生まれの宿命か。
 内閣府(地域活性化統合事務局)の世論調査によると、53%の人が自分が住んでいる地域に「元気がない」と感じているそうだ。私が住んでいる地域もどちらかというと元気がない。今年になって(まだやっと半ヶ月過ぎたばかりだが)あちこちの店舗がシャッターを下ろした。写真屋に手作りパン屋にラーメン屋に弁当屋、駅前や道路沿いの店が軒並みである。
 なんだかとりとめのないことばかり書いてしまったが、「モロゾフのプリンカップ」の話からおいしいチョコレートが食べたいなぁ〜と思っただけのことだった。お粗末でした。
2008年1月19日 9:24 | コメント (0) | トラックバック (0)

ワケワカラン

 来年から裁判員制度が始まることになっている。それにあわせて民放連は「裁判員制度下における事件報道について」の基本的な考え方をまとめたという。「被疑者・被告人の主張にも耳を傾ける」「一方的に社会的制裁を加えるような報道を避ける」「公正で開かれた裁判であるかどうかの視点を持つ」等々、なのだそうだ。
 裁判所のあの高い壇上に座っている裁判官といわれる人たちは、日常的にテレビのニュースを見たり新聞を読んだりはしないのだろうか?社会人ならまさかそんなことはないだろう。裁判官はそういったものに影響されることはないが、裁判員(つまり普通のおじさんやおばさん、わかもの、としより)は影響されるに決まっているから報道を自主規制しようというわけ?なんだかおかしな話だ。そもそも裁判員制度を取り入れようとしたのは、裁判に一般人の感覚をということではなかったのか。

 同じような事例でも裁判官によって判断が異なるというのは多々あることだ。それは何故かと考えてみると、裁判官の考え方がそれそれ違っているからだと思われる。人は言語で思考しているとしたら、見聞きした言語の違い、その受け取り方の違いだろう。言語はその社会を反映して生まれるとしたら、その社会に規制を設けることはおかしな結果を招くのではないか。

 先日も、一般人の多くが新たにできた危険運転致死傷罪に値すると判断するだろうと思われるような事例に対して、裁判官は『業務上過失致死傷罪と道交法違反(酒気帯び運転、ひき逃げ)』と判断した(福岡市の飲酒運転追突事故、3人の幼児が死亡)。裁判官の判断は、被告は酒に酔っていたが事故現場まで異常な運転はしていないし事故直前にはブレーキをかけハンドルも切っているから危険運転致死傷罪には当たらないというものだ。これでは、一応まともに運転できれば飲酒運転をしてもよいと受け取られかねない。
 飲んだら乗るな乗るなら飲むな(飲ませるな)は世間一般の常識である。被告の弁護人は被告の権利を最大限に主張するのが仕事だとしても、裁判官は公正な立場のはず。その判断基準は大多数のものが納得のいくものであるであるべきではないか。この判決を出した裁判官の考え方はどこから導き出されたものなのか。 裁判員制度で何を目指したいのか、全くわからないような出来事ばかりである。
2008年1月18日 9:18 | コメント (0) | トラックバック (0)

寒い朝

 忘れていた冬の寒さがやってきたと思ったら、今度は突然の雪である。夜の間に降ったらしく、朝は屋根の上だけ雪景色だった。ベランダは冷凍室だ。まもなく大寒だし、センター試験も始まるし、この季節はこんなだったのだ。

 お正月も過ぎ成人式も過ぎ、やっとひと息ついたかなと今日はヘアカットへ。ひとしきり雪の話題で話が弾み、ホームレスは大変だろうなという話に変わり、今話題の?「ホームレス中学生」とやらの話に…。題名は新聞広告などで知っていたが、どんな内容なの?と若い美容師さんたちに聞いてみた。お笑い芸人の本だという。母親はなく、父親がいきなり家族を解散し、当時中学生だった著者がホームレスになった話だという。それは父親が子どもを捨てただけじゃないのかと思ったが、モノは言い様である。家族を解散といえば本になるらしい。さらに話は続き、なにやらテレビの霊視番組でいなくなった父親を霊視すると居場所がわかったという。やれやれ…である。一人の美容師さんが言うには、最初から居場所はわかってたんじゃないか、あんなのすぐ見つかるよ…と。若い美容師さんたち(若いといっても30歳前後の人たちだが)の感覚がまともなので安心した。
 
 今日は1月の17日、阪神淡路大震災から13年。首都直下地震に備え、六本木ヒルズで訓練が行われたという。阪神淡路大震災直後の、今にして思えば笑ってしまうような数々の備えから、民族大移動よろしく出先から歩いて自宅に帰る帰宅困難者の訓練を経て、やっとまともな備えや訓練が考えられるようになった。13年というのは、見方によってはそれだけのことを学ぶに要した時間だともいえる。 

 明日の朝はさらに冷え込みそうだ。家のある人もない人も、ぬくぬくペットのワンさんやネコさんも野ざらしの野良さんも、みなさん体に気をつけてこの寒さを乗り切りましょ…ね。
2008年1月17日 14:08 | コメント (0) | トラックバック (0)

右を向いても左を見ても

 駅近くの大型スーパーに、衣類や食器、ちょっとしたインテリア等々を置いている雑貨屋がある。白と黒でまとめたセンスのいいお店だ。お気に入りの箸を買ったのもこのお店だった。久しぶりにちょっと覗いてみたのだが、陳列棚の商品の奥にあった小さな張り紙には驚いた。万引きは犯罪です、万引きをしたら警察に通報します云々と書いてあったのだ。被害に多さに業を煮やしたのだろうか。しかし、これでは「盗るなよ」といいながら商品を差し出しているようなものである。張り紙1枚で、買物をする気はすっかり失せた。

 私の通うカルチャーセンターで、急に緊急連絡先の提出を求められた。というのも、年末に突然具合が悪くなり亡くなった受講者が2人もいたので…というのだ。カルチャーセンターといえば中高年が多いから当然ありうることだけれど、だからといって緊急連絡先を知らせておいたらなんとかなるというものでもないだろう。なにかあれば、救急車を呼んでくれればそれでいいと思うのだが。それ以上の責任を問うたりはしないと思うけれど。中高年は取扱注意!の危険物みたいだ。

 先日会った一人暮らしの遊び友達からは、「こんなの作って持ち歩くことにしました」と緊急連絡先を書いたカードを渡された。一番上に私の名と電話番号が書いてあった。覚悟はしているものの、一気に現実味を帯びて気が滅入った。

 何かと難しい社会になったものである。
2008年1月16日 18:51 | コメント (0) | トラックバック (0)

忍び寄る…

 海上配備型迎撃ミサイル(SM3)の実射実験成功に関して…、『「米国以外の国が、SM3の実射実験をしたのは初めて」と大々的に報道されているが、その意味するところは何?「防衛省は10年度末までに、SM3搭載のイージス艦計4隻を配備する一方、首都圏や中京・京阪神地区など計16カ所でPAC3の配備を進める」そうだが、”日本の防衛”=”アメリカの基地の防衛”ではないのか?』とブログに書いたのは昨年の12月19日だった。

 そして今日…
 自衛隊は、新宿御苑でPAC3の展開候補地調査をしたという。昨日の夜8時から今朝まで、作業をしたという。海上配備型迎撃ミサイル(SM3)の実射実験成功での浮かれぶりにも眉をしかめたが、防衛庁から防衛省になってどんどん大きな顔をするようになった。人々が(日本国民が、という意味)生活をしている場に、平気でしゃしゃり出て、当然のような顔をして我がもの顔で公共の公園を使って調査をする。そのことが意味するのは何かを、私たちは忘れてはイケナイ。

 近くの住民の反応として、アサヒコムでは「日本が戦争を起こすことはないと思ってますから、平気です」という女性の声を載せているが、そう思う人ばかりではないはず。大きな顔をしてこういう事をして、それが内外に報道されることの意味を考えなければ。日本は戦争をすることもあり得る国から戦争のできる国へ変貌してきていることを、臆することなく内外に示している…と、私は思う。私たちは徐々にこういう光景に慣らされる。決して慣れてはイケナイ光景に慣らされる。首都圏や中京・京阪神地区など計16カ所で予定しているという。富士山麓での戦争ごっことはわけが違う。人々の目につくところで日常的に行うのである。その意味するところは何?そう問い続ける目を忘れないようにしなければ。
2008年1月15日 18:27 | コメント (0) | トラックバック (0)

何のために、何を見、何を考え、何を書くか

 朝日新聞には毎月1回PR版が挟まってくる。美術展やコンサートの案内、アスパラクラブの宣伝などがその主な内容だ。中でも私が気に入っているのは、「ムササビ先生のどうぶつ記」だ。筆者は、都留文科大学地域交流センター特別非常勤講師という長い肩書きの今泉吉春さん。毎回楽しみにしている。

 その下は「記者たちの素顔」だ。これは好きでもなければ楽しみにもしていないが、一応読むことにしている。今日は、先日の「海上自衛隊の給油活動に密着」したという記者(カメラマン)の文だった。文章を書くのが専門ではないかもしれないが、その文章によって何を見てきたかが窺えるし何を考えているかを知ることもできる。そういう意味で読むと、う〜む、朝日新聞の記者ってこんなものか…と思う。

 一応新聞記者なら出かける前に事前調査(情報収集、予備知識)くらいしたらどうかと思うが、初めてのドバイに対する感想はあまりにも幼い。「ドバイ空港から自衛隊の貸しきりバスでとある港に到着」とあるが、自衛隊のことだからとあるとぼかしてあるのは仕方がないとしても、補給艦「ときわ」にどこからともなくパキスタンの駆逐艦が接近し…という文章はいただけない。子供向けのおとぎばなしではあるまいし、もうちょっとちゃんとした書きようがあるだろうに。本当にどこからともなく駆逐艦が近づいて来たと見えたのなら、この記者はよほどぼんやりした人かちゃんと仕事をしていなかったかどちらかだ。PR版だからと読者を甘く見ているのだとしたら、それはいいことではない。
2008年1月14日 9:12 | コメント (0) | トラックバック (0)

年に1度の…

 年に1度の…といえばさまざまあるけれど、「おぜんざい」もそのひとつ。お正月もすんで七草がゆの頃か鏡開きの頃になると、そうだ!おぜんざいを食べよう!ということになる。もっとも食べるのは私1人だが。今年はおいしい丸もち(庄内米で作ったお餅)とつぶあん(十勝の小豆)が手に入ったので、とびきりおいしいおぜんざいが出来た。今年はまだ始まったばかりなのに、すっかり満足してさあこれで今年も終わった…という気分になった。
 そして、あんこというと必ずねこさんを思い出す。我が家のねこさんはあんこ好きだった。おねだりの激しいねこさんではなかったが、あんこだけは我慢できず手が出た。口のそばまで持っていったものを奪われそうになったこともある。おぜんざいは我が家のねこさんの思いでと繋がっている。
 また、おぜんざいといえば塩昆布でもある。必ず添えたいものだ。それも、しっかりと塩をふいた塩昆布でなければならない。”これ”でなければならない。子どもの頃は日常的にパクパクと食べていたような気がするし、おいしすぎて困るほどなのだが、値段も結構高くて困る。そのうえ関東地方では手に入りにくい。私にとっては幻の塩昆布だ。
 「おぜんざいの日」も済んで、あとは鏡餅をどうするか…だ。今年はパックの切り餅入り鏡餅パックではなく、小さいながらもちゃんと鏡餅がパックされたものを手に入れた。それを見ているうちに、カキモチを作りたくなった。薄く切って天日干しにしてから網で焼けば、おいしいカキモチになりそうだ。
 お雑煮を2回食べておぜんざいを1回食べてあとはカキモチにして、今年のお餅はおしまい。さぁ、済んだ!済んだ!である。
2008年1月13日 9:52 | コメント (0) | トラックバック (0)

連帯

 嫌いな言葉、嫌な言葉、使いたくない言葉はいろいろあるけれど、「連帯責任」というのもそのひとつ。何故嫌いか、嫌か、使いたくないか、というと、最低限自分のことには責任を持たなければならないし、またそれは誰にも可能だが、他人のことなどに責任は持てないからである。「連帯責任」というのは、自己についてだけでなく他人のことにも責任を持てということだ。持てもしないものを持てといわれたら、相互監視をするしかない。相互監視を全うするためには、外れる人が出てきたらリンチしかない。かつてどういう所でどういう状況でその言葉が使われていたかをみればわかることだ。

 「我が国が『テロとの闘い』に再び参加できることは誠に意義深い」と福田さんは言った。これも、国際社会における連帯責任という考えが根底にあるからだろう。アメリカと同じ側に立ち同じ方向を向いていなければ敵とみなすがよいか?というのが国際社会における連帯責任だ。

 横浜市の小学校では、一部の児童の行動に腹を立てた臨時教師が連帯責任だとして担当クラスの全児童をビンタしたらしい。昔の小学校には「連帯責任」はごろごろあったが、今でもそんな言葉を使う教師がいるとは…。現在では体罰はいっさいイケナイことになっているからそれに反しているわけだが、それ以前に体罰をした理由が連帯責任ということにとても嫌な気分になった。
(もっともこの言葉をそこまで気嫌いするのは、私の性格によるところも大きいとは思うけれど…)
2008年1月12日 12:52 | コメント (0) | トラックバック (0)

勘違い民主主義

 なんだかとても虚しい。つまるところは数で決まってしまう。それが民主主義だと思い込んでいる人々がいる。少数派の意見・主張も聞いて、それを取り入れたうえで、より多くの人々が納得するところに決めるのが民主主義ではなかったか。手続き上はそれが許されているからと、数だけで押し切るのは独裁と何ら変わらないではないか。しかし、ソンナコトヲイッテミテモショセンムナシイ。

 民主党も情けない。議論がへただ。言いたいことだけを言いつのっていればいいというものでもないだろうに。相手を論破してこそ議論である。民主党はそれができないらしい。派手に幟はバンバン立てるけれど、それでもうことを終えた気になってしまうのか、その後がいけない。補給支援特別措置法案の継続審議を断念せざるを得ないとみるやいなや、とっとと次のこと(ガソリン税の暫定税率撤廃に向けての野党の結束を計る)に取り掛かるとは。

 補給した油を目的外使用をしないよう改めて求めるため各国との間で交換公文を結ぶというが、それは建前を確認し合うだけにすぎないのではないか。事前に艦船の行動予定を把握した上で給油を行うともいうが、行動予定はいつでも変更可能な予定に過ぎないではないか。

 虚しさに輪を掛けるような因縁話まで報道されている。「参院で否決された法案を衆院で再議決した前回の事例は、昭和26年”モーターボート競走法”」。モーターボートといえば笹川さん。現衆院議院運営委員長はその息子の笹川さん。モーターボート競走法を再議決した時の衆院議運委員長は小沢さん。その息子が現民主党代表の小沢さん。なんとも狭い世界である。家業が政治屋の人がなんと多いことか。
2008年1月11日 8:44 | コメント (0) | トラックバック (0)

アルプといえば串田さん

 今日も良い天気である。明日が返却日の本を1日早く返しに図書館へ。
特に借りたい本の予定があったわけではなかったので、まずは新着本の棚を見回した。すると、これでしょ?と声がする。運よく見つかった本は次の2冊。
「アルプ 特集 串田孫一」(山と渓谷社 2007年7月10日初版 \3,200)
「猫風船」(松山巖・著 みすず書房 2007年6月15日)
 「特集 串田孫一」だなんて、これはもう買ってずっと手元に置いておきたいような本だ。いい本があったのでさっさと借りて、とっとと図書館を出た。

 駅に近づくとなにやら賑やかな音が聞こえてきた。人だかりもしている。警官の姿もちらりほらり見える。そろいのジャンパーでチラシを配っている人がいたのでもらう。警察のイベントだった。1月10日は110番の日だという。県警の音楽隊が演奏をしていた。着ぐるみも出て何かやっていた。どうやら正しい110番の仕方を教えているらしかったのだが、思い切り背伸びをしても隙間を覗いても、ほとんど何も見えず、マイクを通しての声はクワンクワンいって聞取れず。
 早春が待ち遠しいと、うぐいす餅を買って帰った。
2008年1月10日 14:05 | コメント (0) | トラックバック (0)

ブルーノ・ムナーリ展

 朝のどんよりした曇り空を気にしながら出かけた先は板橋区立美術館。荒川を渡って東京に入り、板橋区の外れまで中心部を延々と北上し…、板橋区はやはり遠かった。でもその遠さも許せるくらいに、「ブルーノ・ムナーリ あの手 この手」はおもしろい展示だった。
 「旅行彫刻」と名付けられた展示物は、今でいうところのペーパーアートだ。畳めば1枚の紙、しかし切り込みに沿って折れば彫刻物のようになる。旅行先の味気ないホテルの部屋にそれを置けば、ちょっとしたインテリアになるという仕掛け。絵本にもさまざまに工夫された仕掛けがある。
 板橋区立美術館で14日日曜日まで。お薦めの展覧会。
2008年1月 9日 19:54 | コメント (0) | トラックバック (0)

 今日も暖かい夜の続きで暖かい朝である。太陽もすっきり出て、日差しも申し分ない。リビングは温室と化した。
 超早起きの日常が始まり、日の出前の6時半には目も体もしっかりと目覚めている。食事の後片付けのあい間に、里芋を煮、切干大根を煮、ごぼうを煮、きゅうりの塩もみをし、キャベツを千切りにし、夕食の下ごしらえをし…、もう1日が終わったような気分。近頃の私の口癖は「さぁ、済んだ!済んだ!」である。全ての生活時間が徐々に徐々に前倒しされ、そして「さぁ、済んだ!済んだ!」である。ちょっと怖い気もする。背中がやや曲がり前のめりになってせかせかと歩くばぁさんのイメージである。それはかなり怖い気がする。
 年が明けて1週間が過ぎ初初づくしもそろそろおしまい。ありふれた日常が続く。延々と…と考えると、それも辛い。「さぁ、済んだ!済んだ!」でそのあとはどうするつもり?と自問する。
2008年1月 8日 9:34 | コメント (0) | トラックバック (0)

文房具

 芥川賞の候補作が決まったという。選ばれた7つの作品の著者名はどれも知らないものばかり。その作品も読んでみたいという気にもなれず、芥川賞受賞作・候補作といっても、もう関心も湧かなくなってしまった。芥川賞作品といっても、読んでみようかなと思うのは昔の読みそびれた作品ばかりだ。時代の中心から確実にずれていっている。それが年をとるということなのか…とヘンに納得する。

 昨日は、串田孫一さんの「文房具52話」(時事通信社)を読んだ。文房具好きはいつの時代にもいるけれど、そして文房具コレクションのサイトもたくさんあるけれど、串田さんの選ぶ文房具はいかにも孫一さんらしいし、それにまつわるエッセイも、いかにも「孫一さんだぁ〜!」と思うようなものばかり。読んでいて楽しい。

 ペン先、吸取紙、下敷、カーボン紙、謄写版等々、今ではあまり使われなくなったものもたくさん並んでいる。あれやこれや思い出しながら読んでいるうちに、”あるもの”を思い出した。昔々、父がよくお土産にくれたものである。
 定規のように目盛りがついていて、片方の端には丸いルーペがついていて、反対側の端は細くなっていて定規全体がペーパーナイフの役目も果たす、というなんと名付けていいかわからないもの(12、3cmくらいの長さ)だった。それは会社関係のお祝いかパーティかなにかの席で配られるのか、赤いリボンで作った花飾りが必ずついていた。しかしそのつくりはちゃちなもので(たぶん、素材のせい)、ルーペの部分はすぐに曇ってしまうし、定規の目盛りは読めなくなるし、最後まで働くのはペーパーナイフ代わりの部分だけだったような気がする。
 そんなすぐにだめになるものだったが、すぐにまたお土産にくれるのである。あれはいったい何だったのだろう、もう忘れてしまったが、そのすっかり忘れていたものを思い出させてくれたのは串田孫一さんである。どなたにもお薦めの1冊だ。きっと忘れていた”あるもの”を思い出すに違いない。
2008年1月 7日 8:30 | コメント (0) | トラックバック (0)

誰のせいではなく

 それほど冷え込んでいたとは感じなかったのだが、窓の外を見ると一面に霜が降りていた。車の屋根も家の屋根も粉雪でも降ったかと思うほどに真っ白だった。マンションの谷間のわずかばかりの畑にも霜がびっしりと。しかし、今日の日中の気温は高めらしい。雪国のことはわからないが、確かにこの冬は暖冬だと感じる。
 
 よその国のことなどわからないけれど、ここまで言うのかなぁと思ったのが、アメリカのテレビのインタビューでのパキスタン大統領の発言だ。ブット元首相が暗殺されたのは自己責任だと言ってのけたらしい。「彼女だけが責められるべきであって、ほかの誰も悪くない。責任は彼女にある」…と。驚いた。
 ミャンマーのスーチーさんにしてもパキスタンのブットさんにしても(どちらも偶然?女性だが)、自分の氏素姓立場その他諸々のことを十分に自覚したうえで、自分の使命に命を賭けている人だと思う。別の生き方をすれば、もっと安楽に生きられるのに…、である。その国にそんな立場の人間として生まれたばかりに、命を危険にさらしてもやらねばならないことがあったのだろうということを理解しなければ、不注意な行動と批判するだけに終わってしまう。
2008年1月 6日 9:13 | コメント (0) | トラックバック (0)

わかる?わからない?

 若い人の部屋の本棚に「よりよい環境創造のための 環境心理調査手法入門」という本があった。本棚を眺めるのが好きで、本棚に並んだ本の背の題名をつい読んでしまう習性のある私だが、読み始めたが途中でつかえた。環境 心理調査 手法入門?環境 心理 調査手法 入門?なんだかよくわからない。環境心理 調査手法 入門、と読むらしいとわかった。しかし、環境心理というのがよくわからない。
 説明を聞いたが、イマイチ理解には至らない。建築や都市計画などに必要となってくるものらしいのだが、誰もが口にするようになるまでにはもう少し時間が必要な概念らしい。そういわれても、何となくわかったような、でも実際にはよくわからない。

 「何となくわかったような、でも実際にはよくわからない」ものは他にもある。「脳科学」がそう。コチラは、もう誰もが当たり前のように口にしているが、本当のところはいったい何なのかよくわからない。
 朝日朝刊に、文部科学省研究班による脳科学の発展に関しての調査結果(インターネットによる調査・対象は20〜69歳の男女2500人)が載っていた。脳科学の研究に歯止めが必要と答えた人は56%なのだそうだ。その実用化は望ましいが、どういう用途に使用されるかという点には不安があるということらしい。この調査結果は、やはり脳科学は「何となくわかったような、でも実際にはよくわからない」ということを示しているのではないか。脳科学者と名乗っている人がどうにも胡散臭く見えてしまうのも、「何となくわかったような、でも実際にはよくわからない」からかもしれない。
2008年1月 5日 9:52 | コメント (0) | トラックバック (0)

減量

 インフルエンザに罹らないように体力をつけておいたほうがいいのだから、エエジャナイカ♪エエジャナイカ♪という声がどこからともなく聞こえてきて、そうよね♪そうよね〜♪と調子に乗って食べていたら体が重い。今日から減量開始である。少なくとも1.5sは…できれば2sは。現在のBMIは21.79だから大騒ぎするほどのことはないのだが、私にとっては22に近いBMI値では体が重いのだ。20くらいだと体も軽く快適だ。どうやって減量するかといえば、特別な運動はしないで栄養の摂取量を減らすだけ。とはいっても、ついついチョコレートに手が出てしまう。冬はチョコレートの季節、今食べないでどうする!?…なんてね。
2008年1月 4日 9:41 | コメント (0) | トラックバック (0)

はてなスター

 新しい年、ひとつくらい新しいことを始めたい。そう思っていたところ、「はてなスター」って知ってる?と若い人から聞かれたので、渡りに船とばかり「はてなスター」を始めることにした。

 まず、無料のユーザー登録をしてから「はてなスターの設置方法」を見る。書かれているとおりにしてみたが、何事も起きない。そんなときは、それについて書かれているサイトを探すという知恵はもうついている。キーワードは、「はてなスター・Movable Type・表示する方法」だ。見つかったのはこのサイト。教えられたとおりにしてみると、あれぇ〜という間もなくできた。我がパソコンのセンセイにHELP〜!という必要もなかった。試しに自分でぽちっと押してみた。大つごもりのエントリーに星がひとつ付いた。

 類は友を呼ぶというように、このサイトに来てくださる方は私同様シャイな人ばかりのようだ。コメントはちょっとね…という人でも、★をポチッとするくらいなら…ね?
このエントリーには同感!というようなときには、気軽にポチッとしてくださいませ。
2008年1月 3日 13:40 | コメント (0) | トラックバック (0)

あの国、この国、我が国

 ミャンマーでは、衛星テレビの視聴許可料が約170倍も(支払不可能な額に)引き上げられたという。そんなことが出来るのも軍事政権だから。力ずくで国民の耳を塞ごうとしている。それもこれも軍事政権にとっての都合。驚いたけれど、本当は驚くほどのことではないのかもしれない。私が知らないだけで、そもそも軍事政権とはそういうものらしい。

 日本ではどうだろう。さまざまな制約が多くなりつつあるとはいえ、基本的にはさまざまな人権は守られることになっている。その気になれば外国が日本のことをどう言っているかを聞くのも自由、言いたいことも一応は言える。
 そんな日本でも、今のミャンマーと変わらないような時代もあった。しかし日本は変貌した。何故か…。そしてそのことが意味するのはどういうことか…。「昭和前期の青春」(山田風太郎・著)を読んでいると、いろいろなことを、これまで私にはなかった視点で見ることもできるのだ…ということがわかる。
 「戦争を知らない子どもたち」を歌っていた人たちは、もう還暦を過ぎた。いつまでも歌っているだけでよいわけはない。さまざまな国の形が現にあるなかで、日本という国がこういう国であることの意味を問いなおす必要がありそうだ。
2008年1月 3日 9:25 | コメント (0) | トラックバック (0)

明けて2008年

 明けて2008年の第1日め。よい天気。除夜の鐘くらい聞いて…と思っていたのに、気がついたら年が明けていた。朝から煮しめを作って昼食に備える。こんなことをしていて、さて今年はどんな年になるのやら。
 
 昨夜は、「昭和前期の青春 山田風太郎エッセイ集成」(山田風太郎著 筑摩書房)を読んだ。モームの唱える『世界十大退屈小説』というのがあるそうだ。有名だが退屈で読むのがとても大変な本という意味らしい。例えば、ダンテの神曲、ゲーテのファウスト、ミルトンの失楽園、バニヤンの天路暦程、セルバンテスのドン=キホーテ、トルストイの戦争と平和等々。そういった本は若いときに乱読するしかない、というのが風太郎さんの意見だ。確かにそういうことはある。
 いわゆるそういった名作といわれるようなものの新訳本が、近頃では流行である。はじめは嫌な傾向だと思ったが、現代の若い人が乱読するためにはそういった新訳本が必要なのかもしれない…と思い始めた。スタンダールの赤と黒が野崎歓訳、ヘッセの車輪の下が松永美穂訳等々、う〜ん…という気はするがそういうものなのか。もっとも出版社は光文社である。週刊誌などを出しているところじゃないかというのは偏見だろうが、老舗の出版社とはやはり感覚が違うのかもしれない。

 …というわけで、今年もこんな感じでどうぞよろしく。
2008年1月 1日 9:54 | コメント (0) | トラックバック (0)